「06」パパはヒーロー

──ドンッ!

「……あっ! ……えっ?」

 体に衝撃を受け、俺はつんのめった。

「……チッ!」

 男にギロリと睨まれ、舌打ちをされる。

 男はそのまま大股開きに通り過ぎて行く。


「……ここは……?」


 意識がハッキリとしてきて、俺は周囲を見回した。

 場所は分からないが、商業施設が立ち並ぶ町の通りの真ん中に俺は立ち尽くしていた。


 俺は先程まで病院に居たはずだ。娘が出産し、その息子を抱かせてもらった。

 名付け親になって──そうだ。朧雅はどうなったのだろうか。

 赤ん坊を抱いた温もりは、まだ手の中に残っていた。


 ジーッと、手の平を見詰める。

 その温もりは段々と薄れていった。

 それどころか、ヒンヤリとした外気に冷まされ、寒さを感じたものである。

 ハァハァと吐く息が白い。


 冷えた手を温めようと、俺は上着のポケットの中に両手を突っ込んだ。

──ふと指先に、何か硬いものが触れた。


──財布のようだ。

 俺はポケットからその折り畳みの財布を取り出して、中を覗いてみる。開いて先ず目についたのは、抱き合う女性の写真だ。

 一人は、妻だろう。これまで見て来た顔から皺を取り除いた若々しい姿であった。

 もう一人は──女の子だ。それが誰であるのか、俺はすぐに分かった。

──娘だ。

 先程会った朧雅を出産した娘は成人していたが、この写真の娘はまだ子どもである。

 写真紙の質感や色合いからして、まだ撮って間もないものである。

──となると、俺はあれから数十数年は遡ってきたということになる。


 俺は何だか嫌な予感がした。

 この写真が娘であることが分かったのも、この後に起こる出来事を知っていたからである。アネモネの花壇を前に笑みを浮かべる子どもの頃の娘の写真──それと、今俺が手にした写真の娘とが重なって見える。

 年代も同じくらいだ。だとすると──。


──テンッ、テレレッ、テンッ!


 俺の嫌な予感は、どうやら的中したようだ。写真を呆然と見詰めていると、どこからか着信音が鳴った。ズボンのポケットの中で携帯電話がバイブレーションし、俺はそれを慌てて手に取った。


 液晶画面が点灯し、『着信あり』の文字が表示されている。どうやら非通知設定であるらしく、相手の電話番号は表示されていなかった。

 相手にはこちらが出るまで鳴らし続けるという意思があるらしく、何時まで経っても着信音は鳴り止まなかった。


──ピッ!

 相手が誰かは知らぬが、余程重要なことであるのだろう。俺は何とか携帯を操作し、電話を取り次いで耳に当てた。

「……はい?」

 呼び掛けるが応答はなかった。

──操作が間違っているのだろうか?

 一度、電話を耳から離して画面を見る。

『通話中』の表示になっているから、電話は繋がっているのだろう。


「どちら様ですか?」

──無言。

 再び呼び掛けてみるが、相手は黙っていた。


──何だこれは?

 間違い電話だろうか。

 呼び掛けても応じぬ相手に、俺は不審に思ったものである。


『……金の用意は出来たんだろうな?』

 低く、くぐもった声で電話口からそんな声が聞こえてきた。

「……はぁ?」

 思わず聞き返してしまう。


『三千万だよ、三千万円! テメェ、フザケてんのかぁ? テメェの娘の命、今すぐに奪ってやってもいいんだぞ!』

──娘の生命だって……!?

 赤ん坊を抱いた娘と写真の幼い娘の顔が、同時に頭の中に浮かんだ。

 俺は直ぐ様、状況を察した。


 娘が『恐い人に拐われた』ことがあると言っていた──それが今、俺に電話をしてきた相手なのだろう。


 俺はどうやら娘が誘拐された日へと時間を逆行して来たらしい。


「ま、待ってくれ! 娘には手を出さないでくれ! 言われたことは守る。だから……」

 娘に危害が加えられるかもしれないと思ったら、途端に怖くなってきた。頭に娘の笑みや朧雅の顔がチラついた。


 自然と俺は、電話口の相手に懇願していた。

──だが、そう慌てる必要などないのでたる。

 だって──未来の娘は、ああも元気に過ごしていたじゃないか。俺が娘を誘拐犯の手から救出して、無事に育っていったのである。

 だから、恐れることなどないのだ。


 それでも、いざ娘の命が手玉に取られていると思うと、自分の発言が命を左右するのではないかと恐ろしくなってしまい冷静では居られなかった。


『そうか……。じゃあ、金の用意は出来たのか?』

 俺がパニックになっていると逆に誘拐犯の方が落ち着きを取り戻したらしく、冷静な口振りでそう尋ねてきた。

──三千万円。

 それが、娘の身代金であるのだろう。

「ええっと……」

 俺はついつい口篭ってしまう。

 途中参戦の身の上であるので現状が分からなかった。例え、用意が出来ていたとしても、それが何処に保管してあるのか思い当たる節はない。

 もしかしたら、俺がこうして町に出て来ているのは、身代金を用意するために奔走していたからなのかもしれない。銀行に向かう途中であったか──。或いは、犯人の目星がついていて、現場に乗り込むところだったのかもしれない──。

 警察には通報しているのだろうか──?

