真っ暗な部屋の中で手探りでソファーを見つけた女は、崩れるように座り込んだ。

「言うことは、何でも聞きます。だから、落ち着いて……」

「俺は冷静だ」

 男はテーブルを挟んで女の向かいに座り、煙草に火をつけた。最後の1本を抜いて空になったジタンの箱を握りつぶし、床に叩きつける。

 それでも、ライターの炎に照らされた男の顔には、大仕事を無事にやり遂げたような満足げな笑みが浮かんでいた。

 テーブルのまわりは乱雑だった。

 吸い殻があふれた灰皿、バドワイザーの空缶が数缶、そしてこぼれたビールがカーペットにしみを作っている。

 荒れ果てた男の心そのものだ。

 女はライターの炎に輝く銃口から目が離せないまま、訴えた。

「健二さんは冷静よね……。だから、これ以上馬鹿な真似はしないで。わたしを撃ったら、あなたは本当に犯罪者になるのよ……」

 男は鼻で笑った。

「人殺しに説教されなくたって承知している」

 女はためらいながらも、毅然と応えた。

「わたしは殺していません」

 男は、驚きもしない。

「ふん、やっぱりそうきたな。『さっきは子供を助けるために嘘をつきました』……か? これだから、迂闊に警官の前に出るわけにはいかないんだ。だが、兄貴を殺したのはお前だ。実の女房の他に、誰があの疑い深い男を殺せる?」

 女はきっぱりと顔を上げた。

「あなたはどう? たった1人の肉親でしょう? 家も隣合わせで、出入りは自由。血がつながった弟なら、いくらあの人だって気を許すわ」

「あの人……ね。『主人は、主人は』っていうのが口癖だった貞淑な妻が、亭主が死んだとたんに、もう〈あの人〉呼ばわりか? 良妻の仮面はこれ以上必要ないもんな」

 女はかすかなすすり泣きを交えて言った。

「ひどい……なぜ、そんな言いがかりを……」

「いまさら泣いても遅い。正直に言っちまえよ。おまえはどうせ、兄貴が死ぬのを待ってたんだろう? でなければ、誰が20才も年上の男と結婚するか。兄貴は金も権力も持っているが、冷酷で陰湿、その上とびきりのケチときている。それを知ってて、なぜ一緒になった?」

「愛していたんです!」

「愛していたのは、遺産だろう?」

「そんなことはありません!」

 男は鼻先で笑った。

 テーブルごしに女のスーツの衿に指をのばして、値踏みするように軽く引っ張る。

「あんたがこんなに上等な服を持っていてよかった。身内の俺も、マスコミの前で恥をかかずにすむ。だが、兄貴がこんな服を買わせたのも、公の席で体裁を繕う必要があったからだ。でなけりゃ、『着るものはリサイクルショップで探してこい』と命令されていただろうよ」

「そんなことはありません!」

「俺に嘘をつく必要はない。兄貴はそういう男で、そんな自分を隠そうとしたこともない。実際お前は、結婚したとたんに〈お手伝い〉の仕事に追いまくられただろう? だが、耐えた。なぜだ?」

「そんなことは……」

 しかし女の表情は、男の言葉を認めている。

「答えは簡単、兄貴が心臓病で、ニトログリセリンを詰めたペンダントが手放せないからだ。どうせすぐにあの世行き……そう高をくくっていたんだろう? ところが人生は皮肉なもので、兄貴はいつまで待っても死なない。代わりにお前は、毎日毎日確実に若さを失っていく……とうとう待ち切れなくなって――」

 女は両手で耳を塞いで叫んだ。

「勝手な勘繰りはやめて! 他人も自分と同じだと思うのは間違いよ! わたしは主人を愛していたんです!」

 男は女のスーツから手を放した。

「たしかに俺にもそう見えた。見えただけ、だがな。オスカーをやりたいぐらいだ」

 女は息を整え、男をにらんだ。

「そんな言いがかりは認めません。でも、もし仮に……仮にですけど、そうだったとしても、夫の死を待つことが罪になるの?」

「待ってただけじゃないからな。お前はその手で兄貴を殺し、俺を犯人にでっちあげ、遺産を独り占めしようとした」

「お金を狙っていたのは、あなたの方でしょう⁉ 相続権の4分の1は、あなたのものなのよ。わたしたちに子供はいないし、肉親はあなただけなんですから。それどころか、わたしが夫殺しの犯人になれば、あなたは丸ごと全部の遺産を手に入れられる。夫を殺せば、わたしの相続権は奪われるんですから。妻だからといって疑われるなら、あなたこそ!」

