七場 最後の戦い

 地上の気が一変し、全身にのしかかる圧迫感が一気に消え去る。王仙羽ワンシェンユーは放出された陽の気の勢いも借りて空高く舞い上がると、着地と同時に陳芹に斬りかかった。陳芹チェンチンはひらりと飛び退いて隣家の屋根に移動する。王仙羽もそのあとを追って隣の屋根に乗り移った。陳芹がせせら笑いを浮かべ、腕を振るうと、王仙羽めがけて一陣の殺気が迫ってくる。空中で身をよじり、別の屋根に着地して陳芹を見ると、その手にあったのは縄鏢だった。

「死霊術に毒、その上暗器と来たか、この卑怯者!」

「どうとでも言え。どれもわしが会得したもんに変わりないやろが!」

 声を荒げると同時に、陳芹は縄鏢を放った。王仙羽はひらりと飛び上がって避けると、陳芹に再び斬りかかった。陳芹は後方に飛びすさって袈裟懸けに下ろされた剣を避けると、回収した鏢を投げつける。カン、と鋭い音を立てて弾かれた鏢を縄を引いて手元に戻すと、王仙羽の次の一手を半身になって避けた。王仙羽の戦いぶりは何度も見ているし、その実力も知っていたが、やはり実際に相手にするとなるとやはり強敵だ。遠目には白銀の閃光だった剣の軌道も、いざ対峙すると凄まじい殺気が肌を撫ぜていくようにしか感じられない。しかし、そこは紅塵を踏んでまだ数か月の初心さと言うべきか、王仙羽には暗器使いとまともにやりあった経験がほとんどない。その一点においてだけ、陳芹の方がいささか有利に立っていた。飛んできた鏢を叩き落とそうと剣を構えた王仙羽は、縄が柄を握る手に絡みついた途端に目を見開いた。双方が己に向けて武器を引き、縄がピンと張り詰める。

「なあ、道長。あんた、この縄が何でできてるか分かるか」

 陳芹が煽るように言う。その途端、王仙羽は陳芹の背後の景色が周囲と異なることに気が付いた。こちら側とは異なる、暗く冷たい空気がここからでもひしひしと感じられる。

「わしと一緒に来てもらおか!」

 陳芹はそう言い放つと、後退すると同時に縄を思い切り引っ張った。王仙羽は防ぐ間もなくガクンと体勢を崩し、眼前に広がる異界へと引きずり込まれた。




***




 川は陰陽の世界を隔てている一つの境界だと、かつて母の琅鴛ランイェンに教えられたが、実際に異界との境目を超えた瞬間、水の中に落ちたような感覚が王仙羽を襲った。耳に膜が張ったように音がくぐもって聞こえ、陰鬱な重みを持った空気が肌を包み込む。王仙羽ワンシェンユーは縄鏢に繋がれたままの剣を見、白く発光している自身の体を見回して、額の一字巾に手を当てた。どうやら一字巾の呪文がここでも作動し、完全に冥界に飲み込まれないよう守ってくれているらしい。


 あの世はこの世の写し鏡だと言われているがその通り、屋根の上から入り込んだ二人は先ほどまでと同じような屋根の上に立っていた。陳芹チェンチンは王仙羽に巻き付けていた縄を巻き取ると、周囲を見渡して最後に王仙羽を見た。

「あの世にようこそやな、道長」

「いいのか、陳芹? あれだけ嫌っていた冥界にいるのだぞ」

「あんたこそ大丈夫なんか? 見たところお守りがあるようやが、あんまり長居すると危険やで。わしは体が永遠に向こうにあるさかい平気やが、な!」

 陳芹はそう言うと同時に再び鏢を放った。王仙羽は鏢を跳ねのけると一気に距離を詰め、陳芹に襲いかかる。重くのしかかる空気の中では、いつものように軽快に立ち回ることが難しい。余分に力を使えばできないこともなかったが、無尽蔵ではない体力が尽きてしまうと万事休すだ。早く決着をつけるに限るとばかりに、王仙羽は屋根の上を飛び回る陳芹を追ってひたすら攻撃を続けた。陳芹の縄鏢もヒュン、ヒュンと空を切って飛んではくるが、防御も取らずに攻撃を繰り出す王仙羽に圧されてきているのは明らかだ。ついに王仙羽は、鏢を弾き飛ばした切っ先を陳芹の喉元に突き付けた。

