今日の終わりに

下層の泥

今日の終わりに

『まもなく午後3時になります。皆様は、いかがお過ごしでしょうか。私は最近…』

 町の屋外スピーカーから流れ出るラジオDJの声はここ最近ずっと流れていた無機質な時報よりも温かみがあった。

 今時誰でも持っているスマートフォンを使えば、日付も時間も確認ができるのに、こうして街のスピーカーからは時刻をお知らせする放送が続けられている。

 時間は大切だ。巻き戻すことのできない時は、僕らの体を乗せたまま、刻々と「死」へと運んでいく。そんなの大げさだなんて当時のクソガキな自分は思っていたが、元気だった父が亡くなったと報せを受けた時、病室のベッドに横たわるそのやせ細った姿を見て時間の残酷さを感じた。気づけば親元を離れて10年は経っていた。振り返ればすぐそこに昔の自分がいるような短い道のりに見えて、数字にされるともうそんなに経ったんだなと考えさせられる。涙が出なかったのは僕が大人になったからだろうか。それとも、僕は元々薄情な奴だったのだろうか。

 医者から死因について聞くかどうか尋ねられたが、断った。原因が分かったところで、僕にはどうしようもない。黙って手を合わせて黙祷を捧げると、医者も隣で手を合わせてくれたのが嬉しかった。そこで少し泣きそうになった。

「先生はどうして病院にいるんですか」

 そう尋ねると、医者は驚いた表情をした。

「うーん…、建前を言えば、医者だから。本音を言うと、私にはこれ以外の生き方がなかったからかな」

 顎髭を撫でながら照れ笑いを浮かべていた。こんな時まで真面目な先生だ。

 一言礼を述べてから病院を出ると懐かしい草の匂いが鼻をついた。少しむわっとする青さが広がる。

 蔓の巻き付いた病院の看板は赤茶色の錆にまんべんなく覆われて、元の文字が「院」の字しか読めない。この土地に一軒だけしかない病院だからか、外観に気を回さなくても商売はやっていけるのだろう。競合がいないというのはそういう事である。

「ごめん、お待たせ」

 病院の外でベンチに腰かけていた彼女――ユキに声をかける。

「ううん。ちゃんとお別れできた?」

「あぁ。死化粧もしていないから最初誰か分からなかったよ」

「もうちょっとだったのにね」

「しょうがないよ。こういうのは突然やってくるんだ」

 僕は空を仰いだ。

 昨日までかかっていた厚い雲がどこかへ去り、快晴と称するにふさわしい晴れ模様だ。とは言ったものだ。神様のジョークはいつだって笑えない。

「そういえば、今日はいい天気になって、よかった…ね」

 ユキは白いワンピースの裾を弄りながらもじもじとした態度で落ち着かない様子だった。似合っているよと伝えると、あははと笑いながら鼻の頭を掻く。彼女が照れている時の仕草の一つだ。

「なんかさ、私ってこういう『いかにも女子です!』みたいな服恥ずかしくて着れなくてさ。いざ着てみたらなんかコスプレしてる気分になってきて…。でもまぁ、そっか。似合ってるならヨシ」

