第7話 家治は御三卿の一橋治済と清水重好をも随えて意知の元へと急ぐ。

 さて、こうして外科げか専門せんもんおく医師いしである法眼ほうげん津軽つがる良策りょうさく季詮すえのり意知おきとも治療ちりょうめいじた将軍しょうぐん家治いえはるみずか太刀たちにして、今頃いまごろおもて番医師ばんいし、それもばん外科げかによる治療ちりょうけているであろう意知おきとものいる医師いしだまりへとあしはこぼうとしたので、津田つだ信之のぶゆきあわててその先立さきだちをつとめ、御側おそば御用ごよう取次とりつぎ稲葉いなば正明まさあきら横田よこた準松のりとし、そして本郷ほんごう泰行やすゆき夫々それぞれ家治いえはる左右さゆううしろにまわり、家治いえはる警護ガードした。


 そして津軽つがる季詮すえのり薬箱くすりばこかかえてさらにそのうしろ…、家治の真後まうしろを警護ガードする本郷ほんごう泰行やすゆきあとをついてった。


 そのさい家治いえはる一行いっこうひきいていた津田つだ信之のぶゆき口奥くちおくとおって表向おもてむきへとることにした。


 将軍しょうぐん居所きょしょであるここ中奥なかおくと、意知おきともいまおもて番医師ばんいし治療ちりょうけている医師いしだまりがある表向おもてむきとは厳格げんかく仕切しきられており、中奥なかおく表向おもてむきとを往来ゆききするにはかみ錠口じょうぐちおよ口奥くちおく、この2箇所かしょいずれかをとお必要ひつようがあった。


 このうちかみ錠口じょうぐちとは将軍しょうぐん表向おもてむき出御しゅつぎょするか、あるいは将軍しょうぐんされた表向おもてむき諸役人しょやくにん中奥なかおくへとはい場合ばあいかぎ使つかわれる通路つうろであり、いままさにそうであり、本来ほんらいならばかみ錠口じょうぐちとおって表向おもてむきへとるべきところであった。


 だが生憎あいにくかみ錠口じょうぐち平素へいそまさに今、厳重げんじゅう施錠せじょうされており、それゆえかみ錠口じょうぐちとおって表向おもてむきへとようとおもえば解錠かいじょうせねばならず、このかぎっているのは小納戸こなんどであり、かみ錠口じょうぐちとおって表向おもてむきへとようとおもえばそのかぎ保管ほかんしている小納戸こなんどたのんで解錠かいじょうしてもら必要ひつようがあり、しかし家治いえはる一行いっこうひきいる、それも意知おきとももとへといている家治いえはる先立さきだちをつとめる津田つだ信之のぶゆきとしてはそのような無駄むだ時間じかんをかければ、


上様うえさま不興ふきょううは必定ひつじょう…」


 それがかっていたからこそ、本来ほんらい将軍しょうぐん表向おもてむきへと出御しゅつぎょするさいには使つかわない口奥くちおくとおることにしたのだ。


 この口奥くちおくとは時斗之間とけいのま別称べっしょうであり、老中ろうじゅうひるの「まわり」において最初さいしょ見廻みまわ部屋へやでもあり、大抵たいてい場合ばあい、この口奥くちおくとおって表向おもてむき中奥なかおくとを往来ゆききする。たとえば中奥なかおく支配しはいする御側おそば御用ごよう取次とりつぎばれた表向おもてむき諸役人しょやくにん中奥なかおくにいる御側おそば御用ごよう取次とりつぎうべく、表向おもてむきから中奥なかおくへと立入たちいさいなどにこの口奥くちおく使つかわれるのであった。


 そして口奥くちおくかみ錠口じょうぐちとはちがって日中にっちゅう施錠せじょうなどされてはおらず、そのわりに時斗之間とけいのま坊主ぼうずめており、彼等かれら坊主ぼうずしゅう表向おもてむき中奥なかおくとのあいだにおけるひと往来ゆきき、とりわけ表向おもてむきから中奥なかおくへとはい人間にんげんひからせていたのだ。なにしろ中奥なかおく将軍しょうぐん居所きょしょであるので、時斗之間とけいのま坊主ぼうずしゅう表向おもてむきからその中奥なかおくへと、


胡乱うろんなるもの…」


 そのようなもの立入たちいらないようひからせるのは至極しごく当然とうぜんであり、それゆえ表向おもてむき諸役人しょやくにん将軍しょうぐんされたわけでもないのに中奥なかおくへとはいろうとおもえばかならずやこの口奥くちおくにて時斗之間とけいのま坊主ぼうずしゅう穿鑿せんさくけることになる。


 そのわり中奥なかおくから表向おもてむきへと移動いどうするものにはそれほど注意ちゅういはらわなかった。


 まして家治いえはるはその中奥なかおくあるじいや御城えどじょうあるじなのである。そうであればその家治いえはる中奥なかおくから表向おもてむきへとうつろうとも、それどころかぎゃく表向おもてむきから中奥なかおくへとうつさいにも、時斗之間とけいのま坊主ぼうずしゅう家治いえはる表向おもてむき諸役人しょやくにん同様どうよう穿鑿せんさくなど出来できようはずもなかった。