──色々なことが頭の中に浮かんだ。

 折角、俺が娘のために頑張っていたのに、どうやら未来から来た俺がそれを無にしてしまったようだ。


「……あぁ、勿論だとも。ちゃんと用意してある。だから、娘には手を出すなよ」

 色々考えた末、俺は犯人を刺激しないことを選んだ。

 それは口から出任せであったが──大丈夫だ。娘を救出する未来が先にあるのだから、自分がやれることをやっていけば良い。


『そうか!』

 誘拐犯は興奮気味に、嬉しそうに声を上げた。

──だがコホンと咳払いをして、すぐに声のトーンを下げた。

『警察には知らせていないだろうな?』

「勿論だとも」

 そう誘拐犯を安心させるように俺は答えた。

 しかし、実際のところどうなのだろう。既に通報済みで、何処かで隠れた警察官を俺を見守っている──なんてこともあるのだろうか。


 周囲を見回してみるが、それらしき人影はなかった。

──まぁ、そう簡単に見付かりはしないだろう。


「それより、娘は無事なんだろうな?」

 無事であだろうと想像はついたが、一応確信も欲しいところである。万に一つ、過去が改変されている可能性もないわけではない。

 それに、単なる詐欺師にペテンに掛けられている可能性だってなきにしもあらずである。

 本当に娘が誘拐されて捕まっているというのであれば、その無事を確認したかった。


『ああ、そうだな。……分かった。少しばかり声を聞かせてやる』

 そこで犯人の声が途切れ、代わりに女の子の声が聞こえてきた。

『お父さん!?』

 電話口から聞こえてきたその声は、病室で会話を交した成人となった娘の声と余り変わっていないように感じられた。勿論、電話を通しているのでハッキリと聞き分けられているわけではないが、それが娘のものであると直感的に悟った。

「大丈夫か? 酷いことをされていないか?」

 だから自然と、そんな優しい言葉が俺の口から出たものである。


『うん、大丈夫。怪我もない』

「そうか、良かった。大丈夫だ。すぐに助けに行くからな。もう少しの辛抱だ」

『うん、お父さん。待ってるよ……』


 そこで一方的に娘との会話は打ち切られた。

 誘拐犯に電話を取り上げられたらしい。次いで、先程の男の声が聞こえてきた。


『一時間後に金を持って例の場所に来い。遅刻は許さねぇからな!』

──ブチッ!

 それだけ誘拐犯は言って、電話を切られてしまった。


「例の場所だと!?」

 俺は慌て、電話に向かって叫んだが遅かった。相手は非通知で掛けてきているので折り返すことも出来ない。

──弱ったものだ。

『例の場所』──とは、いったい何処のことを指しているのだろう。少なくとも今までの誘拐犯との会話の中で場所を説明するような言葉はなかった。

 俺が此処に来るずっと前に誘拐犯は場所を指定していたということになる。


──いや、無理だろう。


 情報もなく、犯人が特定した場所を探し当てることなど不可能である。せめて一回目の電話のところからやり直させて貰いたいものだが、ここで文句を言っても仕方がないだろう。


 有余は一時間。

 果たして、それを『有余』と言って良いものなのかは場所が分からないので怪しいところである。遠場で移動に時間が掛かるのならばギリギリの時間設定なのかもしれない。


 何にせよ、場所を特定できなければ動きようもない。

 俺は頭を悩ませた。

──でも、考えたって過去の記憶を思い出すことなど出来ないのである。

「糞っ!」

 俺は苛立って、頭を掻き毟った。

 娘と赤ん坊の顔が頭に浮かび、さらに気持ちが焦った。なんとか助けてやりたい──だが、どうすれば──!


『お父さんには感謝しているわ』

──どこからか、そんな声が聞こえてきた気がして振り返る。

 通りを行き交う人の姿はあれど、当然その言葉を発した相手はそこに居ない。

 将来の娘の姿が思い浮かんだ。


 あの時──娘は何と言っていただろうか?


『お父さんは格好良かったわね。私が怖い人に拐われたのを助け出してくれたんですもの』

──どこだ?

 何処の話をしている?


『……遊園地……』

──そうだ。確か、遊園地であったはずだ。

 俺が娘を助け出したという場所は──。


 そして、脳内をフル回転させる。

『遊園地』──それで、思い当たる場所は──。


──尼崎遊園地。

 そんな場所が頭に浮かんだ。写真でその名を目にした。


 俺は、直ぐ様走り出した。

 大通りに出ると手を挙げ、空車のタクシーを停める。ドアが開くと、急いで中に乗り込んだ。

「どちらまで?」

 眼鏡を掛けた年輩の運転手が振り向き、行き先を尋ねてきた。

「尼崎遊園地まで、お願いします!」

「はい、分かりました」

 運転手は前を向いて機器を操作すると、すぐに車を発進させてくれた。


──待っていろよ!

 窓の外に目を向けながら、俺は娘の無事を祈った。

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