『匿ってくれ』

 三月末の夜に鵜飼からメッセージが届き、意味を問い質す間もなく、しとしと降り続いていた雨に濡れそぼった鵜飼が玄関にやってきた。洗いすぎてごわついたタオルを出すのは気が引けたけど鵜飼は気にするそぶりもなかった。野放しな無精ひげ、骨張った頬、挙動不審な瞳。知っている人でなかったら追い出していた。微かな匂いを感じてすぐに風呂に送り石鹸もシャンプーも好きなようにさせた。呂場からの押し殺し切れない泣き声を聞くに、鵜飼は明らかに弱り切っていた。

 大学一年生の一時期、とある女子と付き合っていた。浮かれていた僕は彼女が泊りにきたときのために寝袋を買った。もちろん彼女を布団に寝かせて、自分は寝袋に収まる算段だった。結局その寝袋は使われずに関係は消滅した。二年間押し入れにしまわれていた寝袋はこの度鵜飼にあてがわれた。リスのような彼女に合わせていたものだから、入ろうとするとしくじったミノムシのように身が飛び出すので、しまおうと思っていたカーペットも与えた。無事に覆われると、鵜飼は熟睡して小さないびきをかいていた。それから鵜飼は六月の今まで僕の部屋に住み着いている。

 僕は高校を卒業してから地元の市役所に就職していた。窓口を受け持ちながら会計を扱っていた。年が若いせいか可愛がられた。残業することもあったけれど、職場の風通しはよかった。物欲はあまりなく、実家暮らしだったので、貯金は増える一方だった。その残高が増えて、桁が変わった頃に、大学の入学金を調べた。親が払えないといった入学金を今の僕ならまかなえるとわかると意欲が沸いた。就職したことに安心顔だった両親に内緒で勉強を始め、二年目になってから自分の考えを両親に打ち明けた。経済的な工面は自分ですると説得して、どうにか認めてもらえた。職場の人たちには応援されて、無事合格すると円満に見送られた。このような事情で、僕の入学は現役生と比べて二年遅れている。小学校から大学まで同じとはいえ、二年生分離れると、見えている世界は違ってくる。

「外の世界は合わなかったよ」

 救援を求めた翌日の藍色の夜に、多少の酒の力を借りて鵜飼の口を開かせた。とある電気機器メーカーに勤めたところまでは知っていた。そこから彼は山間にある研修センターであいさつと謝罪の言葉を腹から出す練習を三日間通した後に営業に配属された。話の合わない同僚と、怒鳴ることに生きがいを感じているような上司のことを苦笑いしながら話されて、僕が慰めの言葉を探しているうちに「まあそれは別に、どうでもいいんだけど」と続けた。

「嫌とか辛いとかじゃないんだ。金が入るって思えば、ある程度耐えられる。でも、あと四十年以上同じことを繰り返すと思うと吐き気がした。ここに至るまでにもっと考える必要があった。大学生のときも、高校生のときも、もっと真剣に勉強していればよかったし、できることはやればよかった。いったいいつまで遡ればいいのかわからない。そもそも遡るなんて人間にはできないのにな」

 僕は付け焼刃の言葉探しを諦めた。僕の知っている外の世界は地方の役所の窓口だけだ。愚痴っぽいクレーマーが来ることはあっても、怒鳴り声は内からも外からも掛からなかった。それを紹介したところで何の救いにもならない。冷やしたチーズと小粒のナッツを差し出して高校時代の話を振った。共通の思い出話があることはありがたい。鵜飼の舌が気持ちよさそうに口の中で踊り始める。言葉は形をだんだんなさなくなっていった。鵜飼は酒に弱かったらしい。気づいたときには鵜飼は口を手で押さえ、トイレに籠った。

「汚したらお前が掃除するんだぞ」

「わかった。頑張る」

 くぐもった返事の直後に乱れた流水音がした。それ以来トイレ掃除は鵜飼に割り振られている。

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