 ともあれ津田つだ信之のぶゆきかる事情じじょうから口奥くちおくとおって表向おもてむきへとることにし、それにたいして家治いえはるまえある信之のぶゆきのその方角ほうがくから、口奥くちおくへとかっていることがぐにさっせられ、つ、信之のぶゆきのその選択せんたく至当しとうみとめ、だまって信之のぶゆきあとをついてった。


 こうして家治いえはる一行いっこうはまずは口奥くちおく目指めざしたわけだが、そのさいひかえ座敷ざしきまえ廊下ろうかとお必要ひつようがあった。


 ひかえ座敷ざしきとは御三卿ごさんきょう詰所つめしょであり、将軍家しょうぐんけである御三卿ごさんきょうにはこの中奥なかおくひかえ座敷ざしきなる詰所つめしょあたえられ、尚且なおかつ、御三卿ごさんきょう今日きょうのような平日へいじつ行事ぎょうじのある式日しきじつわず、毎日まいにち登城とじょうしてはこのひかえ座敷ざしきめる特権とっけんゆうしていた。


 それゆえ今日きょうもそのひかえ座敷ざしきには御三卿ごさんきょう一橋ひとつばし民部みんぶ治済はるさだ清水しみず宮内くない重好しげよし二人ふたりめていた。ちなみに御三卿ごさんきょう筆頭ひっとう田安たやす家はいま当主とうしゅ不在ふざい明屋形あきやかたであるので、当然とうぜん田安たやす家の当主とうしゅ姿すがたはそこにはなかった。


 その一橋ひとつばし治済はるさだ清水しみず重好しげよしめるひかえ座敷ざしきまえ廊下ろうか家治いえはる一行いっこう口奥くちおく目指めざして、


足早あしばやに…」


 とおぎたものだから、治済はるさだにしろ重好しげよしにしろ、


「すわ一大事いちだいじ


 瞬間的しゅんかんてきにそうさとったようで、二人ふたり同時どうじ立上たちあがると、座敷ざしきからては、


上様うえさまっ」


 治済はるさだ重好しげよし二人ふたりはやはり同時どうじ家治いえはる一行いっこう後姿うしろすがたたいしてそうこえをかけ、そのあゆみめさせた。


 最初さいしょまったのは家治いえはるで、それで左右さゆうならんでいた稲葉いなば正明まさあきら横田よこた準松のりとし同時どうじ立止たちどまったのは当然とうぜんとして、家治いえはる真後まうしろをあるいていた本郷ほんごう泰行やすゆきさらにその真後まうしろをあるいていた津軽つがる季詮すえのりもやはり同時どうじ立止たちどまり、唯一ゆいいつ家治いえはる先立さきだちをつとめていた津田つだ信之のぶゆきのみやや、と言っても一瞬いっしゅんぎないがおくれて立止たちどまった。


 こうして治済はるさだ重好しげよしこえにより立止たちどまった家治いえはるこえのした後方こうほうへと振返ふりかえろうとし、家治いえはる真後まうしろにいた本郷ほんごう泰行やすゆきさらにその真後まうしろにいた津軽つがる季詮すえのり二人ふたりもそうとさっすると、


かせて…」


 家治いえはる振返ふりかえるよりも一瞬いっしゅんはやく、わきへとり、家治いえはるこえぬし、もとい治済はるさだ重好しげよし二人ふたり見易みやすいようにした。


 一方いっぽう家治いえはるこえから治済はるさだ重好しげよしちがいないことはさっしており、振向ふりむざま治済はるさだ重好しげよし二人ふたり姿すがたみとめたので、


「おお、民部みんぶ殿どの、それに重好しげよしも…」


 家治は二人ふたりにそうこえをかけた。それにしても家治いえはる治済はるさだには、


民部みんぶ殿どの


 そのように官職かんしょくめいにて、それも「殿との」という敬称けいしょうけてんだのにたいして、重好しげよしには治済はるさだとはちがい、官職かんしょくめいではなく、そのうえ、「殿との」という敬称けいしょうもつけずに、


重好しげよし


 そのいみなでもって呼捨よびすてにしたあたり、


距離感きょりかんちがい…」


 というものがそこはかとなくうかがれた。


 さて、家治いえはる立止たちどまったことで、治済はるさだ重好しげよし家治いえはるもとへと駈寄かけよった。


上様うえさま如何いかがなされましたので?」


 最初さいしょうたのは治済はるさだであった。


「うむ、表向おもてむきにて意知おきともおそわれたのだ」


 家治いえはるがそうこたえると治済はるさだ重好しげよし同時どうじおどろきの表情ひょうじょうかべてみせたかとおもうと、しかしその直後ちょくごことなる反応はんのうしめした。


