エピソード 2ー1
ベッドで眠っていた私は、窓辺から差し込む朝日を浴びて目覚めた。
共用の洗面所へと足を運び、歯を磨いて顔を洗う。
正面には大きな鏡があり、蛇口を捻れば綺麗な水が湧き出てくる。これだけの設備を女中に用意する国が、ポーションすら創れないなんて信じられない。
一体、どんな発展の仕方をしたら、こんなに不思議な状況になるんだろう?
この国の歪な発展状況に首を傾げながら、異空間収納から取り出した服に着替える。
選んだのは、淡いブルーに染め上げたAラインのドレス。刺繍が施されたそれは丈が少し短めで、絨毯が敷かれていない場所を歩いても汚れることのない外出用だ。
そのドレスを身に纏い、特務第八大隊の開発局に足を運ぶ。魔封じの手枷を外してもらうことと引き換えに、ポーションの開発などについて協力することを約束したから。
余談だけど、特務第八大隊の開発局は、本部や宿舎に併設された建物の中にある。その建物に足を踏み入れ、軍部で発行してもらった身分証を使って施設の中に足を踏み入れた。
「迎えが参りますので、少しそこでお待ちください」
受付の指示に従って待機。ぼんやりと施設内を眺めていると、通りかかった施設の人々がチラ見している。おそらく、私の異世界ファッションが原因だろう。
異国の人間が珍しくない特務第八大隊に置いても、私の私服は珍しいようだ。
「やぁ、また会いましたね」
私に声を掛けてくる者が現れた。
「あら、あなたはたしか……水瀬さんでしたね」
いつか、廊下の窓枠に腰掛けていた気怠げな青年だ。
今日もシャツの上に着物、それに袴とブーツという取り合わせという書生スタイルで、右腕を袖の中に引っ込めて、着物の合わせ目の下に差し入れてたたずんでいる。
「ふふっ。名前を覚えてくれていたとは光栄ですね。異世界からやってきたお嬢さん」
「どうぞ、私のことはレティシアとお呼びください」
「これはご丁寧に。だけど、素性の分からぬ相手に名乗るのは、少しばかり不用心ではありませんか? 僕のことを怪しいとは思わないのですか?」
咎めるというよりも、試すような口調。その黒い瞳が好奇心で輝いているし、私がどこまで気付いているか知りたいのだろう。
まるで、ちょっぴりイジワルで賢い――子供みたいだ。
「あなたは特務第八大隊のお方なのでしょう? でなければ、怪しげなあなたが特務第八大隊の施設内を闊歩(かっぽ)して、誰にも咎められないのは不自然ですから」
「キミは、色々と考えているようですね」
「……キミは? もしや、巫女様にもお会いしたのですか?」
誰かと比べられるような口調から、比較の対象は似た境遇の巫女だろうと当たりを付けた。その予想は当たっていたようで、彼は無邪気な笑みを見せた。
「良いですね、とても良い。開発局に出向を命じられたときは、師匠に面倒な仕事を押し付けられたと思っていましたが、キミとの話は実に有意義なものになりそうです」
「師匠、ですか?」
「ええ、僕の師匠は高城 吉左衛門と言います。天才科学者ではあるんですが、軍部に技術協力を要請され、断るのが面倒だからと僕に押し付けた鬼畜ですよ」
彼の口から紡がれた悪口はけれど、師に対する尊敬の念が滲んでいた。というか、僕も自分の研究がしたかったのにと、心の声が聞こえてきそうな表情である。
出会ったときの気怠げな表情とは真逆。
その師匠とやらと同様に、彼も研究に対して並々ならぬ情熱を抱いているのだろう。
「あなたの師は、あなたになら任せられると思ったのではありませんか?」
ふと思い浮かんだことが口をついた。それは彼にとって、思ってもいなかったことだったのだろう。彼は袖の中から腕を取り出し、指を顎に添えた。
「……まさか、あの師匠が、僕にそんなことを?」
「ないと思うのですか?」
「どうでしょう? でも、もしそうだとしたら悪い気はしませんね。ふふ、貴女の些細な一言でこんな気持ちになるなんて……あなたのことが気に入りました」
「あら、ありがとう――」
ございますと言い終えるより早く、「どうぞ、これから仲良くしてください」と抱きしめられる。その唐突な行為に私は目を見張った。
「な、なんのつもりですかっ」
敵意がなく、あまりに突然で避けられなかった。だから、我に返った私は彼の肩を摑んで引き剥がし、彼の暴挙に対して非難の視線を向けた。
そうして警戒する私を前に、水瀬さんはおやっと首を傾げる。
「これは西洋の挨拶だと聞いたのですが……おっと、そういえば、あなたは異世界人でしたね。これは、大変申し訳ないことをしました」
「あ、いえ、私の方こそ、挨拶だとは思わず、失礼しました」
私は早くなった胸の鼓動を手で押さえつけ、一つ、二つと深呼吸をする。落ち込む水瀬さんを見て、少し申し訳ない気持ちになったのだけれど……それは一瞬だった。
彼は一転、さきほどのことを忘れたような様子で詰め寄ってくる。
「ところで、挨拶の方法が異なるということは、文化が異なるということですよね。あなたの世界で、女性に最大の敬意を表す挨拶はどのようにするのですか」
「え? そうですね。片膝をついて、手の甲にキスをする、でしょうか」
「こう、でしょうか?」
彼が片膝をつく。体勢が少し違っていたので、私はそれを指摘した。飲み込みが早いようで、水瀬さんはすぐに堂に入った姿で膝を付いて私を見上げる。
私には見慣れた仕草だけど、相手が和服だからか、妙に新鮮に感じた。
