第53話 ヒロイン

 彼の口から放たれた言葉が信じられなかった。毎日夢に見ていた日向が、いま目の前にいて、こうして直に声が聞けて。それだけでも十二分にしあわせなのに……。

「私……」

頭が真っ白になった。もう一度ちゃんと話せたらしっかり伝えようと思っていたことはあったのに、今は何も思い浮かばない。

「私、料理もまともに出来ないし、洗濯機も使えないし、掃除も得意じゃないし、すごくワガママだし……。それに日向が疲れてることにも気づけないし、そんなときに元気づけるようなことも、何もしてあげられない……」

口を開けば、自分の嫌なところばかりが言葉になって溢れ出してくる。

「それでもいい」

「え?」

彼の優しい声が鼓膜を揺らした。あまりに優しくて、暖かくて、つい聞き返してしまった。

「それでもいいんだ。僕は、飛鳥がただ隣にいてくれるだけですごくしあわせだし、すごく嬉しい。心が休まるし、ここがあったかくなる。飛鳥が側に居てくれるだけで、こころが、からだが、すっごく落ち着く。それだけで十分だよ。十分すぎるよ……」

日向の温かい言葉が凍てついた私のこころに寄り添ってくれて、徐々に凍り付いた心を溶かしてくれた。

「僕は飛鳥のいちばん居心地の良い人になりたい。デートも、ツーショットの写真もなくたっていい。これからの人生、ずっと僕と歩んでくれませんか?」

 ――プロポーズみたい

反射的にそう思った。

 ――これからの人生って……

規模が大きすぎて笑ってしまいそうだ。

 でも、いつも几帳面なのに、こういう時に話の規模が信じられないくらい大きくなる日向が愛おしくて大好き。だから、私の答えは決まっている。

「もちろん……」

私は自らの意志で日向の胸に飛び込んで、声を上げて泣いた。時間がどれだけ経っていても、目の前のこの光景が信じられなくて。目の前に日向がいてくれるこの状況が本当にうれしくて。完全に諦めていた聖なる夜を、大好きな日向と過ごせて。すべての夢が今日、叶った気がした。

 これはまるで、日向にもらったあの本みたいだ。


 クリスマス・イブの夜。主人公は全日本の選抜に選ばれて代表合宿に参加するため東京駅にいた。

 対してヒロインはこの日、親の都合でフランスに旅立つため羽田空港にいる。

 主人公にとっては、この合宿の結果如何で日の丸を背負う選手になれる大事な日の出発地点。でも、ヒロインと決別してしまう終着地点でもある。

 そんな難しい天秤を抱えて、合宿所までのバスに乗り込む瞬間。主人公は一気に踵を返して、走り出した。距離は20キロもある。普通なら諦めてしまう距離を、主人公は全力で走った。ただ“ヒロインに会いたい”という純粋な気持ちだけを持って。

 季節に合わない大量の汗を流して、肩を弾ませて、真っ赤な顔をした主人公は警備員の制止も振り払って遠ざかるヒロインの背中に向かって声を上げる。肩を掴まれて、体勢を崩して、それでも前に突き進んで。主人公は、涙を流すヒロインを力強く抱き締める――。


 難しい天秤を抱えて、大事なものを見失って。自分の過ちに気づいて、愚かさに悩んで。それでも、本当に大切なものを守りたくて、ヒロインのところに走り出す。本当に、その小説の終末に似ていた。

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