「善悪と脱構築」

 植松聖の主張を否定すると、『偽善者だ』といわれることがあるが、此処において、『善と悪』というシニフィアンとシニフィエの狭間に夾雑する恣意性の問題が現前する。


『わたしの説に異議を唱えるかたもいらっしゃるだろう。が、すこしかんがえてほしい。「あなたはわたしとおなじ問題について、わたしとおなじだけの時間をつかって、必死に頭脳をはたらかせたことがあるだろうか」』というように獅子吼したのは、オルテガだったはずである。


 其処で、『善と悪』『偽善と偽悪』について物語るのならば、『道徳の規則は天体の運動のように正確である』と遺したカントの『道徳形而上学原論』を引用するのもよいだろう。


 が、此処では諸説紛紜しているカントの道徳論まで敷衍することなく、簡略に、デリダのディコンストラクションの理論を引用したいと存じあげる。


 説明すら不要かとおもわれるが、デリダによれば、『すべての階層秩序的二項対立は、正義という概念をのぞいて脱構築可能』である。


 此処でよく誤解されるのが、此処における『正義』というシニフィアンが、『隣人愛』や『世界平和』といった、既存のシニフィエと接続されているのではないかという点である。


 実際のところ、デリダによる『正義』という概念の定義は、『完全なる他者の肯定』である。


 此処における『他者』とは、無論、われわれにとっては『植松聖』でもあり、植松聖にとっては『障碍者』でもある。


 此処で寛容のパラドックスというメビウスの環が生じるが、前提として『他者』を否定したのは植松聖であり、愚生は、それを『贋物の正義』と見做して、植松の理窟を瓦解せしめんと冀っているわけである。


 つまり、『植松聖にも生きる権利があるし、植松聖が殺めたかたがたにも生きる権利があった』という、逆説的な結論にいたることとなる。


 ――総括


 此処まで、政治学、経済学、法律学、哲学というふうに、各論点において、とりあえずは、植松聖の思想に関聯して、反駁までは出来なくとも、論点を深掘りする手助けにはなれたのではないかと存じあげる。


 まだまだ、この問題については、多面的な視座から論じられるかもしれないが、浅学菲才の愚生なりに、出来るかぎりの筆舌はつくした。


 其処で、本論を敷衍するか否かはともかく、此処で一旦、擱筆させていただきたく存じあげる。


 愚論におつきあいいただき、ありがとうございました。

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『純粋『障碍者差別』批判』エッセイ(『九頭龍一鬼はかく語りき』特別篇) 九頭龍一鬼(くずりゅう かずき) @KUZURYU_KAZUKI

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