「38」お見舞い

 ベッドに横たわったハズィリーの口元には呼吸器がつけられていた。体にはいくつもの管がつけられ、機械に繋がっていた。


 ハズィリーは虚ろな瞳だけをこちらに向けて来た。

 その姿は、余りにも痛々しく見えた。

『……太蔵くん、来てくれたんだね……』

 呼吸器の中──近くで聞いていたハズリィーの声が、くぐもって聞こえた。

 顔色は悪く、体を動かすことはできないようだ。思ったよりも病状は悪いらしい。

 俺は危篤状態であった未来の自分の姿を、ハズィリーと重ねた。生命の灯火が今すぐにでも消え入りそうである。


「白井さん、大丈夫? プリント持って来たからね」

 愕然としている俺の横で、同級生の男の子が持参してきたプリントの束をサイドテーブルの上に置いた。

 これが、普通の子どもの反応なのかもしれない。

 人が死んでいまうかもしれないというのに、あまり深刻に捉えている様子はなかった。

 裏を返せば──純粋。ハズィリーが良くなって、また学校生活を普通に送ることが出来ると信じているのだろう。

──まぁ、それは正解なのだろうが──この時点では、まだそれも分かってはいないだろう。


 ハズィリーも、そんな同級生の男の子の態度に気を止めるわけでもなく薄っすらと笑顔を浮かべた。

『……ありがとう……』

 感謝の言葉を口にするハズィリーであるが、複雑は心境であることは見て取れた。ここまで病状が悪化しているのだから、プリントを渡されたとてそれを手に取ってみることは厳しいだろう。


『ねぇ……太蔵くん……』

 ハズィリーが名前を呼んで、俺に視線を向けて来た。

 俺は呆然とハズィリーを見返した。

 こんな時に、なんて声を掛けてあげれば良いのだろう──。

 息も絶え絶えなハズィリーを前に、俺は頭が真っ白になってしまった。


 将来のハズィリーは元気な姿を俺の前に現してくれた。少なくとも、今ここで死ぬことはない──。


『もしも、もしもね……』

 ハズィリーは苦しそうに、掠れる声を振り絞りながら言った。

『私が死んじゃったとしても、私のこと、忘れないでね……』

「忘れるわけがないじゃないか」

 それは、本心からの言葉であった。

──考えるまでもない。

 反射的に答えていた。


『ふふ……ありがとう』

 微笑むハズィリーは、まるで自身の死期でも悟っているなのようである。まるで、お別れの挨拶だ。


「絶対に……絶対に忘れないよ。絶対に……」

 俺は頷き、何度もその言葉を口にした。

 そうだ──絶対に、彼女のことを忘れるものか──。


 そう固く誓うが、それが叶わなかったことを思い返すと悲しくなってしまう。

 未来で、このハズィリーとの約束は──果たせなかった。俺は彼女の名前を当てることができなかった。


 頭に浮かんだ未来のハズィリーの表情に影が差す。

──ハズィリーが本名を隠していたのは、そういうことだったのだ。

 ハズィリーのことを──名前を忘れない──そう約束したからこそ、俺に思い出して欲しかったのだ。

 見たり聞いたりして名前を知るのは簡単だろう。でも、ハズィリーが求めていたのはそうではない。俺にきちんと考えて、思い出して貰いたかったのだ。


──でも、退行してきた俺がそんなハズィリーの思いを叶えてやることは出来なかった。

 未来のハズィリーは俺に名前を思い出して貰えなかったことを、さぞ嘆いて亡くなっていったことであろう。彼女が一人悲しみ、苦しむ姿を思うと涙が溢れてきたものだ。


──どうして俺は、そうまでして人生を逆行していかなければならないのか。

 何ために、俺は此処に戻ってきたのだろう。


「……大丈夫だよ……。ここでハズィリーは死なないゆ。大きくなるまで生きるから」

 俺は言ってやった。それは、間違いないことのはずである。

『ふふ……』

 ところがハズィリーは俺の言葉を気休めとでも思ったらしく、笑って軽く流した。

『そうだといいわね……。そうなったら、ヒマワリ畑を見に行きたいわね……』

「ヒマワリ畑……?」

 俺はハズィリーの言葉を繰り返し、首を傾げた。


 ハズィリーは疲れたのか、目をそっと閉じてしまった。

「白井さんっ!?」

 同級生の男の子が、血相を変えてハズィリーに呼び掛ける。急に動かなくなったので、ハズィリーが死んだとでも思ったのだろう。

「しっかりして、ハズィリーさん!」

──大丈夫だ。

 傍から見ながら自分に言い聞かせる。


「し……白井さん……?」

 ハズィリーからの返答がない。

 同級生の男の子は慌ててナースコールのボタンを押して、看護師を呼んだ。


──大丈夫。

──大丈夫なのか?

 心の何処かで疑念が浮かぶ。

 本当に、ハズィリーは死なないのか──?


