第9話 表現の自由ってなあに その6
「お、おんりーイベント……? ってなに?」
「あっ……」
と言って、パパは慌てて自分の口を手でおさえました。
どうやら口を滑らせたということのようです。いつものパパらしくもなく、ひどく目が泳いで額には冷や汗が浮かんでいます。
(あ。しまった)
タケシ君はすべてを察しました。
「わかった、大丈夫。聞かないよ」と言い、さらに
「ママには言わないから安心して、パパ」とも言い添えました。
つまり今日のママの大切な用事というのは、その「オンリーイベント」とやらに参加することだったようです。きっとまた、キャラクターとキャラクターの名前の間に「×」の記号が入った、タケシ君にとっては謎の多い薄い本がたくさん売られたり買われたりしているのでしょう。
ママはそういう本を沢山買うだけじゃなく、実は自分でもこっそりと作っています。タケシ君は薄々勘づいているのですが、敢えて口にはせずに静観しているだけなのです。
でもここはパパのため、そして自分自身の保身のためにも「わからないふり、知らないふり」を決め込むこと。これ一択なのです。
子どもって、そんなものです。あまり子どもの観察眼と判断力をバカにしてはいけないのですよ、大人のみなさん……なんて思ってみたり。
「そ……そういえばさ」
と言ったタケシ君の声は、どうしてもうわずっていたかもしれません。なんとか話題の方向性をずらそうとするとき、どうしてもこうなってしまうのです。どうもタケシ君には、嘘をついたり話をごまかしたりする才能もないようです。
「このあいだの冬のコミックマーケット、うまくいったみたいだね。ニュースで2年ぶりだって言ってたよ」
「あ、ああ……そうだなあ」
パパ、あからさまにほっとした表情です。タケシ君の投げた絶妙……というにはちょっと微妙な
一応、すっかり冷めたコーヒーをいそいそと淹れ直すそぶりを見せているのですが、まだまだ挙動不審です。息子には見えていないと思って「ふう」なんて額を
タケシ君、意識的にパパから視線をそらすよう気をつけながら言いました。
「今年のお客さんはあんまり多くなかったって。でも、テレビで見たけどあれで多くないの? 一日十万人ってすごいなーと思ったけど」
「ああ。パパもSNSで公式が出した画像をみたけど、普通に考えたら少なくないよね。でも例年にくらべるとずいぶん減ったって話だよ。大体、いつもの四分の一ぐらいかなあ」
「そんなに!?」
「うん」
十万人が四分の一ということは、普段なら一日で四十万人の人がつめかけるということです。おどろきです。
確か前に調べたとき、東京ドームの収容人数が五万五千人だったと思います。一日でその7~8倍の人たちがどっとやってくるイベント。それが夏コミ・冬コミなのです。
「今回は事前のチケット販売があって、それがないと入場できなかったし、入場時間の制限もあってね。そういう、いろんな疫病対策がしっかり取られたおかげだね。……ああ、でもタケシ」
「なに?」
「夏コミや冬コミの来場者は『お客さん』ではないんだよ」
「え? そうなの? じゃあなんなの」
「この同人誌即売会では、同人誌を売る方も買う方もみんな同じく『参加者』と言われるんだ。みんなで何かの同人活動を盛り上げるため、このイベントをともに創り上げていこう、という人たちってことだね」
「ふーん」
「いろんなルールもきちんと決められている。なかなか厳しいものだよ。いわゆるレイティングに関しても厳しい。スタッフによるチェックが入って、明らかにR18の作品を載せているのに、そういう表示をしていない本は売ることができなくなるしね。もちろん、そういう本を18歳未満の人に売ったことがわかったらアウトだ。ペナルティもある」
「へー! そうなんだ」
「買う側の人も身分証の提示を求められる。たまにルールから逸脱する人も現れるけど、きちんとスタッフに対応されて、これまではおおむね大きなトラブルもなく開催されつづけている。確か今回の冬コミで、夏冬あわせて99回目だったはずだ」
「ひぇー! 夏と冬の二回だけってことは、じゃあもう何十年もやってるってこと?」
「そういうことになるねえ。なにしろ、パパが生まれる前からあるイベントだからね」
「へえ! そうなんだあ……」
ということは、オタクの歴史というのは、意外に古いものなのかもしれません。
オタク大国、ニッポン。海外からも、あちらではあまりおおっぴらにはできない本やグッズを手に入れるために多くの外国人がやってくるそうです。
実はパパもママも、この毎年2回ある大きなイベントだけは外せないそうです。
本当は「真のオタクなら全日いくべき」などと言う人もいるようですが、パパとママは子ども──つまりこの場合はタケシ君ですね──が生まれてからは、ふたりで交代で参加するようになったそうです。
どうしても欲しい本がある場合はリストを渡して、お互い代わりに買ってくるようにしています。
「ねえ。でも、コミックマーケットに子どもを連れてくる人もかなりいるんじゃないの?」
「うーん。まあ、そうだね。タケシも知っているとおり、パパとママは話し合って『タケシが小学生の間はやめておこう』ということにしたけど、幼児や小学生づれの人もわりとよく見かけるんだよなあ……」
パパは淹れたてのコーヒーを持ってきてまたソファに座りました。
「実際、危ないからやめたほうがいいなと思ってるんだけどね。迷子にもなりやすいし。大きな荷物を持っている人が多いし、お目当ての本を手に入れようと焦っていて、周囲をあまり見ていない人もやっぱりいるし。子どもは小さいから見えにくくて、知らずにバッグで顔を殴ってしまうこともあるだろうし──」
「うん。そうだよね」
実はタケシ君は小さい頃、ひとごみで似たような目に遭いそうになったことがあるのです。一度はカバンでしたが、ある時は歩きタバコをしている人のタバコが、もうすこしで目のあたりに当たりそうになりました。
小さかったのであまりよく覚えていませんが、ママはいまだに思い出して「あれは本当に怖かったわ」と憤慨しています。
「それにね。R18作品については、さっきも言ったようにコミックマーケット準備会がきちんとチェックしてるけど、R15以下についてはそうではないからね……。親としては、まだ小中学生の子どもになんのゾーニングもなしに無制限に多様な作品に触れて欲しいとは思えない。……そうは言っても、何らかの方法で見てしまったりするもんだけどさ、子どもっていうのは」
「……はは。いや、僕はしないよ、そんなこと」
「うん。タケシが真面目な子でほんとうに助かるよー」
とパパが笑った時でした。パパのスマホがティロンと鳴りました。
「あっ。ママ、そろそろ帰ってくるみたいだね」
「え? そうなの? いつもは友達と晩ご飯やカラオケしてきて遅くなるのに」
「今日はお友達に用事があるんだってさ」
「ふーん」
こうしたイベントは大抵4時ごろには撤収なのです。
ちらっと覗いてみると、パパのスマホにはいわゆる「戦利品」を抱えてほくほく顔のママの写真が大写しになっていました。
タケシ君、苦笑してしまいます。
こういう時のママ、ほんとうに子どもみたい。
「じゃあ、そろそろ晩ご飯の用意をしようか」
「うん」
そうしてふたりは、いそいそと今日の晩御飯の準備にとりかかりました。
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