第4話 ピンチ!

 翳っていた太陽が顔を覗かせて、薄暗い路地を一瞬だけ照らした。はっきりと見えたのはニタニタと笑う男の顔と、水無瀬さんの恐怖心と怒りが混じっているような絶妙な顔。

 僕は、女性の正体が水無瀬さんだと分かった瞬間、男にバレないように身を隠して二人の会話に耳を傾けた。

「ねぇ、ちょっとくらいいいでしょ? ね? 俺とさ、楽しいことしようよ」

男の賤しい声に水無瀬さんは

「やめてください!」

ときっぱり声を上げて、掴まれた腕をブンブンと振り回している。

「そんなんじゃ、俺の手は振り解けないなぁ。よし、じゃあ行こうか」

男はニタニタと気色の悪い笑顔を浮かべながら、水無瀬さんを力づくで引っ張っていく。水無瀬さんの抵抗は空しく、彼女の姿は少しずつ離れていく。

 一連の流れを見て、僕は物陰から飛び出そうとした。でも、体は僕の言う事なんか聞いてくれなかった。底知れぬ恐怖で震える脚。大声を出そうにも、喉が閉まって小さな声を発することすらできない。

 ――動け! 動けよ!

強く念じても、僕の足はピクリとも動かないし、声も出ない。

 徐々に遠ざかる二人の背中。細い路地を抜けて、微かな光が当たる一方通行の細い道に出た。そして、出口に留められていた黒のワンボックスカーに水無瀬さんを乗せようとした。その時、男の腕の隙間から、一瞬、水無瀬さんの顔が見えた。彼女の顔は、恐怖に染まっていて、大きな目にはいっぱいの涙が溜まっていた。水無瀬さんの助けを求めるような、藁にでもすがるような目。気づけば、僕の足は勝手に動き出していた。

「や、やめろ~!」

緊張で裏返ってしまう声。情けない声を路地に置き去りにするように、僕は全力で足を動かした。反響する声と足音を聞いて、男がちらりとこちらを振り返る。僕は怒りと恐怖を力に変えて、男の左頬を勢いそのままに殴った。

「逃げよう、水無瀬さん」

男が大きくよろけているスキに、僕は水無瀬さんの腕を掴んで元来た路地を全力で戻った。

「テメェ! 待ておら!」

男の声が背後から聞こえてきた。大通りに出てしまえば、さすがに男も諦めるだろうと思い、ただひたすらに光の差す方へと全力で走った。

 少しずつ光度を増していく路地。大通りが近づいてきている証拠だ。しかし、大通りが近づくにつれて、男の足音もすぐそこまで近づいてくる。

「ハァ……ハァ……」

息も絶え絶えで頭がボーっとしてくる。そんな中、僅かに残る神経の伝達能力で鉛玉が入っているかと思うくらいに重たくなった足をただ、前に前に動かした。

 サッカー部の幽霊部員。これまで、体育と通学以外の運動をしてこなかった自分を恨めしく思った。気を抜けば、足が縺れて転んでしまいそう。それくらいの疲労感を足に感じたとき、目の前がパァーっと明るくなった。

「クソガキ!」

数秒前に放った男の声が、反響して聞こえてくる。

「もう、大丈夫……」

膝に手を付いて、呼吸を整えながら安心していると

「こうなったら力づくだ!」

怒りを前面に出した男のドスの利いた声がすぐ近くから聞こえてきた。パッと視線を上げたとき、目の前には鬼のような形相をした男が立っていた。男は少し肩を弾ませながら、右こぶしを振り上げた。今までに体験したことない恐ろしい光景に、僕は強く目を瞑った。

 ――終わった

僕は心を決めて、痛みを感じる覚悟を決めた……。

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