「もちろん疑われたさ。女房にさえ逃げられた中年の遊び人――。借金の山は雪崩を起こす寸前で、疑われないような暮らしはこれっぽっちもしてこなかった。だが俺は、兄貴を殺しちゃいない。でなけりゃあ、警官に囲まれて立てこもってなんかいられるか。今の俺は、煙草を買いにさえ行けないんだぞ!」

「わたしだって殺していません! だいいち、主人が死んでいるのを警察に報せたのはわたしよ!」

「第一発見者が怪しいってのは世間の常識だ。そもそもお前は、兄貴が殺された時にどこにいた?」

「もちろん、家よ」

「なら、どうして気づかなかった? 警察が来た時は、死んでから2時間も経っていたと聞いたぜ」

「分かっているくせに。母屋の部屋数は15。壁は厚さ50センチの煉瓦製で、完全防音。バカ高い旧家を買い取ったんですから。2階で休んでいたら、リビングに車が突っ込んできたって聞こえないわ」

 男は冷たく女をにらんだ。

「警察はお前の言い分を信じたのか?」

「当然よ。事実ですから」

 男の視線に怒りが爆発する。

「警察が信じたのは、『弟が殺した』と嘘をついたからだろうが! お前は、なぜ俺が犯人だなんて言った? 昨日、俺はお前らの家に入ってもいない。2階の部屋にいたなら、どうして俺の姿が見られたって言うんだ⁉」

 女は男の言い分にわずかにうろたえた。

「もちろん、見たわけじゃありませんけど……てっきりあなたが殺したと思い込んで……。警察が調べるまで、恵理が上がり込んでいたらしいことも知らなかったから……。あの女……たかが愛人のくせに、このマンションを買わせただけじゃ満足できなくて、赤ん坊まで認知させようとしたみたいで……」

「ふん、あばずれめ。今度は愛人に罪をなすりつける気か? 恵理はさっき、『静江が健吾さんを殺した証拠を隠している』と言った。だから赤ん坊を人質に押さえて、その証拠を取りに行かせたんだ。どっちの言い分が本当か、警察に決めてもらう」

「尻軽女が言うことを真に受けたの? ここを出た後、あいつが何をしたか知ってる? 『子供が殺される』って叫んで、すぐそこの交番に駆け込んだのよ」

 男は虚を突かれて目をむいた。

「だからこんなに早く警察が駆けつけたのか……? 畜生……都合が悪いことは、みんなが俺に押しつけやがって……」

 女は男の考えの浅さをを哀れむように、ささやいた。

「あなた、なぜ愛人の部屋なんかに逃げ込んだの? 恵理があの人の〈飼い猫〉だってこと、知っていたんでしょう? あんな女に何を期待していたの? 警官から銃を奪うなんて、バカなことまでして……」

 男の目に再び怒りが燃え上がる。

「話をつけるためだ! 俺は夜中に叩き起こされて、いきなり犯人扱いされたんだ。捕まった時には、兄貴が死んだことさえ知らされなかった。危険を承知で逃げたのは、てっきり恵理が殺したと思ったから……」

「警察を敵に回すなんて、最低。わたしにちゃんと話を通してくれれば、腕の立つ弁護士だって付けてあげられたのに」

「そうして、黙って吊されろ、か? お前にはその方が好都合だろうからな」

「そんなに勘繰るなら、どうして恵理をこの部屋から出したの? あなた、あの女が犯人だと思っていたんでしょう? なのに赤ん坊を人質に取ったりして……」

「最初から計画してわけじゃない」

「成り行き任せだから、こんな騒ぎになっちゃったんじゃない。本当に無実なら、証明する方法はあったのに。でも、もう遅いかも……。恵理のやつ、気が変になったみたいだから。まともな証言ができるかどうか、もう分からない」

「どういうことだ⁉」

「警察で見かけた時、あの女、半狂乱だった。せっかく〈主人の子供〉を産み落としたのに、認知させて遺産の分け前を確保する前に〈父親〉が死んでしまったんですものね。女王さまの贅沢な暮らしは、永遠の夢――恵理に残ったのは、このマンションだけ。ま、時たま抱かれるだけの愛人には、それでも多すぎるけど」

「恵理の赤ん坊は、やっぱり兄貴の子供だったのか……? 俺は兄貴から命令されて調べ始めてたが、はっきりした証拠が出てこないんだ。D N A鑑定の素材を集める段階だったからな……」

