卯の巻 参

 一歩進む度に、漂う匂いが変わる。その匂いに釣られて、くりっとした茶色い瞳は彼方あちら此方こちらへ揺れ動く。


「そこゆく綺麗な人! 塩焼きなんてどうだい!」

「もらおう」


 幾度となく作ってきた鮎の塩焼きだが、この國で見るだけで、魅力的に映るのはどうしてだろう。艶々つやつやの皮に見蕩れながら、がぶりと頬張る。口いっぱいに広がる絶妙な塩気と張りのある皮の食感。遅れてやってきた肉は、ふっくらと焼かれていて、飲み込んで尚、体の中から温かくなる。味の多幸感に全身を包まれながら、繚華りょうかは次なる店へ進む。


「はい、たませんお待ち! こぼさないように気をつけてね!」

「ありがとう」


 目玉焼きとねぎが薄い煎餅に挟まれた"たません"。生まれて初めて聞いた食べ物に齧り付く。薄い煎餅を割らないように気をつけたが、卵黄と黒くどろりとした調味料が溢れて口元につく。ぺろりと口の周りを舐めとる所作を、はしたないと言われればそれまでだが、心の底から食べ歩きを楽しむ彼女の爛漫とした表情の前に、そんな言葉は引っ込んでしまう。


――「豪快に食べる子、俺好きだわ」「連れとかどっかにいるんじゃねぇの?」「ねぇ、今めっちゃ綺麗な人いた!」「めっちゃ食べてた子だろ? 痩せてるのにすげぇ……」


 周りからの視線に僅かなくすぐったさを覚えるが、爛々と輝かせた瞳は、目の前の食事にばかり気を取られている。


「海を離れた国では大流行り! 甘くておいしい縮緬くれーぷは如何?」

「甘そうだな、いただこう」


「遥か南の方で暴れてた和邇わにの"魔性"を揚げたものさ。滋養たっぷりだよ」

「ほう……もらおう!」


「お嬢ちゃんっ! なんにする⁉︎」

「限定肉寿司とやら、まだあるか⁉︎」


 魚介、甘味、肉、野菜……多種多様な食事が次から次へと目に飛び込んでくる。見知ったものや聞き慣れぬもの。何を食べるかの取捨選択をこの上なく楽しみながら、選りすぐりの食事を重ねるにつれ、繚華の澄まし顔は緩み切っていく。

 甘いたれが特徴的な肉寿司を堪能した直後に、すっと通った鼻梁をひくつかせる。


 ――こうも色々な匂いが混ざると、鼻も効きづらいな。


 繚華の標的は、ある調味料のにおい。先ほど食べた"たません"でも使われていた、どろりとした調味料だ。初めて食べたが、塩気とコクのある得も言われぬ味に、既に虜となっている。それが、火にかけられて香ばしくなっているとなれば、その味に疑う余地などなかろう。


「あった、ここだ」


 のぼりには"蛸焼き"と書かれている。

 手に持った竹串を巧みにあやつりながら、朗らかで明るい声で客を呼び寄せるのは、真っ直ぐな腰の老婆だった。買い求めた子供の頭を撫でて、"蛸焼き"が入った船皿を渡している。

 汗を拭い、湯呑みを手にとりながら「いらっしゃい」と繚華を迎え入れる。


「蛸焼きとやらをもらえるか?」

「はいはい。お待た――」


 甲高い音が、和やかな時を引き裂く。

 湯呑の断末魔は、氷を割ったような音なのに、老婆の温かな笑顔と朗らかな声、繚華の気分を一息に凍りつかせた。


 時折いるのだ。

 繚華の正体に気づいてしまう、鋭敏な感覚の持ち主が。


 永遠のようにも感じる一瞬のうちに、急に黙った店主への心配の目線が、繚華を訝しむ視線が降り注ぐ。細やかな痛みを伴いながら、繚華の白い肌を体内まで貫く棘のようだった。無数に降りかかる小さな棘は、ささくれのように心に残る。


「おばちゃん、なんかあったの?」「あの女の人のせいかな?」「ちょっと太郎? 顔真っ青よ」「あの誰だろ? ちっとも動かないね」「ちょっと、手引っ張らないで! って、震えてるけど、なんなの?」「――は駄目だ」「よしよし、泣かないで! もう、急にどうしたの?」


