第16話 異変

「じゃあ、今日もお願いします」

「しま~す」

軽く礼をして、早速、授業を始めた。

「それで、昨日言ってた分からないところって?」

「コレです。コレ! ほんと難しくて!」

明里さんは怒ったように、眉間に皺を寄せて設問の所をトントンとシャーペンで叩いた。

「あ~、やっぱりここか。難しいよね。それじゃあ、順を追って説明していくね」

一つ一つ、しっかり解法の手順通りに説明していくと、明里さんの強張った表情がどんどん解れていった。

「なるほど! そうやって解くんですね!」

「分かったみたいだね。じゃあ、定着させるために今回の課題に同じようなの入れておくから頑張ってみて」

「はい。ありがとうございます」

この日の授業もいつも通り順調に進み、結構な時間が余ってしまう形で、今日予定していた課程が全て終了した。

「今日もよく頑張りました」

「えへへ」

おどけたような可愛らしい笑顔を向けられ、心臓がドクンッと大きく跳ねあがった。

「時間、余りましたね」

「じゃあ、雑談しましょう」

「はい」

テキストをカバンに仕舞って、明里さんとの雑談の時間が始まった。

「あ、そうだ。昨日お会いした彼女さん。すごく美人さんでしたね。写真で見た時よりももっとかわいかったです」

「でしょ? でもあれで、もう少し愛想があればな」

高校時代では想像すらできなかった、飛鳥の愚痴を零してしまう自分。そのことに勝手に驚いてしまう。

「確かに。人見知りさん、みたいでしたね?」

「人見知り、ね……」

人見知りにしては度が過ぎているとは思うが、あの態度を見てはそう思うのが当然だろうと、なんとなく解釈した。

「先生。なんか今日、疲れてそうですね? 大丈夫ですか?」

明里さんは僕のことを心配してか、僕の顔を覗き込んだ。

「え? あ、大丈夫だよ。生徒に心配させるなんて、ダメな先生だね」

「そんなことないです! 人間、誰だって疲れます。私でよければお話聞きますよ?」

優しい言葉を掛けてくれる明里さんに、ギュッと胸が締め付けられる。

「って必要なかったですね? 先生には綺麗な彼女さんがいますもんね」

明里さんは拗ねたような儚げな表情を浮かべて、斜め下に視線を落とした。目の前に居る自分の教え子が、実の彼女である飛鳥よりも可愛く、愛おしく見えてしまっていた。

「はぁ……」

気持ちを整理するのと、ストレスを吐き出す意味を込めて溜め息をついた。

「先生?」

心配そうに上げられた視線。この子になら話してもいい。僕の話を聞いてほしい。そんな気持ちが、胸の奥から湧き出てきて、僕は明里さんに昨日の出来事について話した。


「別に、先生に悪気があったわけじゃないですもんね!」

話を終えた後、僕の心にそっと寄り添ってくれる優しい明里さん。その声が、言葉が、僕にはとても心地よく感じられた。

「そうだ! 良いこと思いつきました!」

明里さんがいきなりパンと手を叩いて、パッと表情を華やげた。

「なに?」

「今度、デートに誘ってみたらどうですか? 仲直りの小旅行、みたいな!」

素晴らしいアイデアだと思う。“普通”のカップルなら、それで仲直りが出来るだろう。だが、

「来てくれるかな……」

僕にはそこの不安が大きくて、上手くテンションに乗り切れない。

「絶対に来てくれますよ! 好きな人。ましてや彼氏が、そこまで思いつめてるって思ったら、どんな女子でも心配しますよ」

上げなのかもしれないけど、彼女と同性の意見は自分の考えよりも正しいと信じ、心に留めた。

「なんかごめんね。先生のお悩み相談に乗ってもらっちゃって」

「いえいえ。困った時はお互い様です」

優しいその言葉に、また心が救われた。

「あ、そうだ。分からない問題があった時のために、連絡先、交換しませんか?」

明里さんはそう言うと、ベッドの上に放置していたスマホを手に持ってきた。

「そうだね。その方が対応しやすいだろうし、そうしよう」

「やった!」

明るい、はじけた笑顔。また心臓が大きく跳ねた。

「あ、先生の方からも連絡してきていいですからね? お悩み相談とか。悩みは溜め込むのが一番からだに悪いですから」

「うん、ありがとう」

そうして僕は、僕は明里さんとLINKを交換して、森田宅を後にした。

「飛鳥も、明里さんみたく気が使えて、可愛かったらな……」

歩いてる時にふと零れた言葉。なんの意図もなく出たのだから、これが僕の本音なんだろう。


 この時、僕と飛鳥の間には、大きな隔たりが出来てしまった。越えることも破ることもできない固く、高く、分厚い壁。それに立ち向かう勇気なんか僕にはなくて。そんなことをする意味を見つけられなくて。この壁はいつまで経っても倒壊することも、薄くなることもないように思えた。

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