 ドタドタと看護師が慌ただしく病室の中に入って来て、ハズィリーに呼び掛けた。

「白井さん、しっかりしてください!」

 看護師は、機器のモニターをチェックを始めた。


「一旦、外に出ようか」

「うん。そうだね」

 邪魔にならないように、俺達は病室を後にした。


 いつ回復するかも分からなかったのでそのまま帰っても良かったのだが、やはりハズィリーのことが心配であった。

 同級生の男の子も同じ気持ちだったらしく、俺らはロビーのソファーに座って、ハズィリーが意識を取り戻すのを待った。

 同級生の男の子は神妙な顔付きになって震えていた。ハズィリーのことが心配なのだろう。俺は、そんな彼を落ち着けるように肩に手を置いて元気付けた。

「大丈夫。こんなところで死んだりしないよ」

「……でも、彼女。もう長くないから、そう楽観もしていられないんじゃ……」

「いや。大丈夫だよ。死なない」

 俺は自信を持って答えた。何も、現実逃避しているわけではない。

 この先の未来でも、ハズィリーは俺の目の前に登場してきている。それは未来を見てきたボクだからこそ分かることなのである。死ぬはずがない。

 でも──そうであるはずなのに、心の何処かで疑念が湧いてきていた。


 俺の行動次第で、本来の過去の出来事とは違った道にも進んでしまうようだ。

──娘の死。

 本来の俺であれば、娘の元に辿り着けたはずである。

──ハズィリーの名。

 過去の俺であれば、彼女の名前を当てることなど容易い。死ぬ前に答えてあげられたはずである。


 ここが、ある種の分岐点になっている可能性はないだろうか。

 俺の行動次第で、ハズィリーが生命を落としてしまう。何か、ここでやっておかなければならないことを仕損じるとハズィリーの運命を変えてしまう──そんな考えが頭に浮かんで消えなかった。


 分からない。もしかしたら、何もしないことが正解なのかもしれない。

 でも──何もせずに黙って見ていて、誰かを救えないというのは悲しいことである。

 だったら、死を防ぐ何かがあるというのなら、俺はそれをやってみたい。

 病気が悪化しているというのであれば、それを改善する何かがあるのだろう。

 俺に出来ることが何かあるはずだ。──俺はそれをするためにここへ戻ってきたのだろう。


──でも、何ができるというのか。

 医療の知識があるわけでもないし、病を治せるような特殊な能力が備わっているわけでもない。

 このままただ天に祈って、成り行きを見守っていることしか出来ないのだろうか。


「ヒマワリ畑か……」


 俺が思考を巡らせていると、隣りで同級生の男の子が溜め息混じりにボソリと呟いたものだ。それは先程、ハズィリーが最後に呟いた言葉であった。

「ヒマワリ畑ね……連れて行かれれば良かったんだろうけどね……」

「……何か知ってるのか?」

 俺が尋ねると、同級生の男の子は目を瞬いて不思議そうな顔をした。

「……え? 太蔵君の方が、良く知っていると思うけど……」

「いいから教えて!」

 つい語気が強くなってしまう。

 同級生の男の子は肩をビクつかせると、口を開いてモゴモゴと教えてくれた。

「太蔵君が今度白井さんとヒマワリ畑を見に行く約束をしたって言ってたじゃないの。病気が悪化しちゃったから、延期になったみたいだけれど……」

「なるほど。それで、ヒマワリ畑か……」

 それが、ハズィリーにとっては心残りのことだったのであろう。


 何とか連れて行ってあげたいが──。


 俺はふと、あることを思い立ってソファーから立ち上がった。

「どうしたの、太蔵君?」

 驚いた同級生の男の子が声を上げるが、無視をする。


 丁度タイミング良く、ハズィリーの病室から医師や看護師が出て来るのが見えた。

 俺は急いで駆けて行き、最後に出て来た看護師に声を掛けた。

「あの、ハズィ……白井さんの容態はどうでしたか?」

「危ない状態ね。先生の話しでは、もう長くはないかもしれないって……」

 俺がハズィリーのお見舞いに来ていたことを憶えていてくれたのだろう。重要なことであるが、包み隠さずに教えてくれた。

「彼女、いつ目を覚ましますかね?」

「さぁ……? すぐには起きないと思うわ。早くても半日くらいは寝ているかしら。正確な時間は分からないけれど、下手をしたら何日も眠っているでしょうね」

「そうですか……ありがとう御座います」

 俺が頭を下げると、看護師は業務に戻って行った。


 残された俺は、ハズィリーの病室へと目を向けた。

 当時の俺も、看護師から今の情報を得たはずである。

 そして、これを主軸に何かしらの行動に出ただろう。


 早くて半日──彼女が目を覚した時のことを考えて、それに合わせて動いたはずだ。

 つまりタイムリミットは半日──『明日の朝方』。


 それを熟せば、恐らくこの時のハズィリーの死は回避出来るはずだ。

 俺が下手な地雷を踏まなければ──であるが。


「太蔵君。看護師さん、何か言ってた?」

 同級生の男の子も、ハズィリーのことが心配なのだろう。そのために此処に残ったのだから。看護師と接触をしていた俺がハズィリーの容態を聞かされたと考え、そう尋ねてきた。

「行かないと」

「えっ……?」

──でも、残念ながら俺にはそれに答えてやれる余裕はなかった。

 同級生の男の子は、不思議そうに首を傾げている。

「え、行くってどこへ?」


 俺は窓から外に目を向けた。


「ヒマワリ畑に……ヒマワリを摘みに……」

 目的が決まった──。

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