僕は自分が死ぬのが怖い

津島 結武

僕は自分が死ぬのが怖い

「僕は自分が死ぬのが怖い」



 セラピストであるあなたの前でアストラの柔らかな椅子に座る青年はそう言った。

 僕は自分が死ぬのが怖いアイム アフレイド アイ ウィル ダイ。あなたはこれが奇妙な言い回しだと思う。余命宣告された患者はしばしばそのようなことを言うかもしれないが、この青年はそうではない。ということは、将来の死への恐れを過剰に抱いているのだろうか? それにしては落ち着きすぎているようにも思える。


 青年の名前はクレイトン・ポーリー。ボストン大学に通う22歳の学生だが、その若さの割には端麗に仕立て上げられたダンヒルのスーツを見事に着こなしている。足を組んで座る静かかつ堂々としたたたずまいはアルフレッド・サージェントのブラウンの靴を強調し、まるで英国の紳士のようだった。対照的にパーマのかかった髪型は彼にミステリアスな雰囲気を付与し、癖の強い探偵のようにも見える。しかし、彼の表情はこの世のすべてを知って希望を失った哀しき哲学者のようだった。



「詳しくお話を聞かせてくれませんか?」とあなたはクレイトンに尋ねる。


「話せば長くなります」と彼は拒む形で答える。


「クレイトンさん、あなたはそれを話しに来たはずです」



 彼は「確かにその通りだ」とも言いたげな表情を浮かべ、こう語り始めた。



「時折、自分が自殺するのではないかと思うときがあるのです」



 彼には明確な特徴があった。表情変化の乏しさ、微動だにしない身体、僅かに力の入った両肩、何かを包み込んで隠しているかのような両手。あなたは彼のなかに緊張と抵抗があることを見抜いた。



「なるほど、具体的にどのように思うのでしょう?」


「たとえば、瞬きをすると暗闇のなかに首を吊っている自分の姿が浮かんできます。また、両目をえぐられている自分の姿が映るときもあります」



 低く落ち着いた声が相談室に響く。あまりにも静穏すぎるため、音だけ聞けばどちらがセラピストかわからなくなるかもしれない。



「ほう、それはいつでも?」


「いいえ、ただ特定の時間にそうなるというわけでもありません。強いて言うならば、一人でいるときに見ることが多いです」



 彼は内省的な性格のように見えるが、かといって完全に孤独な人間ではないようだ。



「なるほど、一人のときに瞬きをすると自分が死ぬ、あるいは苦しめられる映像が浮かぶのですね。ということは、眠るときにもそれを見る?」


「ええ、始めだけは。しかし寝つきはそれほど悪くありません。睡眠法には気をつけているので」



 確かにクレイトンの顔色はほかの青年たちと同じくらい、あるいはそれ以上に健全に見える。それに痩せすぎても太りすぎてもいない。つまり生活習慣に支障はきたしていないということが推測できる。

 逆に言えば、彼は急性期の状態にある可能性が高く、直近でショッキングな出来事を体験したとも予測される。しかし、急性期ならばもっと取り乱していてもいいものだ。彼がどのような状態にあるかを判断するにはまだ早計だろう。



「ということは、あなたは自分が自殺する幻影を消したい?」


 彼は首を横に振った。「いいえ、消したいとは思っていません」少し間を空けて続ける。「あれは消そうとして消せるものではありません。それはあなたも知っていますよね」



 彼の言うとおりだ。侵入的に現れる感情や思考を消すことは魔法がない限りできない。

 あなたは彼が妙に落ち着いていると思っていたが、それは彼に人の心理についての知識があるからかもしれないと思い直した。



「うむ、それではお聞きしますが、あなたがしたいことを教えていただいてもいいですか?」



 彼は少し時間を置いて言った。



「僕は死ぬことだけは避けたい。自殺で死にたくないんです」



 クレイトンは小さく息を吐くと頭を振って邪魔な前髪をどかした。


 あなたは、多くならば「死にたくなるほど苦しい」と言うところをそう言わないことについて考えた。彼は感情より行動や思考を重視する性質なのかもしれない。あるいは、ここに来た理由に関係があるかもしれない。



