「05」ばいばい

 孫の名前を考えるに当たり、パッと頭に浮かんだのは『与太郎』だとか『松助』といった名前である。

 さすがに『コウノトリ』だとか『テントウムシ』だとか、そんな適当な名前を候補に上げるのは赤ん坊が可愛そうなので一応、真面目に考えることにした。

──まぁこれは、どうせ俺にとっては過ぎ去る未来の出来事であるのだろう。

 例え、女性陣から反感を買う様な名前を口にしたところで時間を退化していく俺には一期一会なので関係ないのかもしれない。


「そうだなぁ……」

 俺は顔をニヤつかせた。

 あっと思わせるような適当な名前が思い付いた。それがなかなか頭から離れず、候補として口に出してやることにした。

 二人をあっと言わせてやろうと口を開きかけたその時──ふと頭の中に、とある光景が浮かんだ。


 それは、俺の臨終の床──病室の一場面であった。

 年を取った娘が、小さな男の子の手を引いていた。

 娘の顔に似て、目鼻立ちがくっきりとした可愛らしい男の子だ。

 見知らぬ男の子──それが、この赤ん坊が大きくなった姿なのだろう。


 俺は一足先に、その姿を目にしていたのだ。


 面識のない俺を「じいじ、じいじ」と呼び、動かない俺の手を小さな手で握ってくれた。

 老い先短い俺を前に──その表情は、子どもながらに何かを感じ取っているようであった。

 俺の末期を、この男の子は悲しんでくれたのだ。

 息を引き取る俺の顔をジーッと見詰める将来の赤ん坊の顔が頭に浮かんだ。


「お父さん、何か良い名前でも思い付いた?」

「あ、いや……」

 娘に呼び掛けられ、俺は慌てて首を左右に振るった。

「もう少し、考えさせてくれ……」


──どうして、適当な名前など付けてやれるだろう。

 俺の死を悲しんでくれたこの赤ん坊の人生を台無しにするような名前を、例え二度と会うことがなかったとしても、俺は付けてやることは出来なかった。


 口から出掛かったその名前を飲み込み、俺は頭をフル回転させた。


──どうにかこの子に良い名前を与えてやりたい。

 その一心で、心変わりした俺はあれやこれやと頭を悩ませて考えた。


 そして──。

朧雅おぼろまさ……なんて、どうかな?」

 それが、俺が悩みに悩み抜いた末に浮かんだ、最高峰の名前であった。


「朧雅……?」

 妻は首を捻った。反応はイマイチであった。

 マズかっただろうか──。

「いい名前じゃない!」

 撤回しかけたが、娘の方はその名前を気に入ってくれたらしい。

 娘が声を上げたので、手の中の赤ん坊が驚いてビクンと体を動かした。それで目が覚めてしまったらしく、赤ん坊は大泣きしてしまった。

「あっ、ごめんね!」

 娘は大慌てで赤ん坊の体を揺らした。


 俺も甲高い声を上げて泣き止まぬ赤ん坊を前に、どうすれば良いのか分からずオロオロとするばかりであった。


「朧雅ね。幸太郎さんにも伝えてみるわ。あの人、お父さんが考えた名前だって言ったら、即オッケーしそうだけれど」

 赤ん坊をあやしながら娘が言う。

 どうやら、赤ん坊の名前は朧雅に決まりそうだ。

 赤ん坊を見詰める俺の顔から自然と笑みが溢れた。自分が命名したのであるから、いっそう可愛く見えてきたものである。


──ところが。

 実際にこの後、赤ん坊の名前が『朧雅』になったかどうか──それを俺が知ることはなかった。

 何故なら、俺の時間はここで終わったからである。

 視界がボヤけ、プツリと意識はそこで途絶えた。


 自ずと俺は悟った。

 時は先には進まず、後ろに戻るのだ。ここで生まれた『朧雅』にはもう前はない。これ以上、彼と関わることはないのである。

 初対面での今生の別れ──。

 もの悲しさを感じつつも、俺にはそれに抗うことはできない。

 妻、娘、赤ん坊──近くにあった温かな存在が、徐々に遠くへ消えていくのを感じたのであった──。

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