「恵理本人が主人の子供だって言い張っているだけ。愛人の言いがかりなんて鵜呑みにできるもんですか。主人が飼っていた女は他に5人もいるのよ。それだけに、子供ができないようにいつも気を使っていた。主人は、血縁を頼りに生きるほどセンチメンタルじゃなかったから」

 男がニヤリと笑う。

「愛したご主人をそんなふうに見てたわけだ」

「そういう男だから――本物の男だからこそ、愛せたのよ。だからこそ主人は、お父上が残した事業をここまで大きく育ててこられた。主人の会社は上場企業が3つ――どこも立派な経営者が切り回している。みんな、主人と血のつながりのない人たちばかり。彼らは自分の才能が存分に発揮できるからこそ、主人に従ってきたのよ。『実力を磨き合って作り上げたプロの組織を〈妾の子〉なんかにかき回されたら、死んでも死にきれない』――それが主人の口癖だったわ。女遊びが激しくても、隠し子ができる心配だけはないと断言できる。だからわたしも耐えてこられたのよ」

「耐えた……か。ご立派な心がけだな。だが、どんなに気をつけていても人間のやることに〈完璧〉はない。男と女の話は、とかく理屈通りには進まないものだ。万一、女癖が悪い亭主が妾に子供を孕ませたとすれば、女房に殺される理由は充分だ。兄貴が認知すれば、1歳にもなっていないガキに遺産をごっそり掠め取られるんだからな」

「〈弟〉のあなたは〈妻〉のわたしよりはるかに悲惨でしょう? 相続権そのものを赤ん坊に奪われるんですから。子供が認知されれば、あなたには遺産は1円も入らないわ」

「お前の相続権は俺の3倍もある。赤ん坊に持っていかれる分もでかい」

「ゼロよりまし」

「でも、事実だ」

「あなたが遺産の4分の1を失うことを恐れているのも事実よ!」

「ふん、心配なんかしたこともない。あのケチくさい兄貴が、どこの馬の骨とも分からないガキを認知してたまるか。弟の俺に恵理の男関係を調査させたのも、俺なら必ずガキの父親を暴き出すと信じていたからだ」

 女は観念したようにつぶやいた。

「強情な人ね……。いいわ……そこまで言うなら、わたしも認めるわよ。わたしが殺していないことを納得してもらうには、他に方法がなさそうだものね……」

 男は、かすかな溜め息をもらした。

「やっと仮面を捨てる気になったか……」

 女も、怒らせていた肩の力を抜いた。唇にうっすらと笑みが浮かぶ。

 闇に目が慣れた男は女のその姿に、行為を終えて金を請求する娼婦を思い浮かべた。

「そうよ……もちろんわたしは、あの人の財産に目がくらんで結婚したのよ。そして籍を入れたとたんに、愛人と妻の違いを思い知らされた。あのまま愛人の1人でいたほうが、ずっと気が楽だった……」

「そういう言葉が聞きたかったんだ」

 女の笑みが広がる。

「たしかに、1日も早く死ねばいいと心から願っていたわ。でもね、わたしは待てるの。そこが、あなたとの違い。たとえ恵理の子が認知されても、遺産の半分は確実にわたしのもの。それだけでも一生遊べるわ。殺すなんていう危険を冒すより、待つほうがずっと割りがいいのよ。あの人、心臓の具合も悪化していたしね。女遊びだって、近ごろはさっぱり。だからあの人、まだ人並み以上に働けるのに一線を退いて、あなたにも会社をひとつ預けたんじゃない」

 男の声に苛立ちが混じる。

「『会社をひとつ』だと? 恩着せがましく言うんじゃねえよ。税金逃れの赤字広告代理店を、たったのひとつだろうが。赤の他人が社長に居座ったところじゃ、この不況もどこ吹く風って利益が上がっている」

「分からない人ね。上がっているんじゃなくて、上げているのよ。彼らが有能だという証拠。そして、あの人の〈人間を見る目〉が正しかったことの証明。肉親なんか頼るなっていう、生きた教訓よ」

「俺は無能か? 勝手にほざけ。だが、お前が正直になってくれてよかったぜ。これで、腹を割った話もできる」

「ここだけの話にしておいてよ」

「本当に兄貴を殺していないなら、な」

「しつこいわね」

 女の口調は、早くも共犯者の馴々しさを匂わせていた。

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