「うん、かわいいよ」

「ちょ!ストレート禁止!」

 僕をどつくと、ユキはぱたぱたと手で顔を仰ぎながら歩きだして行ってしまう。こういうのも彼女が照れている時の仕草の一つだ。

 その証拠に少しづつ速度を落として僕が追い付いてくるのを待っている。本当にかわいい女性ひとだ。

「待ってよ」

 彼女の隣に追いついた後しばらく無言のまま並んで歩く。

 なんてことない田舎道を歩いているだけ。それなのに、この今が愛おしく思えるのはこの時間が永遠ではないからだろう。

「今日ね、お父さんもお母さんも家で過ごすって言ってて、邪魔しちゃ悪いから出てきたの」

「それで僕についてきたんだ」

「うん。さすがに独りぼっちは嫌だなぁって思ってたら電話しちゃった。ごめんね」

「いや、むしろありがたいよ。父親の死体に手を合わせて終わりだったんだから」

 さわさわと風にそよぐ木の枝葉の隙間から太陽の光が差す。そういえばもうすぐ春になるのだと忘れていた暦を思い出す。

「何もない田舎町で退屈だろ?」

「ううん。来れてよかった。ここでヒロトは育ったんだよね」

「そうだよ。この桜並木の先に昔の学び舎があるよ」

「これ全部桜なんだ。咲いてるところ見たかったなぁ」

「そうだね。僕も見たかったよ」

 この町で唯一自慢できるのがOBの埋めていった桜並木だ。

 母が当時学生だった時に植樹されたらしいと父は言っていた。僕を産んだあと入れ替わるように死んでしまったので、僕は写真でしか母の姿を知らないが、僕が産まれたらこの桜を見せたいと言っていたようだ。子供のころ父によく連れてこられた時に母の話をしてくれたから覚えている。父の遠くを見つめる横顔と併せて。

「そこを曲がったら公園がある。ベンチもあるし、のんびりするにはいいと思う」

「校舎に行かなくてもいいの?」

「あそこに思い入れはないんだ。ただ通って帰ってくるだけの生活しかしていなかったから。それに…」

 僕はスマートフォンを取り出して時刻を確認する。彼女もそれを見て頷いた。

「うん。じゃあそうする」

 スマートフォンをポケットにしまい、彼女の少し先を先導する。

『私、田舎を飛び出してきてしまったんです。両親の許可も得ずに上京して、運よくこの業界に拾ってもらたんです。この放送聞いてるかな?お母さん、お父さん、あの時は本当にごめんなさい。どうしても謝っておきたくて…』

 屋外スピーカーからの放送で流れている音声は懺悔を始めていた。

 父に県外への引っ越しを提案した時、すぐに断られたのを思い出す。廃れていく町に残る理由が父にはあったのだろう。例えば、母の好きなこの桜並木だったり。

 当時の僕はそんなこと考えられなかったから、わがままを言って県外へ出たが、あの時の父は少し悲しそうな顔をしていたっけ。

 記憶の町と変わらない道順で公園に着くと、遊んでいる親子やベンチに腰掛ける老夫婦、ビニールシートを広げお弁当を食べている家族連れなど、まばらに人がいてそれぞれが思い思い過ごしていた。

 僕たちは空いているベンチに腰掛けて、彼女が鞄から取り出したペットボトルのお茶を回して飲んだ。

「平和だなぁ。やっぱり田舎は緑がきれいだ。それに、空をさえぎるものが何もないから空がどこまでも見える」

「けど嫌いなんでしょ?」

「そう思っていた。けどこうしてこの町に戻ってきたし、なんだかんだ僕はこの町が好きだったのかも」

「ヒロトが好きなのはたぶんお義父さんだよ」

 隣の彼女と目が合う。

 一拍間をおいて、再び公演の景色に視線を戻す。

「そりゃそうか」

「照れんな」

 ユキがいたずらっぽく笑う。

『まもなく、16時12分をお知らせします』

 一日中肉声で鳴り続ける屋外スピーカーが時報を読み上げる。同時にスマートフォンのアラームも鳴り出してうるさかったからそちらは電源を切った。

「なんだか信じられないなぁ」

 彼女がぽつりと呟く。

 その横顔はかつての父を思わせる哀愁があった。

 僕はそっと彼女の手を握る。

「へぇ、ロマンチックじゃん」

からかうように彼女は笑った。

けどどこか渇いた笑いで、手の震えからそれが伝わってくる。

「あ、忘れてた」

「なに?雰囲気ぶち壊しだよヒロト」

「愛してる」

 少し驚いた顔をした後、彼女はその手を握り返してくる。

「ん。ありがと。もう怖くないや」

 彼女は今度こそ、笑った。

 空がきらりと光って世界がまばゆい光に包まれていく。

 最初で最後に見る星の爆発だ。

『みなさん、まもなくお別れです。さようなら』

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