2章 心は弦に応じ手は鼓に応ず

 禍福はあざなえる縄の如しで、良いことも悪いことも交互に起こる。


 皇帝の息子と結婚できると思っていたら、その息子は第十八子であって次の皇帝になれる見込みは無さそうだった。


 実際に結婚してみると、寿王は良い男であって、幸せを手にすることができた。楊玉環が寿王にとっての最初の妻であり、まだ側室もいない。なので毎夜のように閨で二人は慈しみ合った。


 陰陽の気が合ったためか、楊玉環はすぐに身籠もった。それを知った寿王も、心から喜んでくれた。そしてこの時こそが、楊玉環の生涯の中で幸福の絶頂期であった。


 妊娠が発覚してからは、烈しく動く胡旋舞の練習は控えるようになった。その代わり、七弦琴を爪弾くことや笛を吹くことは特に支障は無い。だが、元来体力に優れている楊玉環は体を動かすことを制限されることによって鬱屈を溜め込んでいた。初めての妊娠でもあるので、当然、不安も一杯であった。


 良いことと悪いことが交互に起こるものとして、次が悪いことの順番だったのかもしれないが、楊玉環は流産してしまった。


 楊玉環は泣きながら夫の寿王に謝った。寿王は妻を責めることもなく優しく抱き締めて、一緒に悲しんで泣いてくれた。


 流産という重い不幸を背負い過ぎたせいか、天秤が釣り合いを取ろうと働いたのか、寿王に良い流れがやってきた。


 時の権力者、宰相の李林甫が寿王の聡明さと素直さに目をつけたのだ。寿王の母親である武恵妃が現時点では最も玄宗皇帝に目をかけられている寵姫でもあり、二人の思惑が合致した。


 李林甫と武恵妃は、現在の皇太子を廃して、第十八子である寿王を皇太子として立てるべきだ、と皇帝に働きかけ始めた。


 最も信頼している宰相と、最も寵愛している妃に言われたからといって、皇帝が一人で皇太子を勝手に決めるわけにはいかない。皇太子はやがて皇帝となり大唐帝国の頂点に君臨する。不的確な人物を皇太子に据えることは国の屋台骨を揺るがす大問題となってしまう。況してや現皇太子を廃して、となるとなおさらだ。


 玄宗皇帝は慎重に寿王の人物を見定めることにした。


 といっても皇帝が自ら息子を査定するわけではない。その役目は玄宗皇帝の側近中の側近である宦官の高力士に託された。


 面会のために邸宅に訪問してきた高力士を、寿王と楊玉環がもてなしのために奔走する。


 訪れた高力士には、贅を尽くした料理と酒がふるまわれた。当然、容貌の美しい侍女のお酌である。去勢された宦官ではあるが、元は男である。高力士も美女に接待されて悪い気はしなかった。


「続きまして、我が妻による胡旋舞をご披露いたします」


 薄絹の衣裳に身を包んだ楊玉環が、高力士の前に出てきた。


 流産による心身の疲労は大きかったものの、日が経つにつれての回復も目を瞠るものがあった。夫の寿王が立太子されるかもしれないという情勢を知って、妻としては協力を惜しまないつもりだった。美貌だけではなく歌舞音曲の才能にも恵まれていることを、ここで利用しなくてどうするというのか。


 妊娠中や流産の直後は、体を動かす舞踊の練習は休んでいたため、若干感覚が鈍っていた。それを取り戻すように、楊玉環は短期間で集中的に練習を重ねた。その場でくるくると旋回する胡旋舞によって、遠心力で流産の辛い記憶をそのまま吹き飛ばそうかというくらいに。


 高力士が見つめる前で、伴奏の楽器の音色に合わせて楊玉環は舞った。妖艶な炎のように情熱的に腕を挙げて、回る。肩を上下させて、手先は太鼓の音に呼応してきびきびと動かす。右に回り、止まるかという時に上に跳ねたかと思ったら、今度は左に回り出す。六幅の裙の襞が流れるように翻る。休むところを知らず、弦と太鼓の音に寄せて一心不乱に楊玉環の世界を現出していた。


「ほう。これはこれは」


 高力士が髭の無い口の中で小さく呟いたのが、本人以外の誰の耳に届いたか。


 実際に高力士は感嘆の溜息を禁じ得なかった。寿王の妻の舞いは素晴らしい技量であり、魅了された。


 だがそれ以上に、その寿王の妻の美貌に驚かされた。


 高力士は宦官である。宦官というのは、後宮の世話をするために去勢した男子だ。掖庭宮と呼ばれる後宮には、皇帝のための妃として三〇〇〇人ほどの美女が居る。美女など見慣れていて見飽きている高力士でさえ驚くほどなのだから、楊玉環の美貌は本当に優れていたのだ。


 満足げな笑顔で丁寧な接待への礼を述べて高力士は帰った。


 寿王と楊玉環のもてなしは成功だった。二人は満足感で一杯だった。立太子も時間の問題だろう。


 と、思っていたところ、また情勢が大きく転換した。


 寿王の母であり、立太子を推していた武恵妃が亡くなった。


 結果として、現皇太子は廃されたものの、寿王は代わりの皇太子とされることは無かった。


 高力士が推薦する玄宗の三男が皇太子となった。後の粛宗皇帝である。


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