第03話 お隣さんに街案内②

 バスに乗って移動すること二十分。

 俺と美澄は、住宅街を離れて街の方へやって来ていた。


 車道は三車線と大きく、高さ様々なビルが立ち並んでいる。

 駅、ホテル、デパート、大型ショッピングモールに映画館と揃っているこの辺り。


 しかし、俺たちが訪れたのはそのどこでもなかった。


 清潔な白色で満たされた空間。

 巨大でありながらどこか静謐としたこの場所は、病院だ。


 そして今、俺達はエレベーターで階を昇っていき、ある病室の前までやって来ていた。


「えっと、俺はこの辺で待ってるから――」


「――いえ、遠慮せずに入ってください。お世話になってる津城君のことを、おじいちゃんにも紹介したいですし」


 場違い感凄いからあんまり入りたくないんだけどと思いながらも、美澄が俺の右腕をキュッと掴んだまま離さないので、仕方なく俺もお邪魔することにする。


 ノックを二回すると、中から「どうぞ」としゃがれ声が聞こえてきたので、音のしないスライド式のドアを開く。


「おぉ、紗夜ぉ~! 来てくれたんか~って、誰じゃ貴様ぁあああッ!?」


「――ちょおいッ!?」


 入室した途端、孫を溺愛するおじいちゃんのあまあまな声が聞こえたかと思いきや、それが一変。

 美澄の隣に立つ俺が視界に入った瞬間、手元の枕をその手に掴み、見事なオーバースローで投擲してきた。


 なんとか顔面の前で受け止めることに成功した俺だったが、ありったけの殺意が込められた一投だったため、枕であったことを忘れて、首から上が吹っ飛ばされるかと思ってしまった。


「ちょ、おじいちゃん!? だ、大丈夫ですか津城君。今何が起こったんですか!?」


「あぁ、いや。なんか枕の砲弾が飛んできた……」


「ま、枕!? もうおじいちゃん! 何てことするのっ!」


「そこを離れろ紗夜ぉ! そのケダモノをワシ自らはらって見せようッ!」


 どうやらこの爺さんは、俺のことを美澄にちょっかいを出そうとしている男と認識したらしく、ベッドから降りると、すかさず松葉杖を手に取り剣のように構える。


「ず、随分と元気そうな爺さんだな……?」


「ほ、本当にごめんなさい津城君……」


「こるぅぁあああッ!? ワシの許可なくワシの紗夜と話すでないわ、このれ者がぁッ!」


 そう喚き立てて、爺さんが物凄い勢いでこちらに駆けてきたのだが――──


 プチン……と、聞こえるはずのない、何かが切れる不穏な音がした。


「おじいちゃん、ええから一回黙って。そうせにゃ、私らもう帰るけんな」


 底冷えするような声だった。

 いつも穏やかな顔を崩さない美澄だが、このときばかりは瞳からハイライトが消えており真顔。


 そんな訛りのある言葉を隣で聞いていた俺は、背筋に冷たいものすら感じてしまった。


 迫って来ていた爺さんはそれを聞いて直ちに急ブレーキ。

 スリッパの底を床にキュルルウと滑らせながら、それはもう洗練された動きで正座に座り込み、両手と額を床につけた。


「ようこそおいでくださいましたな、お坊ちゃま。どうぞゆっくりしていってくださいな」


「は、はあ……」


 これほどまでに手の平返しな土下座は初めて見たし、孫に怒られて土下座する祖父ほど哀れなものはないと知ってしまった。



◇◇◇



「なんじゃ、その……悪かったな、坊主」


 ベッドの上で上体を起こした爺さんが、居心地悪そうに頭を下げる。

 そして、俺の隣に腰掛けていた美澄も「私からも謝ります」と深く頭を下げてきた。


「いやいや、別に気にしてないんで大丈夫ですって。美澄も、頭上げてくれ」


 一時の騒動のあと、美澄が俺のことは世話になっている隣人と説明してくれたのだ。


 正直爺さんは心の底から納得しているようには見えなかったが、どうやら美澄に怒られるのが怖いらしく、おとなしくなっていた。


「まったく……おじいちゃんまだ身体に麻痺が残ってるんでしょ? 安静にしとかなきゃ」


 ま、麻痺?

 枕を豪快なオーバースローで正確に俺の顔面に飛ばしてくるこの爺さんが麻痺してるだと?

 最後なんか、松葉杖を構えて全力ダッシュしてましたが……?