 過敏になった繚華の耳に、声の一つ一つが明瞭に届く。


 ちくちく


 穏やかな声ばかりでも、心に届くたびに、ささくれを刺激する。

 小さな痛みが重なり合って、螺旋のように繚華の胸の内に響き渡る。


「……何か?」


 細い眼もとを睨ませた険しい顔で、呵責の残響を掻き消すような強い声を放つ。

 意図せぬ迫力に、老婆の顔面が一瞬のうちに蒼白する。


「お、お待ちを……!」


 振り絞るような声とともに、老婆は逃げるように奥へと隠れていく。老婆の行動が、より一層周りからの注目を集めるのだった。



 ちくちく ちくちく ちくちく ちくちく

 ちくちく ちくちく ちくちく ちくちく


 心の刺激は、気づくと脳を揺らしている。

 拒むように、繚華は額を抑えるが……振盪した脳は、意に反してあのに落ちていく。



 嫌になるほど明るい夜だった。

 夜の淵を切り取る月光に包まれて、幼い繚華はただ一人泣いている。

 

 その鼻腔を刺激し続けるのは、新緑と血液が混ざった、新鮮ながらも鉄臭い植物のにおい。――あぁ、イイにおい。

 臭いの発生源は、集落の見知ったオニ達。物言わぬ骸は、木、つたつるくき……様々な植物に変わっていく。――とっても、キレイ。

 その植物は一人泣きわめく繚華に向けて延びていく。ひたひたと押し寄せる植物は、生前の彼らの腕に見えてしまって。――おいで、ワタシの元へ。


 己の孤独を妬むように、月の兎は繚華と周りのくさきを覗いている。

 いつもは暗い夜なのに、無数のてのひらが今日は嫌にはっきり見えて。


 ――嫌っ……やめて――


 俯いた視界に、白い手が覗く。


「うわぁ⁉」

「ごめんね、お待た――」


 絶叫とともに顔を上げれば、老婆が蛸焼きを差し出していた。無理矢理貼り付けた笑顔も、蛸焼きを渡そうとする手も、すべてが震えている。繚華はその蛸焼きを奪うようにひったくり、代金を投げ捨てると、路地裏へと駆け込んだ。


 心は冬のように凍りついているのに、妙な熱気に息が上がり、冷や汗が止まらない。暗がりに見かけた手ごろな壁にもたれると、膝から崩れ落ちていった。

 上がった息を抑えるように、額を抑えていた手を口元へと動かす。喉の奥の震えがはっきりと伝わって、繚華の震えはますます大きくなるばかり。過呼吸を起こす己の体を繚華は抱きかかえた。


 ――そうだ、慣れている。


 わかっている。いかにヒトのような振る舞いを見せても、自分はオニ。それは変えようのない事実なのだ。わかっているのに……突きつけられる度に、こうなってしまう。


 体の中は熱いのに、体の震えは取れなくて。

 縋るように、熱々の蛸焼きを頬張った。


 思いのほか熱い蛸焼きは、繚華の口内を乱暴なまでに温める。小麦の外壁を歯が破ると、口いっぱいに広がったのは、心を落ち着かせる小麦の味。歯切れのいい蛸の足が、咀嚼を繰り返すたびに弾けていく。お目当てだった調味料ソースが絶妙なまでに相まっていて、噛みしめる度に味が軽やかに混ざっていく。


