第22話 本心

 飛鳥が脱衣所から出ていく音を聞いてから、浴室の扉を開いてスマホを手に取った。

「あれ、明里さんからだ。何だろう」

僕はゆっくりと湯船に浸かり、スマホを耳に当てた。

「もしもし、明里さん?」

『あ、先生。こんな時間にすみません』

謙虚に謝罪の言葉から入る明里さん。素直に好感が持てる。

「どうしたの、急に。わからない問題でもあった?」

僕は落ち着いた声をマイクに向ける。

『いや、別にそういうわけじゃないんですけど……』

「模試も近いんだし、明里さんは勉強しないと」

『そうなんですけど……』

なにか言いたげに言葉を句切る明里さんに

「なにかありましたか?」

と、なるべく優しく問いかける。

『あの、気持ち悪いって思わないでくださいね……』

語尾に近づくにつれて掠れていく声に、

「わかりました」

と明里さんを安心させるために、丁寧に力強く返事をする。すると明里さんは、

『先生の声が聞きたくて……』

そんなことを言った。予想だにしていなかった言葉に、心臓が大きく跳ねる。

「先生をからかってるんですか?」

ここで無言になるわけにはいかないので、精いっぱい声が震えないように返す。

『違います! 先生の声が本当に聞きたくて』

少し震えている声が、本心だということを伝えてくれる。だから僕は、

「そうですか。それじゃあまた、声が聞きたくなったら電話してください」

と明里さんに伝わらないだろうが、小さく笑ってそう返した。

『いいんですか?』

「先生としては良くないのかもしれないですけど……。いいですよ」

『ほんとですか?』

嬉しそうに上がる語尾に、胸が締め付けられる。

「はい。それじゃあ、勉強の方も頑張ってくださいね」

『はい! それじゃあ』

明るい声を最後に、明里さんとの電話が切れた。耳に残る、明里さんの明るくて可愛らしい声の余韻に十分に浸ってから、風呂を出た。

「ふぅ……」

程よく火照った身体を、冷房の効いたリビングがすぐに冷やしてくる。

「飛鳥。温度下げ過ぎ」

「別にいいじゃん。暑いんだもん」

「環境にも、飛鳥の身体にも良くないから上げるよ」

「やだ!」

駄々っ子のようにごねる飛鳥の制止も聞かず、僕は冷房の温度を四度ほど上げた。

「もういい! 寝る!」

飛鳥は頬を膨らませて、大きな声を残して寝室に消えて行った。

「なんだよ。こっちは飛鳥のことを思って――」

そこで、ピタリと言葉が止まった。

「飛鳥を、思って……?」

その言葉がやけに引っ掛かる。

 ――僕は飛鳥のことを本当に想っているんだろうか

そんな考えが頭に浮かぶ。

 前まであんなに可愛く見えていた、思えていた行動が。愛おしく思っていたあの声が。今ではダイナマイトの起爆剤のようになっている。そんな気がする。

 こんな思考をしていると、さっきの明里さんの言葉が頭の中に飛び込んでくる。

「声が聞きたかった……か」

今までこんな僕には向けられてこなかった言葉。完全に忘れかけていた感情。明里さんのことを考えるだけで、不自然に熱る身体。

 僕のこころは、完全に森田明里という女性の方に傾いてしまっていた。

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