労働と褒美

泉宮糾一

スフレ(2021年応募)

 縦長のテールランプは純朴そうな眼に似ている。クランクの裂け目は堅実な真一文字。どんなに厳つい高級車でも、後ろの顔は穏やかだ。リアウインドウは曇り空を呆然と見上げていた。映る野次馬たちのうち、僕の頭頂部がひょこりと伸びている。引っ張ってみたがまるで効果はないようだった。ため息交じりにスマホを起こすと鵜飼はすぐに出た。

「スフレ買えなくなった」

『売り切れてた?』

「いや、車が突っ込んでて入れんのよ」

 高級車の前方は入口の自動ドアを割って店内を侵していた。縁石に乗り上げた前輪はガラスに刺さってしなびている。車のひしゃげた扉の傍に警察官と白髪の男性が話し合っている。運転手らしきその人の顔は警察官の後頭部に隠れていた。別の方向から警察官がやってきて、野次馬に向けて笛を吹く。潮時だった。

『けがしなかった?』

「僕が来たときはもう終わってたよ。エンジンも止まってた」

 例えばそこが空き地だったなら、運転手が冷や汗をかいただけで、車は今も走り続けていられただろう。どんな高級車でも頭が潰れれば動かない。人間と同じだ。

「二十分くらい待てるなら駅前の方まで行っていいけど」

『いいよそこまでしなくても。なんか縁起悪いし』

 そうだろうかと思いつつ、口では「確かに」と答えていた。

「じゃ、適当に歩いて帰る」

『おう。車には気をつけて』

 言ってるそばからクラクションが聞こえてきた。大きな通りのどこかの車が放ったようだが、歩行者側からはどの車のものなのか見当もつかない。鵜飼に声を掛けようとしたが、すでに通話は終わっていた。

 離れる際に一度現場を振り返った。ガラス片の散らばる事故現場も、見慣れてくるとどことなく悲しげだった。

 スイーツを頼まれる前からつまむものが欲しかった。新たに別のコンビニに入るのも気が引けてスーパーに入り、広告の品と銘打たれたマンゴーを手に取った。しっとりとしたなめらかな皮をしかと掴み、三つ取ってレジに運ぶ。昔の感覚を呼び起こし、ゆるいジャグリングをして二回ほど危うい目に遭った。

「素手で持ってきたの?」

 玄関先で迎えてくれた鵜飼が引き気味に言う。

「わざわざ金かけて袋に入れないよ」

 レジ袋が有料化されてから一年弱。万引きと疑われそうで怖い、なんて不安はとっくになくなっていた。玄関にほど近いシンクにマンゴーをおいてから、備え付けてある消毒スプレーを手のひらにかざす。焦燥感から始めた感染症対策もすっかり習慣化した。鵜飼にも吹シャワーを浴びるように目を細めた。髪まで洗おうとするのを無視してウレタンマスクをむしり取る。僕は鼻が詰まりやすいので、どんなにインフルエンザが流行ろうともマスクはしない主義だった。とはいえ世間を敵にしてまで貫きたい主義ではなかった。

「手を洗ったら消毒する意味なくない?」

 シンクを前にした僕に鵜飼が横やりを入れる。

「先に殺して、死骸を流すんだよ」

「ウイルスって死ぬの?」

「死なないでたまるかよ」

 言い合っているうちに白い泡が滑らかに全てを洗い流していく。やらないよりはやった方がいい。無駄だとしても、無抵抗では死にたくない。水はけの悪いシンクに残った白い泡は、あのコンビニのガラス片を思い起こさせた。警察官に詰問されていた白髪の男性は背筋がぴんと伸びていた。受け答えできるのだから、意識だってしっかりあるのだろう。けがをした様子もない。それなのに、前輪は車止めを通り越し、店内へと突っ込んだ。コンビニの入り口は犠牲になった。その間、運転手はどう感じていたのだろう。あいにく僕には免許がなく、両親も車はあまり乗らなかった。運転をする人間のことはよくわからない。ブレーキは踏んですぐにかかるものだろうか。あの人は果たしてブレーキを踏んだか。それとも踏まずに突き破ったのだろうか。