「終わりだ、陳芹。ここでお前の首が飛べば現世の肉体がどうなるか、私は知らないぞ」

「さよか。ほな、これはどうや?」

 陳芹は不敵に笑ったかと思うと王仙羽の前からかき消えた。ハッと目を見開いた途端に、気配がすぐ後ろに現れる。まずいと思った瞬間、首に縄が食い込んだ。

「ぐっ……!」

 後ろから思い切り首を絞められて、王仙羽は剣を取り落とした。両手で縄を掴み、少しでも隙間を空けようと反抗する。

「冥界に踏み込んで死んだ縊鬼いきなんて、冰仔ビンちゃん並みの珍しさやな。あんたら二人、バケモン同士でもっと仲良うできるわ」

「だ、誰が……ばけ、も……ゥぐっ、ガハッ!」

 陳芹が縄を引く手に力を込め、王仙羽は息が詰まって咳き込んだ。このままでは任務を果たせないまま、悪のひとつも討てないままに冥府の世話になってしまう。


 考えろ。考えろ王仙羽。どうすれば陳芹を連れて元の世界に戻ることができる?


 空気を求めてもがいても、そろそろ限界が近づいてきている。首に食い込む縄を防ぐ手も、力が入らなくなってきている。この縄からさえ逃げ出せたら——


 ——縄。そうだ、縄だ!


 王仙羽ワンシェンユーは、こちら側に入り込んだときのことを思い出した。おそらくこの縄は、迷屍陣で陳芹が命綱として使っていた魄縛帯はくばくたいのはずだ。王仙羽は気力を振り絞ると、渾身の力で陳芹に頭突きを食らわせた。目の前に星が飛ぶほどの衝撃が走ったが、同時に陳芹が呻き声を上げてよろめき、首を絞め上げる力が弱まった。王仙羽はその隙に足で陣を描くと、急いで「太極八卦陣」の文言を唱えた。


「陰陽は極まり、乾坤は邪を封ず」


 その途端、周囲の空気が圧縮され始める。陰の気が極限まで高まれば陽に転じる——自身の周囲を極陰から極陽に変換すれば、魄縛帯で繋がれた陳芹ごと元の世界に戻れるのではないかと考えたのだ。目がくらみ、息が詰まり、四肢から力が抜けかけるのを必死でこらえると、王仙羽は続きを唱えて陣の中心を思い切り踏み抜いた。


「太極八卦陣、起!」


 その瞬間、最大限まで凝縮された陰の気が陽の気に変わった。ただし凛冰子がやったように外向きにではなく、陣の内にいる王仙羽たちに向かって凄まじい勢いで陽の気が流れ込む。耐えがたいほどのまぶしさと圧迫感が王仙羽たちを襲ったその時。



 全身を包んでいた白い圧迫感が何事もなかったかのように消え去った。そよ風が頬を撫で、人々の喧噪が聞こえてくる。視界が慣れてくると、そこは町の屋根の上だった——ただし、この下に住む人は皆、温かい血の通った生者たちだ。

 首を絞めていた力がふっと消え、背後で何かが転がり落ちる。見下ろすと、地面に陳芹が伸びていた。だが、地面を見た途端、王仙羽はめまいに襲われた——体が傾き、次の瞬間には固い地面が全身を打つ。右腕から嫌な音がしたような気がする。それでも王仙羽は、咳き込み、右腕の痛みをこらえながらどうにか立ち上がった。首にかけられた魄縛帯を取り、口も使って陳芹の両手をきつく縛り上げ、もう一方の端を左手に何重かに巻き付ける。


 どこかから、凛冰子リンビンズの呼ぶ声がする。王仙羽は陳芹を立たせて歩き出そうとしたが、ついに精根尽きて倒れてしまった。

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