「罠」

岡 辰郎

「いつまで待たせるんだ⁉」

 男の怒声が闇を震わせた。

 男が片手できつく抱いた赤ん坊が金切り声を上げる。

 男は苛立ちに唇を歪ませた。

 地上2階のワンルームは、男ひとりがゼロ歳児を人質に取って立てこもるには充分な広さがあった。

 それでも男は、息苦しさに喘いでいる。

 コンクリートの柩のような部屋が警官隊に包囲されてから、すでに1時間以上が過ぎた。しかもマンションの周囲には、事件を嗅ぎつけた報道陣と野次馬が群がっている。

 男が逃れられる隙間は、限りなく狭い。

 夜は、まだ明けない。

マンション前の広場に面したカーテンをぼんやり光らせているのは、無数にも思えるパトカーのライトだ。

 激しい緊張と赤ん坊の泣き声が、男の神経を摩滅させていく。

 狂ったように足を突っ張る赤ん坊の力にさえ、男は握りしめた拳銃を落としそうになっていた。

 男の服装はラフだが、金がかかっていた。

 ロンドンであつらえたウールのブレザー、ワイシャツはポプリン製のダブルカフス、カーキのチノパンツもオーダーメイドだ。

 腕にはロレックスが輝き、このマンションに乗りつけた車はスポーツタイプのジャガーだった。

 人生は充実しているはずだった。

 なのに、40半ばにしかなっていない男の表情は、老人のようにやつれていた。自慢の服装も、赤ん坊の涙と鼻汁で汚れ、着ている本人よりもくたびれている。

 男は〈幸福〉とは縁のない人生を歩んできたのだ。

 と、チャイムが鳴った。

 男は安堵の溜め息をもらしてから、自らを励ますように語気荒く命じる。

「ひとりだけだ! 警官は姿を見せるな!」

 鉄の扉ごしに、女の声が答えた。

「わたしひとりです! 開けてください」

 男には、聞き慣れた声だった。

 男はドアの鍵とチェーンを外した。

 扉を開くと、廊下にあふれる光を背にして小柄で細身の女が立っていた。シャネルのスーツを隙なく着こなした女は、怯えながらも胸を張っている。

 男は低い呻きを女に叩きつけた。

「来たな……人殺しめ……」

「健二さん……なぜこんな馬鹿なことを……」

「お前のせいだ! あばずれめ!」

 男は、15才も年下の義理の姉に向かって敵意を剥き出しにした。

 廊下の奥に、警官たちのざわめきが広がる。

 女の視線が、男の腕に向かう。

 左腕の赤ん坊は、部屋を間違えて配達された荷物のように乱暴に抱えられている。

 そして、右手には拳銃――。

「言われたとおり、わたしは来ました。あなたも約束を守って。その赤ちゃんを――」

 男は吠えた。

「その前に、お前がやったことを白状しろ! 兄貴を殺したのは自分だと、そこの警官たちに言え!」

「嘘よ! あなたは、なぜそんな……」

 男は赤ん坊の背に爪を立てた。

 渇れた喉から振り絞られる泣き声に、女は歯を食いしばった。

 男はさらに命じた。

「言え!」

 赤ん坊は泣きながら暴れる。

 女は恐怖にひきつった赤ん坊の顔をじっと見つめてから、観念したようにつぶやいた。

「そ、そうよ……夫は……夫は、わたしが殺したのよ……」

「もっと大きな声で!」

「夫を殺したのは、わたしです!」

「どうやって⁉」

「えっ?」

「おまえは、どうやって兄貴を殺したんだ⁉」

「殴ったのよ!」

「何で⁉」

「理由なんか……」

「道具だよ! 何を使って殴り殺したんだ⁉」

「花瓶……応接間に置いてある、パリで見つけた……」

「殴ったとき、兄貴は何をしていた⁉」

「ソファーでうたた寝を……」

「いつやった⁉」

「あの人が死んだのは昨日よ。まだ半日もたっていない。あなただって知っているでしょう⁉」

「だから、何時だ⁉」

「……きっと、8時過ぎ。でも、そんなのどうだっていいじゃない! わたしが殺したって言っているんだから! お願い、だからその赤ちゃんを……」

「動機を聞こう」

 女は言葉につまった。その目に、わずかなためらいが揺らめく。

 しかし、赤ん坊の悲鳴は高まるばかりだ。

 女はうつむいて言った。

「わたし……あの人が……憎かったのよ……」

「なぜ⁉」

「言わせるの?」

「言え!」

 女は顔を上げて男をにらんだ。

「お金と地位を餌にして、他の女と……若い女どもと遊び惚けていたからよ!」

 男の腕から、ようやく張りつめていた力が抜けた。

「入れよ」

 女は不安げな表情を見せた。

 一歩、退く。

 その視線は、落ちつきなく揺らぐ男の拳銃を追っている。

 それでも女は、なすべきことを心得ていた。

「まず、赤ちゃんを……」

「入れ!」

 女は背後をうかがった。警官は見えず、声もない。

 男は微笑んだ。

「恐いか? 冷酷で計算高い人殺しでも、自分が殺されるのは恐いのか?」

「だって、ピストルなんか……」

「心配するな。真犯人を殺すほど、俺は馬鹿でもお人好しでもない。しかも、こんなにびっしり取り囲まれている。何ができる?」

 女は、男の目を見つめた。大きく息を吸うと、ゆっくりドアをくぐる。

 男は、全身をくねらせて暴れる赤ん坊を女に押しつけた。赤ん坊を両手で受け取って戸惑う女の肩をつかんで、振り返らせる。片手を女の腹に回し、銃口をこめかみに当てた。

 足で、閉じかけたドアを押さえる。

 女は息を呑んだ。

「いや……撃たないで……」

「殺さない、と言ったろう? 警官! おい、そこの警官ども! 聞こえてるのか!」

 年配らしい警官の声は、穏やかだった。

「早まるな。ここで静江さんを傷つけたら、一生後悔するぞ」

 男は、警官の決まり文句を嘲笑うように応えた。

「言われなくたって分かってる。俺は無実を証明したいだけだ。静江は今、兄貴を殺したと自白した。お前らも聞いたろう?」

「確かに聞いた。だから、君も出てきたまえ」

 警官の落ち着き払った口調が、男の苛立ちを高まらせる。

「信じていないな? どうせそんなところだろうとは思っていたがな……。それならこっちにも考えがある。俺は、兄貴を殺した女とじっくり話がしたい。今のうちに証拠を揃えておかなけりゃ、出たとたんに、また犯人にされちまうからな」

「我々の捜査は常に公平だ」

「笑わせるな! 俺は寝入りばなを叩き起こされて、いきなり殺人犯にされたんだ。いいか、手は出すなよ。お前らが黙っていれば、絶対に静江は傷つけない」

 男は全身で女の背中を押しながら、ゆっくりと廊下に進み出た。女の震えが下腹部に伝わる。

 女は懇願した。

「この子と一緒に行かせて……」

「ガキを床に置け」

 男は、女に合わせて屈んだ。

 女は赤ん坊を離して立つ。

「ピストル……どけてください……」

「中へ」

 2人は後退りしながら部屋に戻った。

ドアがゆっくりと閉じ、暗闇が戻る。

「鍵をかけろ。チェーンも、だ」

「お願い、ピストルをどけて……」

「鍵だ!」

 女は震える手でドアを探り、鍵をかけた。

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