「障碍者と人権否定」

 これは、植松自身が主張していたのかはわからないが、植松支持者のあいだでは、しばしば、『障碍者はひとを殺めても無罪になるから卑怯だ』というような言説が目立つ。


 愚生は、アマチュア小説家として、小説にリアリティを醞醸せしめんがために、しばしば、法律学の勉強もしてきた。


 然様な程度の知識なので、明鬯たる誤謬があるかもしれないが、前述の問題を、法律学的に解釈してみたい。


 障碍者がひとを殺めても無罪になるのは、単純なはなしであり、『障碍者には人権がないから』である。


 旧帝國憲法および旧帝國刑法は全文瀏覧したことがないので、第何条が論点になるのかは闡明できないが、おそらく、明治維新嚮後、現独逸におけるワイマール憲法(註:一盃口様の御指摘どおり、正確には『プロイセン憲法』です。一盃口様、御指摘ありがとうございました)を模傚して旧帝國憲法そのほかが編まれた爾時から、障碍者の人権は確保されていなかったと存じあげる。


 というのも、現代の日本国憲法でも、国民の基本的人権が防禦されているにもかかわらず、以下六法においても、障碍者の人権は抛擲されているからである。


 法律の歴史――フーコー風にいえば『法律の考古学』――についてはともかく、『なぜ障碍者に人権がないと、ひとを殺めても裁かれないのか』というと、はなしは単純で、『人権のないものには「裁判を受ける権利」がない』からである。


 想像してほしい。


 善男善女である読者諸賢が、偶然にも軽犯罪に抵触することになったとしよう。


 爾時、読者諸賢に人権があれば、裁判を受けて、『法律の規定どおりの罰以上の罰』はくわえられない。


 が、人権のない障碍者たちは、『刑法三十九条で無罪』とされたうえで、人権がないので『超法規的措置』がとられ、実質上、終身刑の存在しない日本でも、医療刑務所などに一生涯幽閉されることがありうるのである。


 紙幅の関係であまり追窮はしないが、もうひとつ申し上げておくと、犯罪というわかりやすい場合のみならず、障碍者はつねに人権が存在しないがための受難を甘んじている。


 一例が、障碍者専用のB型の作業所である。


 障碍者雇用の現場では、アルバイトとして雇用してもらえれば万万歳なほうで、ほとんどの障碍者は、就職後半年以内にギブアップして、よくて、作業所勤務となる。


 この作業所では、地域によって値段は千状万態であろうが、『障碍者に人権がない』ために、『法定最低賃金以下』で労働させられる。


 愚生のしらべたかぎりでは、フルタイムで労働して、月給一万数千円がいいほうだとおもわれる。


 つまり、『障碍者は健常者とおなじだけ働いて、やっと毎日の昼食代をまかなえる』状態なのである。


 ほかにも、障碍者に人権が存在しない例をあげれば、『障碍者が犯罪をおこしても法律で裁かれない』ことが『だれにとっての悲劇』なのかは明鬯たらしめられるであろう。


 ――予告


 次回は、メタ的視座において、『結局、これらの理窟は偽善ではないか』という問題をかんがえてみたい。

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