第5話 ヒーロー

 強く目を瞑ってから数秒。一向に痛みを感じない。さすがに不思議に思った僕は、恐る恐る目を開けた。すると目の前には股間を強く抑え、苦しそうに顔をしかめながらピョンピョンと飛び跳ねている、情けない男の姿があった。

 ――何が、起きたんだ……

思考が追いつかないとき、隣から

「次こんな事したら、ただじゃ済まさないからな!」

可愛らしいけど、恐怖を感じる声が聞こえてきた。声のした方に視線を向けると、そこには可愛らしく右手を振り上げて頬を膨らませている水無瀬さんの勇敢な姿があった。

「す、すみませんでした!」

股間の痛みに耐えかねたのか、水無瀬さんの姿に恐れおののいたのか。真意は分からないけれど、男は情けくそう言って、おぼつかない足取りで真っ暗な路地の闇に姿を眩ませた。

「だ、大丈夫だった?」

恰好がつくわけないのだが、心配して水無瀬さんに訊く。

「う、うん……」

水無瀬さんは目を合わせることなく、斜め下に視線を逸らして小さくそう返事をしてくれた。水無瀬さんの頬が、ほんのり桜色に染まっているような気がして、彼女の視線の先を見た。そこには、まだ握られたままの彼女の細い腕があった。

「ご、ごめんなさい……!」

僕はパッと手を離して、慌てて謝罪の言葉を口にした。

「だ、大丈夫」

短い返事。僕は安堵のため息を洩らした後、

「じ、じゃあ僕はここで……」

会話を続ける勇気が出なくて、あるわけない目的地に向かうべく踵を返した。

「あ、あの!」

小声の水無瀬さんから放たれたとは思えない大きな声に慌てて振り返る。

「あ、ありがと……」

 すごく短い感謝の言葉。

 恥ずかしそうに上げられた視線。

 居心地が悪くなって、スタスタと遠ざかっていく彼女の背中。

全部がとにかく可愛くて、思考がピタリと停止する。まだ耳に残る可愛らしい声。愛おしい上目遣い。僕の心臓は、はち切れんばかりに高鳴っていた。

 ――チョー可愛い!

完全に舞い上がった僕は、人目もはばからず鼻歌を歌って、スキップをして、しばらく駅前を練り歩いた。

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