3章 華清宮の入浴

 寿王と楊玉環には、立太子騒動は単なる徒労感だけをもたらすものだった。


 それでも、皇太子にならなかったということは、政治の中枢における欲望蠢く権力闘争に巻き込まれずに済んだということでもある。愛し合う夫と妻で仲良く生きていくことができれば、それはそれで幸せなはずだ。


 そう考えていた夫妻だったが、やがて一つの残酷な事実に気付き始めた。


 最初の流産した子どもはすぐに身籠もったにもかかわらず、次の子どもをなかなか身籠もらないのだ。


 楊玉環は自ら認めなければならなかった。流産を機に、妊娠できない体になってしまったことを。


 再び、楊玉環は泣いて夫に謝った。今度ばかりは夫の落ち込みは激しかった。寿王は子どもが欲しかったのだ。


「仕方ない。子どもがほしいので、妾を持つことにする」


「わたくしは、もう用済みですか。もう、愛してはくださらないのですか」


「愛している。そなたは美しく才能も優れているし妻として申し分ない。子どもができなかったこと以外は文句の一つもありはしない。妻としてそなたのことは今後も愛し続けるが、子どもが欲しいので、そちらのために別に妾を用意する。理解してほしい」


 そう言われては玉環には感謝する以外に無かった。子どもが産めないというからには、棄てられたとしても文句は言えないところを、変わらずに妻として大事にしてくれるだけでも僥倖だ。


 改めて寿王の妻として夫を愛して生きていこうと誓ったのも束の間だった。


 皇帝陛下から寿王の邸宅に使いがやって来た。もちろん、立太子の使いではない。


 寿王の妻の楊玉環を、現在皇帝が滞在している驪山の麓にある華清池の温泉宮に召し出したい、という通知であった。


 過日、高力士が寿王との面会に来た時に、楊玉環の美貌を見出していて、皇帝に進言したのだ。


 玄宗皇帝は立太子騒動で政治というよりは政権闘争に飽き飽きしていた。また、寵愛していた武恵妃が亡くなったので、新しい寵姫に心を癒して欲しかったのだ。といっても、既に掖庭宮にいる女たちなど、玄宗の目にかなう者がいないのが判っている。


 どこか別のところに良い女はいないか。できれば見た目が美しいだけでなく、才覚に富んでいる者が良い。美しいだけの女など、後宮で見慣れて見飽きている。高力士よ、心当たりは無いだろうか。


 という玄宗の問いかけに、ここぞとばかりに高力士は寿王の妻の名を告げた。


 皇帝から通知が来たということは、それは皇帝命令なので応じなければならない。


 寿王は本気で泣いた。


「なぜ、どうして、実の父親に自分の妻を横取りされなければならないのだ」


 一方、楊玉環の反応は冷めていた。どういう形にせよ、女の生涯は男の都合に振り回されるだけのものなのだ。父が息子の妻を寝取るなど、儒教を奉じる杓子定規な学者から見れば言語道断の出来事ではあるが、単に男女の三角関係の縺れなのだ。そもそも大唐帝国の李皇帝家は、儒教や仏教などよりは道教を重んじている。


 寿王の邸宅から出た楊玉環は温泉宮に到着すると、まずは宮殿内にある道教の施設である道観で道士修業をすることとなった。仏教でいうところの出家のようなものだ。


 それに際して、名前も楊玉環から楊太真という道号へと改めた。かつての楊玉環は既に死に、新しく楊太真へと転生したのだ。


 道士の修業といっても、あくまでも形式だけなので、上っ面を軽くなぞるだけだった。


 死んだ後に魂が錬形度地を果たして羽化登仙するためには、土地神の通行手形を受け取らなければならない。代わりに、土地神に対して自分の所持品の中から価値のある物を渡さなければならない。などといった、いつ役に立つのか分からない知識を、楊通幽という名の道士から教わった。


 一通りの道士修業が済んで形式が整うと、楊太真は温泉に入って身を清める。


 二人の侍女の手を借りて着ている衣服を全て脱いで全裸となった楊太真は、なよなよとした足取りでふらつき、床に片膝をついた。両脇を固める侍女に手助けされて、凝脂のごとく艶やかな白い肌を滑らかなお湯で清めた。


 湯から上がると、改めて羅 (うすぎぬ)の衣裳を纏い、金の釵 (かんざし)を髪に挿した。


 閨房にて対面した老皇帝もまた、全裸となった楊太真の股間に注目した。


「随分長い毛だな。いつもそうやって二つに纏めているのか」


「はい。毛を左右均等に分けた上で三つ編みにして先端を縛り、今は着けていませんが、腹に絹の布を巻いて、そこに二つの三つ編みを引っ掛けるようにしています」


「面倒くさいのだな。そうだ、良いことを思いついた。後で小さな香り袋を二つ用意いたそう。今後は、三つ編みにした二つの毛を縛る時に、だた単に紐で縛るだけではなく、そこに香嚢を括り付けるようにせよ」


「かしこまりました。ありがたき幸せにございます」


 玄宗の手は、年老いて皺が多くなっていても、長く伸びた。楊太真の毛が既に二つに分かれて三つ編みにされているので、無駄に掻き分けることなく真っ直ぐに進むことができた。


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