「……美味うまい」


 食事はいい。

 オニである繚華わたしが、ヒトと同様に振る舞うことのできるのだ。


 もう一個、と繚華は手を伸ばす。

 熱々の蛸焼きが、繚華の口内を熱していき、

 ――あぁ、"宝玉ほうぎょく"がホシイ。


「ッッ⁉」


 内から聞こえた声に、思わず口元を抑え込む。

 蕩けた小麦が吐瀉物へと反転して――不味マズイ。

 舌の先を転がる気持ちの悪い味を堪えながら咀嚼をするが、その都度に心の声は大きくなる。


 ――クらってしまえ。

 ――オマエは、どうせオニ。

 ――そら、見ろ。肥えたヒトがそこらに歩いている。


 路地裏から除く景色に、歩むが目に止まる。


 ――熟れたモノも、新鮮なモノも、肉付きのいいモノも、ほっそりしたモノも、食事ショクジが服を着て歩いているようにしか見えない。


 なんて、美味オイしそうな街なんだろう――


「黙れ……黙れ……!」


 内なる衝動を抑え込むように、繚華は目を閉じて蹲る。

 視界を閉じたことで、口内で転がるモノがより鮮明な味を放つ。


 "宝玉"とは比べるべくもない冷めた熱気。

 臓物モツとは程遠い、固すぎる蛸足の食感。


 それでも、喉元を通る嫌な感覚を懸命に抑え込む。

 無理矢理にでも食べきらねば、この衝動が己を食い潰すかもしれない。


 怯えながらも作ってくれた老婆の顔を思い浮かべながら、美味うまい、美味うまいと。

 無我夢中に蛸焼きをむさぼっていく。


 ***


 最期の一個を食べきるころ、抑え込む手のひらはどろりとした嫌な湿り気で満ちていた。


「あはは……う、うまかった」


 幽鬼の如く不気味さで、力なく笑いながら繚華は路地裏を後にする。


 漂う匂いは食傷気味で、集合場所へと一心不乱にひた進む。

 その中で、ひときわ大きな人だかりがあった。目もくれることなく通り過ぎようとしたその時、


「やあやあ、そこ行く怪しい御仁。待たれよ!」


 凛と響くけたたましい声。

 自分のことかと、繚華の足は止まる。怯えるように周りを見ても、声の主はいない。


「見慣れぬ怪しい風貌に、只人ならぬ身のこなし。何より、一人の女子おなごに声をかけて連れ去ろうとするとは不届千万ふとどきせんばん! そこに直れ!」


 二回目にして、その張りのある声が人だかりの中から聞こえることに気が付いた。快活という言葉を突き詰めた女性の声は、この多華羅國中に響き渡らんとする勢いだった。


「音に聞く"奪兎だっと"も、昼間から精を出すとは恐れ入った!!」

「だっと、ってなんだ!? よく知らんが、こんな右も左もわからん街でかどわかすことなんかできるかっての!」

「いや、拐かそうとしていたではないか!」

「ただの相引きの誘いだって! それともなにか、御宅おたくの警吏のおあにい様方は、道も分からぬ異郷の者に遅れをとる始末だってのかい⁉︎ そりゃ"奪兎"とやらも捕まらねぇわなぁ⁉︎」

「無礼な! この多華羅の者らを愚弄するとは聞き捨てならん! そうまでいうなら、力で示せ!」


 周囲の囃し立てる声もあってか、二人は異様なまでの大きな声で会話をしている。不埒な下手人の声に、憔悴しきった繚華の口が僅かに綻ぶ。


「――彼奴の声は、どこの街でも馴染むものだな」


 呆れながらも、釣られるように人混みの中に入り込む。これまで見てきた騒動とは比べ物にならないくらいの人だかりを掻き分けて、繚華は人垣の最前線に出た。

 

 片方は僧衣に身を包んだ男。とはいえ笠の下には黒髪が見てとれるし、顎には無精髭が生えている。この風体で、減らず口を叩く坊主擬もどきなど、不肖の身内を置いて他にはいまい。それよりも、繚華の興味は相手の女性にあった。


 細い体と大きな乳房を晒しと着物で隠していながら、小麦色の肩は惜しげもなく露わにしている。太陽の描かれただいだい色の着物を煽情的せんじょうてきに着崩す、色っぽさと力強さを兼ね揃えた女性である。えりと呼ばれるこの着方を、かつて花魁と呼ばれた女性がしていたか。あれがどんな職種なのかは知らないが、慈照が頬を叩かれていたことからなんとなく察しは着いている。

 しかし、彼女の覇気は、花魁というよりは傾奇者のそれだった。

 女性は、口に咥えた煙管きせるを捨てると、慈照に向かって構えを作る。


 ほう、と繚華は息を呑んだ。

 両の拳を前に突き出し、軽く腰を落とした構え。荒削りながらも、なかなか隙が少なく映る。"装備の魔術"が前提となる修羅道では、相手に出方を推測させないこの構えは多い。同じ年ごろで、これ程までの構えを作れる女性を繚華は初めて見た。

