小説家視点②

 購入する時点で、『猿の手』かもしれないと思っていたなら、もっと早くこの発想に至っていてもおかしくなかったが、まああんな突飛な事態に陥って冷静に考えられるはずもない。要は『無限の猿定理』だったのだ。


 この定理はしばしば『猿がタイプライターの鍵盤をいつまでもランダムに叩き続ければ、シェイクスピアを書き上げる』といった形で表現される。確かに無作為に文字を並べ続ければ、いつかはシェイクスピアと全く同じ文章になるだろう、というのはありそうな話で納得できる。しかし、どうやら『いつまでも』というのは本当に途方もない時間が必要らしいが。


 ともかく、この猿の手は、この定理と同じことを、行おうとしているのではないか? と考えた。

 きっかけは文字が置き換わる場所だった。書いたそばから変わっていくわけでなく、書き終えた原稿の右から変化していると理解してからは早かった。いや、最初から変化の方向は右からだったのだろうが、縦書きの文章を読み進める向きと一致していたために、気付くのが遅れた。

 取り憑いて執筆するのを妨げてやろう、という悪意の存在だったなら、左利きな私の左腕に憑依すればいいものを、わざわざ右側に憑いている。そしてこの猿の手は右手だ。

 つまり、この右手の持ち主は、右手だけになろうとも小説を書こうとしていて、猿なりにせっせと作品に取り組んでいたってことだ。ただし、単独の力では書くのが困難だったのか、私の右手を利用して。全く、とんだお騒がせだよ。


 そして驚いたことに、改変させる文字列は私の原稿に限らないようだ。トイレで用を足していたら、壁に掛けていたカレンダーの日付がひらがなに変わっていたために発覚したが、これは困りものだ。気付かぬまま外出していたら混乱を引き起こしていたかもしれない。


 応急処置として、版が古くなった辞書を常に右手のそばに置くことにした。旧版とはいえ、使われなくなった言葉を記録しているという点では価値があり、それを失うのはやや惜しかったが、何によって改変のスピードが上下するのか、最高速はどれほどなのかが分からなかったから、辞書を用いて文字数に余裕を持たせることにした。


 めちゃくちゃにされた原稿を直しながら、時々辞書の侵食の具合を見て、書いている部分へ影響がないかを確認する。すると、いくつか気付いたことがある。


・効果範囲は右手の小指に一番近い表記である。やはり、右手にペンのような筆記具を持って改変させている、というイメージで正しいのだろう。私には何も見えないが。


・ひらがなもカタカナも漢字もアルファベットもアラビア数字も、全て改変の対象だが、変換後に使われる文字はひらがなのみであり、濁音・半濁音は区別するものの、拗音・促音は区別しないようだ。つまり、小さいや・ゆ・よ・つは登場しない。


・変化の速度は、だいたい5秒に1回だと感じていたが、私の心音と同期しているようだ。つまり、正確には脈拍5回で1文字が改変される。気付いた当初は怪奇現象に動転していたために、心拍数も上昇し、置き換わるスピードも上がっていたのだと思われる。


・一度変化した文字は再変化しない。そのため、辞書ですらいつかはすべての文字が挿げ替えられ、近くにある別の文章を侵食し始めると推測される。


 要するに、この不可思議な事象にこれからずっと付きまとわれるならば、右手のそばに常に何かしらの本を置いて、しかも定期的な交換が不可欠だと判明した。


 重い辞書を持ち歩かねばならないわけではなく、別になんの本でもいいのだから、軽くて、外で手にしていても辞書よりは不審でない、文庫本や新書でもいい。しかし、例えば文庫本だと文字数は大体10万字であり、心拍数も1日に約10万回である。ということは5日ごとに交換する必要がある。ならば、二束三文の中古本を買い占め備蓄しておけば事足りるのか?


 この事態を抑え込みたいだけならそれでもいいだろう。置き換えられた本はどんどん処分していけば、本棚を圧迫することもなく、ただ私が週に200円程度損するだけで万事解決だ。


 しかし、私が願ったのは『誰も見たことのないような小説を読みたい』であり、この手はこの願いを叶えんと、歪んだ形ではあるものの必死に頑張っている。1日に2万文字も執筆しているのに、読まずして処分するのは申し訳ない。


 では、処分せずにとっておき、毎日2万文字の進捗を読んでいくのか? それも難しいだろう。まず5日に1冊のペースで書かれていく本を置く場所に困る。そして、2万文字程度なら1日で読んでやれないこともないが、それは文意が通っている場合であり、無作為なひらがなの羅列を読み進めようとしたところで、絶対に目が滑るだろう。もし意味のある箇所が発生していたとしても、気付かず見逃してしまうかもしれない。


 そこでふと考えたのは、この怪現象はデジタルにも作用するのか、という点だった。文字数が何十万何百万だろうと、データなら嵩張らない。そのうえ、デジタルの利点として文章内を検索できるのだから、文章として成り立っている部分をすぐに見つけられるのではないか?


 ちょっとした思い付きが案外いいアイデアだったことに興奮を覚えて、衝動的にタブレット端末を買いに出かけてしまった。もちろん、右手には文庫本を持って。著者献本の余りがあって助かった、自宅には読み返したい本しか置いていないからね。


 しかし、ここまで電子機器に触ってこなかったせいか、いやそもそも苦手だから遠ざけていたのか、どちらにせよ、自分だけではこの端末を起動させることがかなわなかった。だから君に尋ねようと思ってたんだ、ほら、若者の方がこういうの詳しいだろう?


 君が来るまでは、辞書内の文字が食い止めてくれていたが、それでもいつもより創作意欲が湧いていたよ。面白い体験が出来た、というのもあるが、毎日2万字も書き上げるような相手がすぐそばにいるのが大きかった。こちらも負けていられない、と思えたね。おかげで早く仕上がって、レクチャーを訊く時間も確保できた。


 それにしても楽しみだよ。ミイラが『誰も見たことのないような小説』を書き上げる瞬間が。

 

 

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