第6話 家治は奥医師の津軽季詮に意知の治療に当たるよう命ずる。

おそれながら…、それは上様うえさまおんみずから、山城やましろもとへとおはこびあそばされると?」


 御側おそば御用ごよう取次とりつぎ稲葉いなば正明まさあきらまさに、


おそおそる…」


 といった調子ちょうしで将軍・家治いえはるにそうたずねた。


 それにたいして家治いえはるは、「左様さよう」と如何いかにも、


ことげに…」


 即答そくとうしたかとおもうと、


「されば意知おきともいま医師いしだまりにおるのであったな?」


 家治いえはる津田つだ信之のぶゆきたいしてたしかめるようにたずねた。


 すると信之のぶゆきは、「御意ぎょい」とおうじたうえで、


「されば山城やましろおのれ危難きなんすくいしものれて医師いしだまりへとかいましたるそうにて…」


 やや困惑こんわく表情ひょうじょうかべてそうこたえたのであった。


「されば山城やましろみずか狼藉者ろうぜきもの組伏くみふせたのではないと?」


 正明まさあきらがそう噛付かみついた。


「それが…」


 信之のぶゆきさら困惑こんわく表情ひょうじょうかべた。信之のぶゆきをここまで困惑こんわくさせているのはほかでもない、そく信久のぶひさからの報告ほうこくによる。


 すると家治いえはるもそうとさっして、「かまわぬ、つづけよ」と信之のぶゆきたいして、


気兼きがねなく…」


 さきうながしたので、信之のぶゆきもそれでようやくに決心けっしんがつき、そく信久のぶひさからの報告ほうこくつづけることにした。


「されば…、山城やましろ羽目之間はめのまにていよいよ狼藉者ろうぜきものとどめをされようとしたまさにそのときてんより…、いえ、正確せいかくには狼藉者ろうぜきもの頭上ずじょうよりその…、なにやら胡乱うろんなる…、あやしげなる風体ふうていおとこ降注ふりそそぎ…」


 信之のぶゆきがそこまでげると、「馬鹿ばかな…」という正明まさあきらつぶやごえこえた。まともな反応はんのうと言うべきか。


 だが正明まさあきらのその反応はんのうたるや、信之のぶゆきたいして、


気兼きがねなく…」


 信久のぶひさからの報告ほうこくつづけるようにうながした将軍しょうぐん家治いえはるのそのはんするところであり、事実じじつ家治いえはるには正明まさあきのその反応はんのうおのれ意思いしはんしての、


茶々ちゃちゃ…」


 としかおもえず、温厚おんこう家治いえはるにしてはめずらしく、正明まさあきらめつけ、正明まさあきらくびすくめさせると、信之のぶゆきたいしては一転いってん表情ひょうじょうやわらげてそのさきうながした。


 信之のぶゆき家治いえはる心遣こころづかいに感謝かんしゃしつつ、さらさきつづけた。


「されば…、その胡乱うろんなる…、あやしげなる風体ふうていおとこ狼藉者ろうぜきものあたまめがけて降注ふりそそぎ、それゆえ山城やましろとどめをされずに…」


 信之のぶゆきのその説明せつめい、もとい信久のぶひさからの報告ほうこくにより家治いえはるたちは意知おきともおそわれ、つ、それでもなんとか大事だいじにはいたらなかった経緯いきさつ呑込のみこめた。


「して…、山城やましろはそれな…、狼藉者ろうぜきもの頭上ずじょうより降注ふりそそぎし胡乱うろんなる…、いや山城やましろにしてみればいのち恩人おんじんとももうせるそのものれて医師いしだまりへとかったとのことだな?」


 今度こんど横田よこた準松のりとし信之のぶゆきに、その信久のぶひさからの報告ほうこくについてたしかめるようにたずねた。


 信之のぶゆきは「左様さよう…」とこたえるや、


「されば大目付おおめつけ松平まつだいら對馬つしまほか目付めつけともに、その山城やましろいのち恩人おんじんとももうせるもの取押とりおさえ、やはりべつ目付めつけよって取押とりおさえられし…、ともうしますよりは気絶きぜつしていたためにべつ目付めつけによってこされし狼藉者ろうぜきものとも罪人ざいにんとしてあつかおうとしたために…」


 そうつづけた。大目付おおめつけ松平まつだいら對馬つしまとは對馬守つしまのかみ忠郷たださとのことであり、大方おおかた意知おきともいのち恩人おんじんであるものを、


胡乱うろんなる…、あやしげなる風体ふうていおとこ…」


 忠郷たださとはただそれだけの理由りゆうで、目付めつけめいじてそのもの取押とりおさえるようめいじ、そしてみずからも取押とりおさえにくわわり、それにたいして意知おきとも猛反発もうはんぱつして、そのいのち恩人おんじん忠郷たださとからまもったのであろうと、家治いえはるはそう推察すいさつすると、そのてん信之のぶゆき先回さきまわりする格好かっこうでその推量すいりょうをぶつけてみた。