 対して慈照は女性と周りとを交互に見ながら、笠の端を掴んで顔を隠す。困った時に行う慈照の癖だった。


「女を泣かすのも相手するのも、褥の中だけって決めてんだがな」

慚愧ざんきの念に、一人枕を濡らすことが趣味だったか。その手伝いはしてやろう!」

「なんだよ、連れないねぇ」


 女性の威圧に怯んで慈照は下がる。しかし、据わったその目は、あくまで冷静に周りの様子を窺っている。


 いつもであれば、放っておく。この程度の喧騒、慈照と繚華にとっては日常茶飯事に他ならない。慈照に手を貸すのは、むしろ慈照への軽蔑に他ならない……のだが、慈照が相手どる女への興味が湧いて尽きない。


「いざ、尋常にっ!」


 女性は踏み込むと同時に、低い姿勢で駆け出す。一息の間に慈照の懐まで距離を詰めると、その拳を慈照の顎先に向けて躊躇なく振り上げる。


 吹き抜ける嵐の如く。その拳は、紙一重で体を引いた慈照を揺さぶった。


「ちっ!」


 女性は体勢を即座に戻すと、回し蹴りを放つ。素早く、そして重い一撃が、慈照の腹を捉える――寸前で、慈照は一歩後ろへ下がり、僅かに口角を釣り上げた。


「おおっと、危ない危ない」

「ほぅ、これを避けるかっ!」


 即座に拳、蹴りと、流れるように繰り出される連撃。そのことごとくを、慈照は紙一重で躱し続ける。大仰な反応もあって、ぎりぎりの反応に見えるが、見切った軌道を最低限の動きで躱すのは、慈照の十八番おはこである。


「暴れ金剛こんごうを見切るとは、あの余所者やるな!」

「手出さねぇぞ、つまんねぇ!」

「おう、高飛車姫様に一発かましてやれ!」

「こりゃ、賭けもわかんなくなってんな!」


 二人の攻防が続くたびに、野次馬達は熱を増す。それは繚華も同じだが、その理由はいささか異なる。

 慈照が逃げあぐねていることに、驚いているのだ。ここまで慈照が戸惑う相手を、繚華は知らない。


 ぞくり、と。

 先までとは違う熱気が身体中を蝕んでいく。


 ――あぁ、滾る。


 ショク欲と双璧をなす、オニの本能が焚きつけてくる。

 最早、逸る心を抑えきれない。



「あん?」

「おぉ、当てられたか」


 繚華自身も気づかぬうちに、女性の拳を止める形で割り込んでいた。

 突然の乱入者に、周囲は虚を突かれ、慈照はへらりとした笑みを浮かべ、女性は小さく息をのむ。


「ほぅ、えるねぇ」


 小さく漏らした言葉は、二人の耳には届かない。

 繚華はすぐさま慈照の方を見る。へらりとした笑みに、どこか含みがあった。


「なんだ、気持ち悪い笑みを浮かべて」

「いいや、久々に嬉しそうな顔してんなと思って」


 慈照の指摘に、思わず自分の口元を触る。

 写し鏡のように、慈照とよく似た表情を浮かべていることに気が付いた。

 その所作に慈照は満足げに頷いて、


「お望み通り、選手交たーい。おれは、お前に賭けさせてもらうさ」

「どれだけ厚かましく生きれば気が済むんだ、お前は」


 観衆の中にいけしゃあしゃあと向かう慈照を、観衆たちはどよめきながら迎えている。溜息をつきながら、繚華は着物を翻す。


「という訳だ。身内の恥をそそがせてもらうが、文句はないな?」

「ないことはないが、氷肌玉骨ひょうきぎょっこつな風姿と大胆不敵な胆力が気に入った! 旅は道連れ、連帯責任! える美人とやりあえるのなら、不満はないさ!」


 女傑は、燃え盛る日輪の如く、快活な笑みを満面に浮かべて、

 繚華は、静謐で眩い月の如き、柔らかな微笑を静かにたたえて、


「あたしは金剛こんごう! 多華羅國たからこくが王、翡翠ひすいの娘である。が! 出自に対する無粋な遠慮は無用! える決闘を期待する!」

「わたしは繚華。多華羅國には縁もゆかりもない流浪の身故、礼儀などはなから持っていない。されど、滾る決闘は約束しよう」


 ついの笑みでも、秘めたる思いはどちらもほむら


 血気盛んな二人の闘気に、観衆は一斉に声を張り上げた。

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百華繚乱 白カギ @white_key

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