「人間の発見と障碍者の生産性」

 フーコーといえば、『人間は死んだ』という言葉で有名だ。


 厳密にいうと、『人間が発見されたのは二百年ほどむかしで、人間というエピステーメーはもうすぐ終焉する』ということだ。


 フーコーによれば、われわれの時代をかたちづくる概念=エピステーメーは、現代までに、みっつ発見されている。


『類似』『表』『人間』である。


『類似』と『表』については、説明する遑がないので筆舌をつくさない。


 此処でいう『人間』が発見されたのは、アダム・スミスの経済学においてである。


 愚生は経済学に造詣がふかくないので、アダム・スミスのいずれの著書が『人間』の発見となるのかは断言できないが、スミス以前の経済学においては、『富や流通』に関しての研覈はあっても、労働者である『人間』についての考覈はなされていなかった。


 其処に、『人間』という概念をもちいたスミスの経済学が誕生し、時代は劃されるわけだが、話は前後する。


 というのも、経済学と『人間』の関係といえば、読者諸賢はマルクス経済学を髣髴されるであろうからである。


 たしかに、マルクスによれば、資本主義経済が発展すると、人間は労働から疎外されるという。


 此処で問題となるのは、マルクスの理窟云云ではなく、マルクスをふくめ『現代思想は基本的に経済学である』ということである。


 つまり、十九世紀末葉に、ニーチェが登場し、『絶対的な真理は存在しない』と闡明したことから、(ヘーゲルが予想したものとは相違するかたちで)『哲学』は終焉をむかえ、『思想』がはじまったのである。


『現代思想』の代表者は、あるいはマルクスであり、あるいはフーコーであり、ドゥルーズ&ガタリであり、ボードリヤールであった。


 此処で注目したいのは、歴史的に(フーコー風にいえば考古学的に)みて『現代では経済から人間が排除された』のではなく、『現代でははじめて経済に人間が享受された』といえるのである。


 その歴史の濫觴が哲学的にみれば百年前のニーチェであり、逆説的だが(つまり、ニーチェが登場した御蔭でフーコーが登場することになり)、経済学的にみれば、フーコーのいうように二百年前のスミスであったわけである。


 此処から明鬯とされるのは、『障碍者は生産性がないので、経済学的に有害である』という植松の主張は、二百年以上曩時の経済学者と同様に『あきらかな無知』からの着想であり、『現代思想のながれでは、経済学よりもメタ的に人間が物語られて』いるということである。


 余談だが、『では人間が終焉したのちのエピステーメーはなにになるのだ』というと、フーコーは明記していないが、フーコーがニーチェから影響をうけていたことを考覈すると、ツァラトゥストラのいうように『超人』の時代が到来するのではないか、というのが通説である。


 ――予告


 次回は、専門的ではないが、法律学的に、『障碍者に人権がないこと』についてかんがえてみたい。

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