 家治いえはるのその推量すいりょうは、信久のぶひさちち信之のぶゆきへともたらした報告ほうこくと、


寸分すんぶんたがわぬ…」


 それであったために、信之のぶゆきは「御意ぎょい」と即答そくとうした。


左様さようであったか…、それで意知おきともはそのいのち恩人おんじん忠郷たださとからまもったか…」


 家治いえはる合点がてんがいくと何度なんどうなずき、


しからば、たしてまこと意知おきともさやにて狼藉者ろうぜきもの応戦おうせんいたしたか、それをこのしか見定みさだめずにはおれまいて…」


 そうせんするやいなや、おのれひだりにあるかたなかけばし、そこにかっていた太刀たちると、すくっと立上たちあがった。


 将軍しょうぐん平素へいそ太刀持たちもちの小姓こしょうしたがえていたものの、しかしこといまのように休息之間きゅうそくのまにて政務せいむさいには陪席ばいせきゆるされるのは御側おそば御用ごよう取次とりつぎのみであり、小姓こしょう小納戸こなんど陪席ばいせきゆるされず、それは太刀持たちもちの小姓こしょうもその例外れいがいではなかったので、それゆえ将軍しょうぐん政務せいむさいには太刀持たちもちの小姓こしょうしたがえることが出来できないわりに、ひだりがわかたなかけいてそこに太刀たちけていたのだ。


 さて、太刀たち左手ひだりてって立上たちあがった家治いえはるはそれからぐ、


「して…、意知おきとも医師いしだまりにておもて番医師いしの、それもおそらくはばん外科げかであろうが、その医師いし療治りょうじけているころであろうが、だれ療治りょうじを?」


 信之のぶゆきたいしておもしたかのように意知おきとも担当医たんとういだれなのかをたずねた。


 だが信之のぶゆき流石さすがにそこまではそく信久のぶひさから報告ほうこくけてはいなかったので、そのむね、家治に正直しょうじきつたえた。


 だが家治いえはるはそれにたいして別段べつだん落胆らくたんはしなかった。それと言うのも、信之のぶゆき返答へんとうすなわち、信久のぶひさからの報告ほうこく如何いかんにかかわらず、


「さればばん医師いしだけでは心許こころもとない。おくにも意知おきとも療治りょうじたらせようぞっ」


 家治いえはるはそうこころめており、そのむねせんした。


 おくとは将軍しょうぐん近侍きんじするおく医師いしのことであり、それゆえとく技量ぎりょうすぐれたものえらばれていた。わば、


りすぐり…」


 そのような医師いしめられており、家治いえはるとしては意知おきとものためにそのおく医師いし治療ちりょうけさせてやることにした。


 だが如何いか意知おきとも若年寄わかどしよりとは言え、おく医師いし治療ちりょうけさせるのは前代未聞ぜんだいみもんと言え、それゆえ御側おそば御用ごよう取次とりつぎ稲葉いなば正明まさあきらさきほど、そく信久のぶひさからの報告ほうこくげていた津田つだ信之のぶゆきたいして「茶々ちゃちゃ」をれたために将軍しょうぐん家治いえはるからめつけられたこともわすれて、今度こんど前例ぜんれいたてにして、意知おきともおく医師いし治療ちりょうけさせることに反対はんたいしようとこえげようとしたものの、しかしそれよりもはやくに家治いえはるがそうとさっして、家治いえはるふたた正明まさあきらめつけ、そのくちじさせたものである。


 一方、信之のぶゆき将軍しょうぐん家治いえはるけていったん家治いえはるもとより辞去じきょしたかとおもうと、それからもなくしてここ中奥なかおくにある医師いし部屋べやめていたおく医師いしなかでも外科げか専門せんもん法眼ほうげん津軽つがる良策りょうさく季詮すえのりれてふたた家治いえはるもとへともどってた。そのさい津軽つがる季詮すえのり薬箱くすりばこ持参じさんした。どうやら信之のぶゆきよりめいじられてのことらしい。


 事実じじつ津軽つがる季詮すえのり信之のぶゆき案内あんないにより将軍・家治いえはる御前ごぜんへと召出めしだされるや、まずは薬箱くすりばこわきいて平伏へいふくしつつ、


おそれながら表向おもてむきにて重職じゅうしょく手傷てきずわれたとのよし…」


 家治いえはるたしかめるようにそうたずねたのであった。信之のぶゆき手回てまわしのさがひかり、つ、意知おきともまではしていないあたり、おくゆかしさもかんじさせた。意知おきともまでしてしまえば、


僭越せんえつ…」


 信之のぶゆきはそうかんじて、「重職じゅうしょく」にとどめたに相違そういなかった。


 僭越せんえつとはほかでもない、表向おもてむきにてだれ手傷てきずったのか、それを津軽つがる季詮すえのりげるのはほかならぬ将軍・家治いえはるそのひとであり自分じぶんではないと、信之のぶゆきがそうかんじたであろうことであり、事実じじつ、そのとおりであった。


