終幕

幽明を訪う者

 王仙羽ワンシェンユーが目を覚ましたのは、見たこともない、しかし小奇麗な部屋の寝台だった。首の違和感に全身を見回すと、右腕が吊られて胸の上に置かれている。首そのものにも包帯が巻かれていた。薬が塗られているのか、かすかな匂いが鼻を突く。王仙羽は左手をついて上半身を起こし、顔にかかる髪をかき上げると見慣れぬ夜着に目をやった。それから顔を上げ、高級そうな調度の数々を訝しげに見回す。


 ふと、廊下から足音がしたと思うと、凛冰子リンビンズが戸口に姿を現した。

「王仙羽!」

 凛冰子は大急ぎで寝台に駆け寄ると、その傍らに膝をついた。心から安堵した様子の凛冰子に、王仙羽は眉をひそめた。

「先生……ここは一体……そうだ、陳芹チェンチンは? 奴はどうなりましたか?」

黄子華ファンズーファが客間を貸してくれた。悪党から町を救ってくれた礼だと言っていたが腹の内は知らぬ。陳芹はあの後すぐに李知恩リーチーエンが来て引き取っていった。今頃冥府で裁きの真っ最中だろうよ」

 凛冰子の答えに、王仙羽はことりと首をかしげた。頭が上手く回らない。

「あの後? では今日は……」

「お前が倒れてから三日だ。全く、一体奴と何をしたのだ? 道端に冷え切って倒れていると思ったら高熱は出すわ目は覚まさないわ、右腕は折れているし、それにその首のあざはどうした? 他の傷なら霊薬を使えば跡も残らないだろうが、そのあざだけは一生残るぞ」

 凛冰子が扇子をもてあそびながら咎めるように王仙羽を睨む。王仙羽は首元に手を当て、ぼんやりする頭で少し考えたが、すぐに戦いの記憶が鮮明によみがえった。

「……そうだ。少しだけ、冥界に行っていました」

「冥界に⁉」

 凛冰子が素っ頓狂な声を上げる。さすがに顔をしかめた王仙羽にすぐさま謝ると、凛冰子は声を潜めて問うた。

「一体どういうことだ?」

 王仙羽は、陳芹との戦いの一部始終を話して聞かせた。凛冰子は扇子をもてあそびながらも黙って聞いていたが、やがて呆れたようにため息をついた。

「全く! 振り回される私の身にもなってほしいものだ!」

 すみませんと王仙羽が答えると、凛冰子はもういいというふうに扇子を持った手を振った。

「どうりで李知恩の奴、妙なことを言っていたわけだ。一体何の冗談かと思っていたが……彼奴、冥界に落ちていたとか言ってお前の剣を持ってきていたのだぞ。それから伝言も預かっているお前が奴に約束させたという、王叙鶴ワンシューフーという男についてだが」

 途端に、王仙羽は言いようのない緊張に包まれた。何も返さない王仙羽を伺いながら、凛冰子は言葉を続ける。

「あらゆる記録を調べたが、その男の記録はなかったそうだ。そんな名前は見たことがないと書記官も話していたと……だが、王叙鶴というと、あの剣客の王英雄ではないか?」

「はい……それから、私の父でもあります」

 王仙羽が答えると、凛冰子は目を丸くした。危険という危険に頭から突っ込むこの青年が、あの希代の英雄の息子だったとは——しかし同時に、彼はあるべき記録を持たない男の血を引いているということになる。凛冰子は内心首をかしげたが、王仙羽が言葉少ななのを見て取ると、そのまま何も言わずに退いた。




***




 数日後、王仙羽ワンシェンユー凛冰子リンビンズとともに町を離れた。行く先はもちろん、母の遺した碧雲観だ。

 黄子華に与えられた馬の背に揺られて、王仙羽は街道をのんびり進んでいた。その傍らには、荷物を乗せた馬の手綱をぎこちなく引く凛冰子の姿がある。二頭とも、片腕を吊った新たな主人を気遣っているのか王仙羽に対しては大人しかったが、凛冰子が近寄ると鼻息を荒げて蹴り飛ばそうとした——王仙羽がなだめすかして和解させたものの、相変わらず仲は悪いままだ。

 しかし、事が済めば陰霊城に帰るつもりなのだと思っていた王仙羽は、凛冰子が碧雲観に行くと言い出したときにはひどく驚き、思わずこう尋ねた。

「ですが……老不殤や姜洋はどうするのですか?」

「奴らがなんだ。出奔したきり戻れと命じてこないのに、わざわざこちらから戻る義理も無かろう。あんな連中、誰が好きで仕えていると思っている?」

 いつもの調子で言い返し、不穏な空気をまき散らす凛冰子に、王仙羽は折れざるを得なかった。そもそも彼は道士なのだ、鬼神紛いの化け物にされて久しくとも、やはり道観の方が居場所としてはふさわしいだろう。


「しかし、思いもよらなかったな。お前があの王叙鶴の子だったとは」

 碧雲観への旅も終わりに差し掛かったころ、凛冰子がぽつりとこぼした。

「父は、私が生まれる直前に亡くなったと聞いています。その時に、自分の行方を追うなと言い残していたそうなんです。彼も母の行く先を訪ねないから、これで夫婦の縁も義兄弟の縁も終わりだと」

 王仙羽は答えて言った。凛冰子は眉を上げて

「だが、お前は探した」

 と言う。王仙羽は静かに頷いた。

「母は、彼の行方を追うことが果てしのないことだと分かっていましたし、それは私も同感です。ですが、私はあの人に聞きたいことが山ほどあるのです。聞いてほしいこともたくさんあります。冥府に記録がないというのは、彼のあとを追う一つの手がかりに過ぎません」

「では、これからも探し続けるのだな?」

 凛冰子の問いに、王仙羽は頷いた。

「彼がよみがえっているのかいないのか、どちらかの確証が得られるまでは」

 王仙羽の言葉に、凛冰子は「良いだろう」とだけ返した。


 碧雲に白銀の羽は舞い、紅塵を渡って幽明を訪う。

 その道行きはまだ始まったばかりだ。

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幽明の訪い人 故水小辰 @kotako

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