 居間から躍動的な音楽が聞こえてくる。鵜飼が起動した、大型のモンスターを狩ることを目的としたアクションゲームのオープニングだ。名の知れたゲームへの興味本位で僕が買ったものだったけれど、独特の操作性に慣れず、モンスターの攻撃を避けることもままならなかった。嫌気がさして本棚に差しっぱなしになっているのを鵜飼が見つけ、それから毎日暇さえあれば動かしている。自分のものだなんて主張はしない。ゲームにとっても、作った人にとっても、仕舞われているよりは遊ばれた方がいいに決まっているのだから。

 大振りな鵜飼のプレイングを聞きながら、マンゴーをまな板の上に載せ、縦長になるように、垂直に三等分にする。ほんのり橙がかった黄色の実が顔を出す。適当に選んだにしては香りがいい。実にあまり触れないようにしながら、両端は賽の目に切り、皮から押し上げる。種のある中央は小さなブロックに均等割りし、ガラスの小皿に載せて楊枝を2本挿した。一応ティッシュも用意する。片手間の食事はすこぶる雑になるものだ。

「おまたせ」

 開けっ放しの引き戸の敷居をまたいで鵜飼に声をかけた。

「あ、おやつ! ここ、ここ」

「騒ぐな。置くから」

 一人用として買った小さなローデスクにマンゴーを置くと、鵜飼は楊枝を取って口に運んだ。弛緩したヤギのような鳴き声は、ゲームのローディングが終わるとすぐに止んだ。鵜飼がきちんと目で見てマンゴーを口にしたのはそれっきりだ。あとはずっと、画面に集中しながら片手で楊枝を探していた。

 世界中に蔓延する新型ウイルスの影響で、外出がはばかられるようになった後、僕は初めてゲームを買った。実家ではゲームは禁止されていた。なんでもやり直せると思うようになったらいかん、というのが両親の共通の意見であり、少年の僕はその意見を真に受けていた。とんだ勘違いだった。どんなジャンルのゲームでも、上手い人はリセットしないように立ち回るものだ。積み重ねが無駄にならないように、現実と同等以上に気を配る。そのことを僕の両親が理解することはおそらくない。僕だけが理解すればいい。

「あのコンビニ潰れるのかな。あそこのが一番旨いのに」

 激しい攻撃を繰り広げながら、そのリズムとはまるで合わないぼやけた調子で鵜飼がつぶやいた。

「全損したわけでもないし、また組み立てるんじゃないかな」

「組み立て?」

「出来たときがそうだったんだよ。二年前の、僕が来たばかりのときな。壁のパーツが先にれてきて、途中でガラスがはめ込んで、屋根を載せたんだ」

「プラモデルかよ」

 鵜飼は笑ったけれど、僕は真面目に答えていた。朝、パーツが運ばれてきて、夕方にはもう形になっていた。あれは見事なものだったと思い返しているうちに、画面では一際大きなドラゴンがオンラインの仲間を襲っていた。潰れかけのコンビニより当然大事だ。僕も画面に集中する。目まぐるしい攻防が閃光と雄叫びで伝わってくる。壁の薄いアパートなので音は控え目だ。それでも画面の中の戦闘に意識は吸い寄せられていく。

「ていうか、スフレって本当はあったかいらしいよ」

 勝利のファンファーレが鳴り響いてから、僕は口を開いた。余韻に浸っていた鵜飼と目が合う。

「そうなの? コンビニのは冷たいけど」

「それっぽく固めてるんだよ。だから生地も崩れない。本当のスフレはオーブンで一気に焼くんだ。温かいし、それに数分のうちに形が崩れる。流通なんてできないし、ちょっと待っても効かないんだ」

 僕もまだ動画でしか確認できていない。僕の部屋にはオーブンもなかったし、お菓子を作るつもりもなかった。ただ興味がわいただけだ。その熾火に、動画サイトで得た知識を吹き込んだ。とかく便利な世の中だ。探せばいくらでも深掘りできる。

「僕たちは本当のスフレを知らないんだよ」

 温かく柔らかな、薄いふんわりした生地の膨らみ。時間がなければ、鵜飼がいなければ、僕はそれらに価値を見出せなかっただろう。

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