第2話

 いくらか走ったところで、ハッと気がついた。やみくもに走ったせいで、現在地が分からなくなっていた。


 兄との約束場所はどの方角だろう。


 こういう時、携帯が役に立つ。地図アプリを出して、現在地を確かめる。

 けれど、ほとんど来たこともなければ、どこもかしこも人、人、人。周りはビルばかり。その合間に立っていることぐらいしかわからない。

 ショーウィンドウには、女性や男性のマネキンが高そうな服を着飾り、電灯掲示板にはテロップが流れていく。

 息切れはおさまってきたけれど、今度は、人の流れに視界が塞がれ、眩暈に襲われる。

 なれない景色にクラクラしながら、地図を頼りに歩いていった。


 歩いていると「ぐー」とお腹がなる。

「あのハンバーガー、どうなっただろ?」

 お金も払ったのに、惜しい事をしてしまった。

 でも、逃げ切る方が大事だ。

それと共に、黒いキャップ帽の人が思い出されてきた。

「お礼も言えなかった」

 ため息も出た。


 兄との待ち合わせ場所は、中央改札口前。

あまり来たことのない怜生を気遣い、駅を出てすぐのところに決めてくれていた。

 こんなことになるのなら、お腹が空いてもそこで待っとくべきだった。

 もう一度、ため息をついた。


 走ったせいで、駅からずいぶんと離れていた。どうやら、待ち合わせ場所とは反対方向へ走っていたようだ。やっと目に前に改札口が見えてきた。構内に入ると、人はさらに増えた。流れに沿って改札口の手前まで進む。左手に改札口、右手にはガラス張りの案内所がある。その隣にはいくつかの店が並んでいる。


 待てそうな場所を探し、案内所から少し離れた壁側に寄った。

 壁にもたれると、ひんやりと心地よい。

 右隣には、ベージュ色のトレンチコートを着た女性、少し離れた左側には、部活帰りの女子高校生が四人向かい合うように立っていた。

 キャッキャッと笑い声が聞こえてくる。

 人の流れから解放され、人心地着いたところで携帯で時間を確認すると、十二時を少し過ぎていた。


 待ち合わせの時刻まで、あと一時間はある。


 先ほどのこともあり、迎えに来てもらった方がいいかも知れない。

 いつ来てもいいと言っていたので、予定は入ってないはずだ。怜生は携帯で兄の連絡先を出そうと指を動かそうとした。

 その目線の先に白のスニーカーに青いラインが入った靴先が見えた。

 影が、怜生を覆う。

 角刈りの男性かと、体を強張らせていると、「ねえ、今、暇?」と軽い感じの声がした。

 角刈りの男性でも兄の声ではない。それに声の掛け方も変だ。

 顔を上げると、男性二人が怜生ではなく、右隣にいる女性に話しかけていた。

(な、ナンパか。初めて見た!)

 車生活を余儀なくされている所に住む怜生にとっては、物珍しい光景だった。


「どこ行くの?」

「一人?」

 ナンパの常套文句が飛び交う。

関係ないけれど、「結構です」と断る女性の言葉を無視した一方的な誘いや、にやけた顔に物珍しさよりも嫌悪感が湧いてきた。

 女性の方はどうだろうかと、こっそり見ると眉間に皺をよせ、迷惑そうな顔をしている。

――と、女性は、その男性に顔を背け、歩き出した。

 けれど、その腕を掴み、しつこく話しかけている。


 怜生は、元来、困っている人を見て見ぬふりができない。自分が困ることが多いけれど、同時に人に助けてもらうのも同様に多いから。女性の泣きそうな顔を見ていると、我慢できずに二人の間に割り込んだ。


「離してあげてくれませんか!」


 男性の視線がこちらへと向いた。

 女性を掴んでいる男性ではなく、白いスニーカーの男性が怜生の肩を腕を回した。

「なに、ヒーローぶろうっていうの?」

 完全に下手に見られている。

 ニヤけた目にカチンときた。

「離せって言ってんだよ!」

 強めの声に側を通りがかった人が、こちらを見ていき、隣りの女子高生たちは、その場から離れていった。

 怜生は、回された腕をほどき、女性の腕を掴む手を払いのけようとした。


 しかし、伸ばした手が届くことはなかった。


 女性を掴んでいた腕は、今、怜央の手首を掴んでいる。ギリっと力が入り手首が軋み、顔をしかめた。

 腕から手の離れた女性は、怜生を見て男性を見たあと、反対側へと走り出した。


「あーあ、どうしてくれんだよ」

長めの前髪をかき上げながら彼女の背を見送ると、怜生の方へと顔を向けた。そして、掴んだ手首を引き寄せながら、

「まあ、しゃーねーな。お前でいいわ。付き合えよ」とニヤリと笑った。


「離せよ!」

 睨んだところで、平然としている。怜生は168センチと小柄だ。下手すれば、中学生にも見られてしまう童顔さ。もしかしたら、この男たちもそう見ていても不思議ではなかった。

 さっき追いかけてきた男性たちよりも、怖くないけれど、もがいても離れることのない手にゾッとする。

 先に兄に連絡しておけばよかったと思ったところであとの祭りだ。


 後悔先に立たず、か――。


「さて、どこから付き合ってもらおうかな」

 怜生を連れて歩き出した時、後ろから「どこの誰と付き合うって」と、腹に響くような圧のかかった声がした。

怜生は知った声に顔を上げ、振り返った。

「トモ兄!」

まだ、目の前にいるには早いはずの、兄の姿を捉えた。

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