「レティシア嬢、どうか僕に、あなたの手の甲にキスをする栄誉をいただけませんか?」
「ゆ、許します」
仕草が様になりすぎだと、動揺しつつも許可を出す。
私の手の甲に、彼が恭しく唇を落とした。と言うか、受付の前なので、物凄く目立っている。恥ずかしくて、顔から火が出そうなレベルだよ。
私はそんな風にテンパっているというのに、彼は自然な仕草で立ち上がった。
「なるほど、これが異世界の挨拶。西洋にも似たような挨拶があったはずですが、完全に同じという訳ではないようですね。非常に興味深い」
ブツブツと呟く彼は学者の顔つきをしている。私の手の甲にキスをしたことなど、まったく意識してないように見える。私は凄く恥ずかしい思いをしたのに不公平だ。
上目遣いで睨みつけると、彼ははっという顔をした。
「失礼しました。本題から話がずれましたね。さっそくですが、研究室に案内いたします。ぜひ、私に異世界の技術を伝授してください」
この人、研究に関連したことしか興味がないらしい。振り回されることが馬鹿馬鹿しくなった私は溜め息を吐き、さきに歩き出した彼の後を追い掛けた。
「――という訳で、あらためて。ようこそ、特務第八大隊の開発局へ」
連れてこられたのは大きな研究室だった。
私が思い浮かべる研究室は、魔石や紋様を刻んだ道具が転がっているイメージだが、そこに広がるのは、そのイメージとは大きく異なっていた。
よく分からない計器の数々。
白衣を纏う職員達が、計器の付いた機械に向かってなにかを話し合っている。そのうちの一人がこちらに気付き、手を止めて近付いてくる。
「水瀬局長、もしや彼女が噂のお嬢さんですか?」
「そうだ、巫女召喚に巻き込まれたという女性だ」
「おぉ、やはり……っ」
そのやりとりを切っ掛けに、職員達の視線が一斉に私に向けられた。聖女として注目されることに慣れている私は「レティシアと申します」とカーテシーで応じる。
それから私は、水瀬さんに「局長なのですか?」と問い掛けた。
「おや、言っていませんでしたか? 局長として派遣されてきたのですよ」
「では、ここで特務第八大隊の兵装を開発しているのですか?」
「開発だけでなく、製作も請け負っていますよ。無論、この部屋で、ではありませんが」
別の部屋に工房が存在しているらしい。魔封じの手枷を外してもらうためにも工房を見てみたいと思ったのだけれど、水瀬さんがわくわくと言った面持ちでこちらを見ている。
それを見ただけで、彼がなにを望んでいるのか察してしまった。
「……さっそく、薬草をお渡ししましょうか?」
「えぇ、ぜひっ!」
手をぎゅっと握られた。物凄い食いつきである。
というか、顔が近い、顔が近いよ!
なんか、凄くまつげが長いんだけど、この世界には美形が多すぎじゃないかな?
「さあさあ、薬草を出してください」
「いえ、あの……手を握られていると、出せないのですが?」
「おっと、これは失礼しました」
彼はぱっと手を離すが、詰め寄った距離は空けるもりがないらしい。美形は多いけど、その分変わり者も多いかも知れない。
というか、ここで異空間収納を使ってもいいのだろうか? と視線を泳がせば、水瀬さんが私の心を読んだかのように「大丈夫ですよ、ここにいる者達は口が堅いですから」と言う。
私は苦笑いを浮かべつつ、異空間に手を差し入れた。
刹那、周囲がざわめき、そして――
「ふむ、僕の手は入りませんね」
異空間に突っ込んだ私の手を追って、水瀬さんが手を差し出していた。
私はその行動に思わず目を丸くする。
「水瀬さん……なにをしているんですか?」
「いやぁ、異空間収納というものに興味がありまして」
「気持ちは分かりますが……危ないですよ?」
異空間収納にはいくつかの制約があり、彼の手が異空間に入ることはない。でも、もしも彼の手が入って、しかも私が異空間を閉じた場合、彼の手が切断されることになるだろう。
そう伝えると、彼は思案顔を浮かべた。
「それは、なんとも興味深い現象ですね」
「……ええっと」
自分の腕が切断されるかもしれない現象を、興味深いで済ませていいのかな? よくないですよね? と周囲に意見を求めるが、他の職員達も興味津々である。
私はちょっぴり顔が引き攣るのを自覚しながら、異空間収納から薬草の束を取り出した。
「これが回復ポーションに必要な薬草です」
「うぉぉおぉ、本当に虚空から薬草が!」「素晴らしい技術だ!」「ぜひ、その技術を解明したい!」「無線機を入れたらどうなるんだ!?」「むしろ中に入ってみたい!」
……マッドサイエンティスト、マッドサイエンティストの集団だよ。
取り出した薬草よりも、異空間収納の方に感心されている。元の世界でも、異空間収納を羨ましがったり、珍しがったりする者は多かったけど、ここまでの反応をする者はいなかった。
中に入ろうなんて発想、普通は怖くて出来ないよ。
取り敢えず、生きた人間は中に入れることが出来ない。そう説明して落ち着かせ、まずは薬草についての話を進めて欲しいと促した。
それで彼らはようやく我に返った。
「そうだった、薬草だ」
「これが異世界の植物か?」
「見た目はこの世界の植物と変わらんな」
「局長、一株、成分の調査に使ってもよろしいですか!?」
薬草の研究についても同じような反応で、やっぱり話が進まなかった。
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