 そしてそのあたり、信之のぶゆきが将軍・家治いえはるより御側おそば御用ごよう取次とりつぎ同様どうよう寵愛ちょうあいける所以ゆえんひとつであった。


 ともあれ家治いえはる津軽つがる季詮すえのりといたいして、まずは「左様さよう」とこたえると、


「されば若年寄わかどしより田沼たぬま意知おきともぞ」


 季詮すえのり手傷てきずったものおしえたのであった。


 すると季詮すえのりもそこでようやくに得心とくしんしたようであった。


 得心とくしんとはほかでもない、将軍・家治いえはるのさしずめ、


専門医せんもんい


 その立場たちばにあるおく医師いし自分じぶん何故なにゆえ表向おもてむき役人やくにん治療ちりょうたらねばならぬのか、津軽つがる季詮すえのりはそのことがっていたのだ。たとえそれが、信之のぶゆきくちにした、


重職じゅうしょく


 であろうとも、だ。


 だがこと意知おきともともなるとはなしちがってくる。


 なにしろ意知おきとも若年寄わかどしよりなかでは一番いちばん若手わかてでありながら、父・意次おきつぐ同様どうよう


中奥なかおく兼帯けんたい


 をめいぜられていた。


 中奥なかおく兼帯けんたいとはつまりは、


中奥なかおくにて将軍しょうぐんにもつかえるように…」


 という意味いみであり、それゆえこの中奥なかおく兼帯けんたいめいぜられると、たと表向おもてむき役人やくにんであったとしても、将軍しょうぐん居所きょしょであるここ中奥なかおく自由じゆう出入ではいりすることがゆるされるのであった。


 もっとも、それだけにこの中奥なかおく兼帯けんたいめいぜられる表向おもてむき役人やくにん老中ろうじゅう若年寄わかどしよりかぎられており、それ以外いがいの、たとえば寺社じしゃ奉行ぶぎょうでさえも中奥なかおく兼帯けんたいめいぜられることはない。


 ともあれ中奥なかおく兼帯けんたいめいぜられる老中ろうじゅうにしろ若年寄わかどしよりにしろ当然とうぜん将軍しょうぐん寵愛ちょうあいあつものかぎられており、いま田沼たぬま父子ふしそろってこの中奥なかおく兼帯けんたい独占どくせんしている状況じょうきょうであった。


 それだけ田沼たぬま父子ふしが将軍・家治いえはる寵愛ちょうあいあつ証左しょうさと言え、そのうちそく意知おきとも手傷てきずったとなれば、


成程なるほど上様うえさま身共みども召出めしいだされたのも当然とうぜん…」


 将軍しょうぐん家治いえはる専門医せんもんいである自分じぶん意知おきとも治療ちりょうたらせようとするのも当然とうぜんと、津軽つがる季詮すえのり合点がてんがいった。


 それでも津軽つがる季詮すえのり一応いちおう


おそれながら…、田沼たぬま山城守やましろのかみへの療治りょうじにはおもて番医師ばんいしが…、それもばん外科げかが…」


 おもて番医師ばんいし面子メンツおもんぱかってみせた。今頃いまごろおもて番医師ばんいしが、それもばん外科げか医師いし意知おきとも治療ちりょうたっているに相違そういなく、そこへおく医師いし自分じぶん格好かっこう意知おきとも治療ちりょうたれば、それまで意知おきとも治療ちりょうたっていたばん外科げか医師いしもとより、おもて番医師ばんいし全体ぜんたい面子メンツつぶすことにもなりかねず、ひいてはおもて番医師ばんいし全体ぜんたいてきまわすことにもなりかねず、津軽つがる季詮すえのりはそれをおそれていたのだ。


 それにたいして家治いえはる津軽つがる季詮うえのりのそのような胸中きょうちゅうさっしつつも、それで引下ひきさがるわけにはゆかず、


おもて番医師ばんいしでは心許こころもとのうて…、されば将軍しょうぐんとしてめいずる。意知おきとも療治りょうじたれ」


 家治いえはる将軍しょうぐん威光いこう持出もちだして津軽つがる季詮すえのりあらためて意知おきとも治療ちりょうめいじたのであった。


 こうなると津軽つがる季詮すえのりとしてもこのうえ峻拒しゅんきょゆるされず、「ははぁっ」とおうずるよりほかになかった。


 家治いえはるはそんな津軽つがる季詮すえのりたいして表情ひょうじょうやわらげたかとおもうと、


「さればかり意知おきとも療治りょうじせしことにより、おもて番医師ばんいしより雑音ざつおんがあろうとも、そのときには左様さようなる不心得ふこころえもの厳正げんせい処断しょだんするゆえ季詮すえのりよ、なん気兼きがねのう、意知おきともへの療治りょうじ専念せんねんせよ…」


 季詮すえのりにそう請合うけあったのであった。






 



 

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