「死にたいと思っている自分に気づき、それに抗おうとできるのはとても勇敢なことです。ところでクレイトンさん、自分に死をそそのかすものの正体は何だと思いますか?」



 クレイトンは静かに自分の組む足を入れ替えた。それから淀んだ空気を大きく鼻から吸い込み、吐き出す。



「孤独感です。一人でいたくない。ひとりぼっちは嫌だ。そんな感情が死にたいと思わせます」



 【孤独感】あなたはその言葉をクレイトンの姿と結びつけた。



「孤独を感じているのですね。そうなるようになったきっかけはありますか? もしあれば、詳しく聞かせてくれますか?」



 クレイトンは一瞬だけ口を固く結び、すぐに緩めた。



「ええ、あります」また口をこわばらせた。今度は眉にも力が入っていた。「僕には三年間付き合ったガールフレンドがいました。その子の名前を、仮にアイボリーとしましょう。アイボリーとはとても仲が良かった。非常に長い時間一緒に過ごし、楽しいことも苦しいことも共に体験しました」


「幸せな時間を過ごしていたのですね」



 あなたは彼から派生する孤独感という視覚イメージからさらに枝が伸びるのをた。


 【孤独感】――【恋人と別れた】


 続いて二本の枝に分岐する。


 【恋人と別れた】――【振られた?】

         ――【死別?】


 あなたには【死別?】の言葉より【振られた?】の言葉のほうが大きく見えている。彼の様子から後者のほうの確率が高いと考えられるためだ。



「今、孤独感を感じているということは、彼女に振られてしまったのでしょうか?」とあなたは尋ねる。


「いいえ、振ったのは僕です」



 あなたは眉を上げた。



「ほう、どうして振ったのでしょう?」


「僕に好きな人ができたからです」



 あなたはなるほどと数回頷いた。



「よかったら、その好きな子がどのような子か教えていただけませんか?」



 クレイトンは二回手を揉んで答える。



「はい、その好きな人は、仮にリディマとします。リディマはとても努力家で、それゆえに数々の困難と直面するような女性です。自分が探求したいものに対して真摯に向き合い、それでも上手くできなくてしばしば涙を流してしまう子です」


 あなたは彼の目を見て頻繁に頷く。「良い子なのですね」


「はい、ただ決してアイボリーが勤勉でなかったわけではありません。しかし、僕は苦しみなが孤立奮闘するリディマの力に――」一瞬だけ言葉を詰まらせる。「力になりたいと思ってしまった」


「なるほど、彼女を支えたいと思ったのですね」


「……ええ」



 彼は咳払いをした。どうやらこれは話しづらい話らしい。しかし、その分悩みの核心に近い内容であるということだ。あなたの使命は彼が嫌と言わない限り彼の話を聴き続けることである。



「初めは、アイボリーと別れるつもりなんてありませんでした。リディマとは単なる良き友人として助けたいとしか思っていないつもりでした。それに、僕はこう見えて惚れっぽい性格なのです。なので、リディマを好きだと感じても、それはただの一時的な感情でしかないと考えていました。しかし、彼女を見ているうちに、僕は彼女のそばにいたいと思うようになってしまったんです」



 クレイトンは浅く呼吸をした。若干背中が曲がり、胸を苦しそうにしている。



「それだけ強い感情が動いていたわけですね」


「……いえ、それは見せかけかもしれません」



 彼は深淵から覗き返すような目つきを向けて言った。その姿は死ぬ間際に一矢報いようとする凶暴な狼のようだった。一度視線を落とし、再び落ち着いた瞳を見せる。それから足を組むのをやめて両足をぴたりと床に着けた。ただし、手を包み込むような形に維持して。



「見せかけ、というのはどういうことでしょうか?」


「それはのちほどわかります」彼は自発的に話を続ける。「それから僕はアイボリーに自分の気持ちを打ち明けました。リディマを好きになってしまったこと、リディマに対する具体的な思いを彼女に打ち明けました」


「なるほど、先にアイボリーさんに伝えたのですね。浮気に走らなかったのはとても誠実なことです。彼女はどのように返事をしたのですか?」


 彼は一呼吸した。「『別れたい?』と彼女は言いました。そのときはまだリディマと良き友人関係という形にとどめたい気持ちが残っていたので、『別れると言われたら別れる』と答えました。そうしたら彼女は『別れよう』と言ったのです」