「そうじゃな。リハビリのお陰でだいぶ良くなってはきたが……まだ右手が痺れておってなぁ」


 嘘だろ!? とツッコミを入れたくなるのを喉元で必死に我慢する。


「じゃが紗夜、くれぐれも気を付けるんじゃぞ? お前は可愛い。いつ男が襲い掛かって来るやもわからんからな」


 そう言って、チラリと俺の方を睨んでくる爺さん。


「いや、心配しなくても襲ったりしませんって。美澄とはただの隣人ですから」


「なんじゃ貴様! 紗夜が可愛くないとでも言いたいのかッ!?」


「い、いや、そうじゃなくてですね……」


「それとも何か。貴様は早くも枯れておるのか?」


「違うっての!」


「じゃあどうなんじゃ。紗夜を可愛いと思っておるのか」


「ちょ、ちょっとおじいちゃん!?」


 頬を赤らめた美澄が、爺さんの質問を止めようとするが、そのときにはすでに俺の口から答えが出てしまっていた。


「まあ、可愛いですよ。そりゃ」


「つ、津城君……!?」


 バッと勢いよくこちらに振り向いて目を見開く美澄。


 そう驚いた表情をされても困るのだが、美澄を見て可愛いかと十人が問われれば、全員が首を縦に振ることだろう。


 それに、もしここで「いや、可愛くないですね」などと言おうものなら、間違いなく爺さんに殺されるのは目に見えている。


「ほれみろ紗夜。こいつも所詮は男。お前のことをいかがわしい目で見ておるではないか」


「いや、可愛いと思うのとそういう目で見るかは別問題でしょ。俺はただ単に美澄が可愛いと思ったからそう答えただけで、だからどうこうしようとはまったく思ってませんよ」


「ふ、二人とももうやめてぇ……っ!」


 プルプルと肩を震わせた美澄は、両手で顔を覆って蹲ってしまっていた。

 

 まさかそんなに恥ずかしがるとは思っていなかったので、俺も少し居たたまれない気分になってしまう。


「そうじゃ紗夜。お前こそ目の調子はどうじゃ? 少しは良くなったのか?」


 俺達の気持ちなど知らんとばかりに、爺さんは新たな話題を出してくる。


 すると、美澄はまだ少し紅潮したままの顔を持ち上げる。


「ううん、全然」


「そうか……」


 目を伏せ、肩を落とす爺さん。


 この部屋に重たい沈黙が流れる。


 しかし、俺はほぼ無意識にその沈黙を破ってしまっていた。


「良くなるんですか……? 美澄の目って、良くなるんですかっ?」


 すると、爺さんは俯かせていた視線を俺に向けた。


「まぁな。どうして紗夜の目が見えなくなったのかは知っておるのか?」


「えっと、過度なストレスが原因の視力障害だとは」


「そうじゃ。その抱えたストレスさえ緩和されれば紗夜の視力は戻ってくる」


 その爺さんの答えを聞いて、この胸の内に広がる感情は何だろうか。


 多分、嬉しいんだ。


 自分のことじゃない――まだ出会って間もない隣人のことなのに、俺はなぜだか安心してしまった。


 ――希望の光はあるんだ、と。


「津城君? ボーっとしてどうかしましたか?」


 こちらを向いて不思議そうに小首を傾げている美澄。


「ん? あぁ、いや、何でもない」


 俺はなんだか少し可笑しくなってしまって、肩をすくめてそれを誤魔化した――――



◇◇◇



 しばらく美澄とその爺さんと話してから、俺と美澄は病院を後にした。


 帰り際、爺さんが美澄に「また来てくれよぉ~?」と泣きついている姿がまだ頭の中に残っている。


 少々行動が過激だったりはしたが、孫思いの良い爺さんというのが、俺の中でのあの爺さんの印象だ。


「このあとどうする?」


 丁寧に舗装された歩道を歩きながら、俺の右腕に手を掛けて歩く美澄にそう尋ねる。


「あの、少し小腹が空きませんか?」


「ああ、確かに」


 左手首につけたアナログ式の腕時計を確認してみれば、時刻は三時過ぎ。


 俺は昼前に遅めの朝食を一回取っただけなので、確かにそろそろお腹が空いてきた。

 美澄も似たようなものだろう。


「じゃ、じゃあ私、行ってみたいところがあるんですがっ!」


「お、おう」


 美澄のテンションが少し高いように感じるのは気のせいではないだろう。


 ちょっといいですか、と立ち止まって、肩に掛けたカバンからスマホを取り出し、操作し始める。


 美澄が画面を顔に近づけたり、文字を拡大したりすること数十秒。


「こ、ここに行ってみたいですっ!」


 俺は向けられた美澄のスマホの画面を見て、その場所とここからの道順を確認する。

 

「オッケー。んじゃ、行ってみるか」


「は、はい!」

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