これはいつか、法事で出会った遠縁のおじさんから聞いた話だ。

 僕が生まれる十年以上前に、都合の良い未来を担保にした異常な好景気が終わった。働き口が見つからなくなり、少しでも就職に有利になるようにと、当時の高校生たちは一斉に大学を目指し始めた。それに目を付けた大学は様々なカタカナの学部を作り上げた。新しい大学も次々と乱立されていった。卒業証明書が欲しい学生たちと授業料が欲しい大学とが織りなす需要と供給の取っ組み合いは受験産業を発展させた。気が付いたら大勢の人が当然のように大学を目指すようになっていた。景気が前向きになったといくら政府が言っても誰も信じなかった。元々不景気から生まれた需要だということもみんな忘れてしまった。子を持つ親は当然のように大学の経費を生活費に見込むようになった。一人前に働くために大学を出る必要があるなんて誰が言ったわけでもないのに、誰も疑わないからそれが社会の当たり前になっている。

 働くのが嫌でしかたないと言っていたおじさんも五十代を迎えたはずだ。定年はまだまだ延長されそうだけど、愚痴を言いながら働き続けているのだろうか。あいにく出会う機会がない。ついでに言えば、あの人が母方と父方どちらの親族だったのかもピンと来ていない。覚えているのは大学と口にするたびに目の奥にふっと灯っていたあたたかさと、愚痴を吐き捨てるときの暗い瞳。その色合いは今の鵜飼にも通じていて、僕を怯えさせる。大学を卒業した先の、社会に潜んでいる暗い闇。なるべく直視したくないけど、直視しないわけにはいかないもの。

「インターンでも申し込むの?」

 珍しく鵜飼の方から僕のパソコンを覗き込んできた。大学の生協で買った安いノートパソコンは、覗き込み防止のフィルターも張られていなかった。

「登録できたからしただけ。就活は来年からだよ」

 それが経団連の公式発表だと、眺める度に息をつく。大学に行くたびに同学年のはずの人たちがスーツ姿で闊歩しているのはわかっていても見ないようにする。

「なんかそれ見てるとむずむずする」

 鵜飼はそう言って床に転げ、ゲームのコントローラーのもとへと戻った。先のことはまだ考えたくない。ボロボロになった鵜飼の様を見ているとなおさらだ。真っ先に倒れた前線の兵士が、治療のために戻ってきたとき、衛生兵は自分も戦地に行きたいと思うだろうか。よほど血の気の多い人でない限りは戦争の終結を願うだろう。それは現代の、戦争をしなかった年号が終わったばかりの日本で暮らす僕の場合も当てはまる。

 鵜飼に誘われて、ノートパソコンを閉じてコントローラーを手にした。買ったときからの慣れない手つきはいまだ変わらない。それでも、攻撃のタイミングや避けるべき相手の動作などの知識は鵜飼が教えてくれる。勢いに任せたプレイングを見習って、失敗を恐れなくなれば、次第に攻撃が当たり始める。跳ね返されたら考え直す。手法を変えて、勝つまで突き進んでいく。

 電話が鳴った。僕の携帯電話からだ。コール音を六回以上鳴らすのは母しかいない。鵜飼にコントローラーを受け継いでもらい、少し離れて電話に出る。予想通り相手は母だった。こんばんはと言われて多少驚く。昼過ぎだと思っていたが、確かに窓の外は薄暗い。

「夏休みは戻るの?」

「まだ六月だよ?」

「予定のありなしくらい答えられるでしょ」

「まだウイルス流行りそうだしなあ」

 そんな感じで話が始まる。帰省を促す電話も最初のうちは煩わしくもあったが、麻痺しつつあるとはいえ毎日感染者数が報告されているご時世、心配するのも無理はない。そういう余裕も身についていた。僕の方にしても家族の安否は気になる。ワクチン接種が始まっているか、飼い犬は元気だろうか、気になることがそれなりに口をついて出てくる。

「そういえば、鵜飼さんとこの子、誰だっけ、えっと」

「修?」

言いながら振り向いた。いまだゲームにいそしんでいる彼の名前と、母の声で聞くそれとは著しい距離があるように感じられた。

「そうそう、修君。行方不明らしいのよ。会社から家に連絡が来たらしいの。それでお母さんもお父さんも探してるんだって」

「捜索願が出てるってこと?」

 気軽に言いたかったのに、喉が急速に乾いていく。

「どうなんだろ。これも噂だからね。あんた同じ大学でしょ? 何かわからないの?」

「向こうは二つ先輩だし、もう卒業してるしなあ」

 よっしゃ、と大きな声が聞こえてきて、悲鳴が出そうになる。隣室に配慮した音量ではあるものの、ファンファーレが今はやたらとうるさかった。

「誰かいる?」

 母が言う。

「友達だよ。バイトなくなって暇なんだって」

「あんた、もう就活なのに毎日遊んでばかり」

「毎日じゃないし。就活はまだ先。あー、僕なりに調べているよ。大丈夫。じゃ、またね」

 それからも一言二言粘られたけど、半ば強引に別れを告げる。良好な切り方だったと思う。部屋に戻るとまだ鵜飼がガッツポーズを決めていた。難敵だったらしい。

「お前のこと、親が探してるらしいよ」

ガッツポーズの姿勢のまま、鵜飼はテレビ画面を見つめていた。リザルト画面が切り替わって暗転する。うすぼんやりとした人影が二人分残った。

「生きてるから大丈夫。そう何度も答えてる」

「何度も聞かれてるのかよ」

「一日一回から三日に一回くらいに減ったよ」

 鵜飼はなお顔を合わせなかった。画面が移り、操作可能になっても、プレイヤーキャラクターは一歩も動かない。鵜飼の指がスティックを動かさなかったから。

「辞職届も出したし、電話連絡もした。がなり立てられたけど。それからだな。家にも連絡が行ったんだろ。だから俺のところにも連絡が来た。俺は逃げるってちゃんと伝えたよ。母さんも父さんも納得してくれた。俺は手持ちの金が尽きるまで逃げる」

「逃げ場所がここだって知ってるのかよ」

「友達の家って言ってある。本当は付き合ってた奴の家に行くはずだったけど」

 唐突な話に、自分の口が少し開くのがわかった。渇いた喉に乾いた空気がそよそよと入ってくる。

「その人は?」

「俺じゃない人と一緒にいた。それがここに来た理由」

 鵜飼の口元に浮かんでいた笑みが消えて、手におおわれる。指が頬に刺さっていた。その手が次は僕を指さす。

「てか、なんで今まで聞かないんだよ。普通真っ先に突っ込むだろ」

「それはまあ、嫌でもなかったし。誰かと一緒に暮らすの」

「なんか心配になってきたな」

 どういう意味かと僕が聞く前に、鵜飼がコントローラーを手に取った。当然キャラクターが動き出す。始まってしまえば、見ているだけでいい。はっきりした敵がいて、腕を上げて倒していく。

 鵜飼のプレイングははっきりいって雑だ。多少の反撃など気にしない。とにかく攻撃をとおして、相手を倒す。何も考えずに入り込むにはちょうどいいシンプルさだった。

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