 クレイトンは少しきょろきょろと部屋を見回す。比較的に簡素なこのカウンセリングルームに特徴的なものはほとんどない。強いて言うならば、棚に飾られているあなたの最も好きな小説か、ニトリで買った赤いカーテンくらいだ。


 あなたは「ほぉ……」と声には出さずに頷く。そして今彼が何に悩んでいるのかを思い出した。孤独感。それに苦しんでいるということは、そのあとの展開はある程度察せられる。



「……それから僕はアイボリーと僕は別れました。そして、しばらくしてからリディマに告白しました」


 あなたは彼に神妙な面持ちを見せた。「しかし、断られてしまったんですね」


「いいえ、一度﹅﹅は承諾してもらいました」



 あなたは思っていなかった返事に目を丸くする。



「ほう、ということは成功したんですか? しかし、『一度は』?」


 クレイトンは腹を針で刺されたかのような顔をした。「はい、一度はというのは、数日後すぐに振られてしまったんです」



 あなたは思わず唸りながら腕を組んでしまいそうな衝動に駆られる。なるほど、上げて落とされるというパターンか。これはそんなに多くない事例だぞ。その上精神的ショックも大きいはずだ。一筋縄ではいかない問題だろう。



「それは、とてもつらいことです。振られた理由をお聞かせいただいてもよろしいですか?」



 彼はおずおずと頷く。



「はい、実はリディマは断れない性格なんです。自分のことを差し置いて、他人に頼まれたら従ってしまうような人間なんです。それを僕は告白する前から知っていました。だから僕は元々彼女に自分には断ってもいいと伝えていたんです。僕の告白を断るという選択肢を与えるために。承諾してもらったときにも『本当に?』と尋ねていました。『断れないとかそういうわけでなく?』と」



 クレイトンは苦いものを食べたような顔をしている。当然ながら、当時は甘い体験でも暗いベールを通したあとでは楽しく味わえる記憶ではない。



「しかし、彼女は二重の網をすり抜けてあなたの申し出を受け容れたのですね」


「はい、だから本当に嬉しかった。心の底から同意してくれたとばかり思っていました」彼の口角と眉が不自然に引きつけ合う。喜びと悲しみを同時に体験しているのだ。「けれども彼女の本心はそうではありませんでした。彼女はアイボリーと僕のために嘘をついたんです」


「あなたとアイボリーさんのために……。あなたのために嘘をつくのは理解できますが、アイボリーさんのために嘘をつくとはどういうことでしょう?」


「リディマにはもう一つ心理的な特徴があったのです。彼女は些細なことでも自分のせいだと思い込んでしまう性質があったのです。だから彼女はアイボリーと僕が別れた原因を彼女自身に帰属した。そしてその罪滅ぼしのつもりか、彼女は僕たちのために自らを犠牲にし、自らを偽ったのです」



 彼は再び足を組む。彼にとって足を組むことは精神的苦痛に抵抗する手段なのかもしれないとあなたは思った。



「なるほど、そのときにリディマさんが何を考えていたのかはわかりました。ところで、これはあなたにとっても重要なことだと思いますが、彼女がすぐにあなたを振ってしまった理由をお聞かせいただけませんか?」



 彼は小さく頷く。



「はい、それは罪悪感です」


「罪悪感、というのはリディマさんのものですか?」


「はい、彼女は些細なことでも自分のせいに捉えてしまう性質があることは先ほどお話ししましたね。付け加えると、彼女は抱える罪悪感も大きいのです。彼女は僕を振るとき、僕が彼女を好きでいるのに対して自分がきちんと応えられない罪悪感に耐えられないと打ち明けてくれました」



 あなたはリディマの気持ちを理解することができた。しかし、主観的に不満のような感情を覚えた。彼女の言動に一貫性がなかったからだ。自己を犠牲にするのか、自分に正直になるのか。もちろん望ましいのは後者だが、両方が併存するのは――どちらかに偏るよりも――悲劇や破滅をもたらす。あなたからすれば、リディマはクレイトンを軽視しすぎているように思えた。

