小説家視点①

 この猿の手を見つけたのは蚤の市……ああ、フリーマーケットと言ったほうが伝わるかな? ともかく、しっかりした店とかで買ったわけじゃないんだ。そもそも売ってた側も詳細は分からないらしい。購入前にある程度尋ねたものの、蔵の大掃除をしたら見つかったがいつからあるかも知らない、記録がない。劣化も激しいから、少なくとも霊長目の腕だと思われる、サイズ的に猿のものだろう、程度のことしか言えない。


 そこで思い出したのは、『猿の手』の話さ。持ち主の願いを叶えてくれるけども代わりに失うものがやたらと重い、あの掌編小説。3つの願い事を叶えてくれる話なんて古今東西どこにでもあるけど、物語のモチーフとしてこいつだけ妙に人気だと感じるね、個人的に。『三枚のお札』じゃあ、おどろおどろしさやハッタリが利かないんだろうな。


 原作では、200ポンド、現在の貨幣価値としておよそ1000万円を願った主人公の老夫婦は、代償として息子を亡くしている。そんな呪われたマジックアイテムが実在するとは信じちゃいなかったし、むしろ何も起こらなくても話のネタになるのだから何も起こらないでくれ、とすら思いながら購入したんだよ。いや、なんだかんだで買っているのだから、少なからず好奇心があったのかもしれないね。さっさと手放したい売り手が破格値を付けていたので、財布の中身を全然考慮しなくてもよかったというのも大きいだろうけど。


 原典に則るなら、右手で高く掲げて声に出して願う必要があるらしい。そんな自由の女神像みたいなポーズを、人目があるところでするのは憚られたし、万が一本当に願いを叶え、その代償が周囲に被害を及ぼしたら困るので自宅に持ち帰ってから試すことにした。


 さて、ここでどうでもいいような願望、つまり普通にしていても幸運によってはあり得る願いだと、それが現実化したのか偶然そうなったのか判別できない。かといって、出過ぎた欲求をすれば恐ろしい対価を要求されるかもしれない。じゃあどのようなリクエストをするのがいいのか?


 別にこの腕がなんでもない単なるボロボロの剥製だとしても、このことを一度考えてみるのは創作のヒントにもなりそうだと感じたから、帰宅する間は黙々と考えたよ。いい暇つぶしになった。いや、これは見栄っ張りだな。本当は、買ったものを試したくて仕方なくて、浮足立っていたんだろう。遠足前の子供のように。


 一瞬、例えば、四角い円を作ってくれ、とかを頼むと全能のパラドックスを起こすのか、という考えが脳裏をよぎったが、仮に実現してしまった場合に何が起こるのか想像もできないし、四角い円が出来たところで、こちらになにも得がない。そんなことのために代償を払う覚悟は持ち合わせてない。


 結局、いいアイデアも浮かばなかったものだから、自分の心のままに、よしんば本物であり代償を要求されても悔いのないような望みとして、『誰も見たことのないような小説を読みたい』と願ってみた。


「読みたい、ですか? 書きたい、執筆したいじゃなく?」

 そうさ、小説家である前に読者だからね。自分で書いているのだって、この世界にまだ生まれていない新たな物語を読むためでもある。美食家が食べるだけに飽き足らず、自分の手で料理をし始めるようなものだよ。

 さて、願ってすぐには変化は訪れなかった。まあ、そもそもただの剥製でしかないのが普通だし、仮に本物のマジックアイテムだったとしても、原作通りなら次の日に叶うはずだからね。その日はなにもなく就寝したよ。


 気付いたのは次の日の執筆中だった。

 僕は左利きだから、縦書きの原稿用紙には向いていてね。むしろ、学生の頃は国語以外の授業のノートを取ると、手が汚れていくもんだから億劫で仕方なかった。そう思うと、消去法的に文学への興味を抱いたのかもしれないな。


 左手に鉛筆を持ち、右手で紙を押さえながら書き進める。すると、昨日のうちに書いたはずの部分に書き損じがあるのを見つける。いや、書き損じというのは、似ている文字や同音異義語を混同してしまって起こることだが、そんな間違え方じゃない。書いた本人である自分ですら、どんな内容を記したのか忘れてしまうぐらいにメチャクチャになっていた。


『えううてげおゆをんよねとらぜふへろよんあぷむるおにいとやはる──』といった具合の、文章とはとても言えない文字の羅列が続いている。当然こんなものを書いた覚えはない。しかし、間違いなく私の筆跡ではあるのだ。もしやボケが始まったのか?


 まさか、猿の手によって悪魔かなにかに憑かれ、夜の間に夢遊病のように書き進めたのか? なんて考え、この一見無意味な文字列にも意図があるのかと読み進めようとした刹那、目撃した。

 自分が書いた文字が、別の文字に置き換わる瞬間を。


 血の気が引いた。数秒、呼吸を忘れた。そんなはずがない、見間違いだ、そう思いたくて、置き換わった文字を凝視していると、その隣の文字も変化した。書いた元の字の一画一画が蠢き移動しいくつかは消滅して、ひらがなの『ぎ』になった。思わず原稿用紙を放り出した。

 夢遊病なんかじゃない、たった今、現在進行形で文章が侵食されている! 取り落として原稿用紙は机の下に行ってしまったが、あれに再び書き進めようという気にはなれなかった。もはや得体のしれない物体と化したあの紙が、ひとりでに動いたりしないかを確認し、一刻も早く遠ざけたくて、拾い上げてグシャグシャに丸めてゴミ箱に入れた。

 そう、この時点では、おかしくなったのは原稿用紙だ、原稿用紙が悪さをしているんだ、と考えていたんだ。だってそうだろう? 既に記された文字に関係するものなんて、書いた鉛筆か書かれた紙かぐらいしかない。だから次にとった行動は、これから使うつもりだった原稿用紙や、既に書き終えている分の確認だった。

 同時に鉛筆も確かめる。さっきまで使っていたものだが、猿の手によって悪影響を受け、したためた内容を勝手に改変するような呪物になってしまったのか? と、まっさらな用紙に試し書きする。咄嗟に書くような内容も浮かばず、狼狽した心情をそのまま吐露するような殴り書きを数行ばかり続けて気付く。用紙の右上から既に変貌を遂げていることに。

 鉛筆も投げ捨て、書き終えた分を引っつかんで確認する。よかった、これらは無事だ──そう思っていたのに、みるみる意味のない文字の羅列に豹変していく。思わず原稿を握りつぶしてしまう。


 このへんになってくると、もちろん怪現象への恐怖もあったが、だんだんと焦りと絶望が頭をもたげてきた。もしかして、私はこれから一切執筆ができなくなってしまったのではないか? という考えが振り払えない。

 そうだ、こうなった原因は? 猿の手だろう? ならば、願いはまだ2つ残っている! 元の物語でも、願いを取り消すのは可能だった! と思い至って、すぐさま猿の手を取りに走る。

 やはり猿の手になんて願うのではなかった、これの何が小説だ? 見たこともない超常現象ではあったかもしれないが。やはりろくでもない形でしか叶わないのだろうな、さっさと取り消させてもらおう──と、猿の手のもとにたどり着き、躊躇いなくむんずと右手で掴み、掲げて願おうとした。


 した、が、ある可能性に気付いて腕を下ろす。

 気が急いていたのでしっかり見ていなかったが、ひょっとすると──と改めて猿の手を見つめると、やはり、思った通りだった。劣化が進んでいるとはいえ、このミイラは間違いなく『右手』と分かったために、納得して、すんでのところで取り消さなかったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る