 いや治済はるさだにしろ重好しげよしにしろ、おどろきの表情ひょうじょうかべたあとには深刻しんこくそうなそれへとてんじさせたものの、しかし、治済はるさだはほんの一瞬いっしゅんだが、おどろきの表情ひょうじょうかべた直後ちょくご喜色きしょくかべたのを家治いえはる見逃みのがさなかった。


 一方いっぽう治済はるさだとは対照的たいしょうてき心底しんそこ深刻しんこくそうな様子ようす重好しげよしは、


「して、意知おきとも容態ようだいは?」


 意知おきとも気遣きづかってみせた。重好しげよし家治いえはるとは腹違はらちがいであるとは言え、兄弟きょうだい間柄あいだがらであり、それゆえあに家治いえはる田沼たぬま父子ふし寵愛ちょうあいしていることも承知しょうちしていたので、重好しげよし日頃ひごろより田沼たぬま家との交際こうさいかさなかった。もっともそれは重好しげよしかぎったことではなかったが。


 ともあれ重好しげよし日頃ひごろより交際こうさいしていた田沼たぬま意次おきつぐそく意知おきともおそわれたとり、そのあんじた。


 そこで家治いえはるおとうと重好しげよし安心あんしんさせてやるべく、


「いや、さいわいにもきず具合ぐあいかるいようだ」


 意知おきとも軽症けいしょうであるらしいことをつたえたのであった。


 すると重好しげよし家治いえはる見越みこしたとおりの反応はんのうしめした。


 すなわち、重好しげよし意知おきとも軽症けいしょうだとつたえられるや心底しんそこ安堵あんどした様子ようすであり、一方いっぽう治済はるさだはそれとはこれまた対照的たいしょうてきにやはりほんの一瞬いっしゅんだが、今度こんどぎゃく深刻しんこくそうな表情ひょうじょうかべ、家治いえはるはやはりその一瞬いっしゅん見逃みのがさなかった。


 無論むろん治済はるさだ深刻しんこくそうな表情ひょうじょうかべさせたのもつかぎず、それからぐに重好しげよしおなじく、安堵あんどいろかべさせると、


「されば一先ひとまずは安心あんしん…」


 家治いえはるにそうげたのであった。


まったく…、白々しらじらしい…」


 家治いえはる治済はるさだ反応はんのうたいして内心ないしん、そうひょうしたものの、しかしそれをくちにはせず、


「うむ、そのとおりぞ」


 家治いえはる治済はるさだにそうおうじてみせた。


 治済はるさだはそれからおく医師いし津軽つがる季詮すえのりほうへとてんじた。治済はるさだ御三卿ごさんきょうとして日頃ひごろよりここ中奥なかおく出入でいりしていたので、津軽つがる季詮すえのりのことも勿論もちろん把握はあくしており、


「されば…、よもや津軽つがる良策りょうさく田沼たぬま山城やましろ療治りょうじたずさわらせる所存しょぞんにて?」


 家治いえはるにそうたずねたのであった。


 それにたいして家治いえはるは、「如何いかにも」と、如何いかにも、


ことげに…」


 そうおうじてみせたのであった。


 治済はるさだとしては稲葉いなば正明まさあきら同様どうよう


前例ぜんれい…」


 それをたてにして、おく医師いしである津軽つがる季詮すえのり意知おきとも治療ちりょうたらせることに反対はんたいしようとしたのだが、しかし、


つかえしおく医師いし意知おきとも療治りょうじたらせることになに文句もんくでもあるのか…」


 家治いえはるはその身体からだ全体ぜんたいからその意思いしを、それもつよ意思いしこうじさせていたので、治済はるさだもそうとさとると、家治いえはるのそのつよ意思いし気圧けおされて反対はんたい出来できなかった。


 こうして家治いえはる治済はるさだの「反対はんたい」をふうじてみせるや、


「さればさきいそぐゆえ…」


 治済はるさだ重好しげよしにそうげてきびすかえそうとすると、


「されば身共みどもともつかまつりまする」


 重好しげよし同道どうどう願出ねがいでたのであった。


 それを家治いえはるは、「おお、それがい」と重好しげよし同道どうどう快諾かいだくしたので、こうなると治済はるさだとしても重好しげよしへの対抗上たいこうじょうみずからも同道どうどうしないわけにはゆかず、


「されば身共みどもともを…」


 治済はるさだ家治いえはるにそう願出ねがいでたのであった。


 それにたいして家治いえはる内心ないしんでは、


無理むりしてついて来る必要ひつようはない」


 そうおもったものの、しかしやはりその内心ないしんくちにするわけにもゆかず、「左様さようか」とこたえると、


「まぁ、気儘きままになされよ…」


 ご勝手かってにと、家治いえはる重好しげよしには同道どうどう快諾かいだくしたのとは対照的たいしょうてきに、治済はるさだにはじつふくみのある言回いいまわしでもっておうじた。


 ともあれこうして家治いえはる一行いっこうさら治済はるさだ重好しげよしくわわり、意知おきとももとへといそいだ。

 




 


 

 

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