 だがカウンセリングにおいて彼女が自己中心的かどうかは問題ではない。問題を決めるのは、今ここにいるクレイトンだ。



「つまり、リディマさんはあなたのことが好きでも嫌いでもないが、あなたの好意に応えられないことがつらくて別れを切り出したということですね?」


「はい、その通りです」



 二人はしばし沈黙した。



「そのとき、あなたは何と応えましたか?」



 彼はお祈りするようにトントンと人差し指で自分の唇をたたく。それから静かに手を戻す。



「……食い下がりました。僕が何を言ったのかは、あまり覚えていません。手や声が震えて、意識が遠くなり、体の力が抜けていく感覚はよく覚えています。『好きには次第になっていくものだ』とか『僕の好意は気にしなくていいし応えなくてもいい』みたいなことを言ったかもしれません。しまいには、『三年間付き合っていた彼女と別れた人の覚悟ってわかる?』みたいなことを口走っていた気がします。そんな愚かなことを言っていた自分が恥ずかしいです」



 あなたはうんうんと頷きながら聴いていた。確かに端から見れば、彼の行いは未熟かもしれない。しかし、それを指摘したところで誰が得するだろうか。彼は肯定的に変わるだろうか? 世界はあなたが彼を指摘することを求めていない。



「つらかったですよね。一度手に入れた幸福を失ってしまう恐怖、悲しみ、苦しみ。受け容れがたい現実に対する怒りや不信。そのような状況下で平静を保つことはまずできません。死にたいと思うのも当然の反応です。そう考えればクレイトンさん、あなたはよく自暴自棄にならず、現在この相談室に来てくれました」



 彼は顔を下に向け、少しの間自分の両手を眺めた。それから陰から覗くようにあなたを見た。



「先生、僕は振られたからといって死のうとしているわけではないのです」



 あなたは寸秒固まった。



「それはつまり、話には続きがあるということですね?」


 彼はまた唇を人差し指でたたいた。「はい」


「聞かせてくれませんか?」とあなたは尋ねる。


「はい、夢を見たのです」


「どのような夢でしょう」



 クレイトンは目を閉じ、一呼吸してから話し出した。



「アイボリーが死にかける夢です。彼女が何者かに刺され、出血多量で死にかけたのです。僕は止血しようと患部を手で押さえました。しかし出血は止まらず、彼女はみるみるうちに衰弱していきました。そんななか彼女は僕に向かって弱い笑顔を向けながら『大丈夫、大丈夫だよ』と言っていました。僕は彼女を失うことが怖く、こう叫んでいました。『アイボリー、君がいなくなったら、僕は誰を頼ればいいの。僕の前からいなくならないで』と。最終的には僕が彼女に副交感神経系を利用した呼吸法を教示することによって一命を取り留めることができましたが」



 クレイトンは一通り語り終えるとふぅと息を吐いた。



「……ほお、壮大な夢を見たのですね」


「はい、それから目を覚まして、夢で叫んだ言葉が僕の本当の気持ちなのだと気づきました」視線は部屋のどこでもない場所へ注がれている。話したいことをすべて話し終えたのか、非常に消耗した顔つきになっている。


「『僕の前からいなくならないで』つまり、あなたはアイボリーさんと一緒にいたいのですね」



 彼は片手を一瞬だけ上げようとし、すぐに戻した。



「……ええ、その通りです」両眉を寄せる。「しかし、振ったのは僕です。当然、アイボリーは戻ってこない」



 あなたがクレイトンに結びつけていた【孤独感】の言葉が【アイボリーと一緒にいたいがいられない】に変わった。そして、あなたは彼にかける言葉を探した。しかし、見つからなかった。



「先生、僕はいつ自暴自棄になるのかわからないのです。今では冷静でいられていますが、不意に死のうとするかもしれません」



 そう、クレイトンの主訴は「自分が死なないようしたい」とのことだった。あなたは再び彼をよく観察した。パーマのかかった謎めいた髪型、闇を見つめるような一対の瞳、余計なものは一切口に出さなそうな唇、歳の割には非常によく似合っているダンヒルのスーツにアルフレッド・サージェントの革靴。肩の強ばりはいくらか緩んだようで、手も包み込むような形ではなく、手のひらを合わせている。そして、彼は報われぬ恋を抱えている。


 クレイトンは酸素を汚染ガスのように大きく吸い込み、二酸化炭素を泥のように吐き出した。そして、ひどく大人しやかな様子で、とても低いトーンで、死に神のようにこう言った。



「先生、僕は僕を止められますか?」



 セラピストであるあなたは、どうする?

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僕は自分が死ぬのが怖い 津島 結武 @doutoku0428

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