十三手目「恋の威力」

 暴力的なほど燦燦と日光を照り付ける、真夏の太陽。

 囲碁サロン『ニギリ』はビルの壁からも窓からも灼熱されて、天井に埋め込まれたルームエアコンは強風の冷気を室内に吐き出し、26℃の設定温度を保とうと必死に稼働している。室内の空気を外に排泄する室外機は外気温よりも遥かに高温に熱されている。

 壁に掲示されたカレンダーに「2017年7月」と書かれている。


 亘は仁村と机に置いた碁盤を挟んで対局している。

 仁村は灰色のスラックスに半袖のワイシャツ姿で立っている。

 亘も黒のジーンズに黒のTシャツだけのラフな格好で椅子に座っている。

 自分の右隣の椅子に亘は自分のバッグを置いている。

 香織はその横から二人の対局を眺めている。

 香織は茶髪はそのままに、水色のフリルの付いたブラウスにベージュのスカートを合わせ、靴は白のミュールサンダルを履いていた。

 亘が黒石を碁盤に打つ。

 仁村は盤面をじっと見つめると、手を止めた。

 香織が亘に話し掛ける。

「どうですか?」

「信じられない……」

 仁村は苦笑いを浮かべる。

「たった三ヶ月でここまで強くなるとは」

「私も予想以上でした」

「凄いな、これはアマチュア三段どころじゃない。アマ五段かアマ六段、いや、それ以上かもしれない」

「ありがとうございます」

「なんでそんなに強くなれたんだ?」

「香織ちゃんが居たからです」

「私、ここまで教えてないよ」

「教えるだけが、君の価値じゃないよ」

「えぇ?」

「実は、お二人にご報告があります」

 亘は、隣の椅子の上に置いた鞄から、大きな封筒を取り出して見せる。

「棋譜審査に受かりました!」

「嘘っ、やっぱり!?」

 香織は目を丸くして、黄色い声を上げる。

「七月末の外来予選に出られます」

「凄いじゃないか」

「ねぇ、先生言ったとおりでしょ! ワタル君の強さは本物だって」

「三か月前まで6路盤も打てなかったのに、よく頑張ったね、ワタル君!」

「おめでとう! ワタル君」

「よし、何かお祝いしよう」

「いいんですか?」

「冷蔵庫にアイスとジュースがある。まぁ、それで我慢してくれ」

「ありがとうございます」

 仁村は店の奥へ歩いて行った。

 香織は仁村と亘が対局を行っていた碁盤をしみじみ見つめながら、亘の左の椅子にゆっくりと腰掛けた。

「本当に凄いよ、ワタル君」

「そう?」

「囲碁を始めて3か月でここまで強くなれる人なんて居ないよ」

「香織ちゃんが中学生の頃と同じくらいの棋力しかないんじゃないかな」

「でも凄い。ワタル君、囲碁の才能があったのね」

「無いよ、才能なんて」

「えっ、でも、どうして?」

 満面の笑みを浮かべる亘。

「だって香織ちゃんから囲碁を教えてもらえるんだよ! こんなに素敵なことないじゃない!」

 香織は思わず顔を赤らめた。

「俺がここまで頑張れたのは、香織ちゃんが一生懸命頑張ってプロ棋士になってくれたおかげなんだよ」

「どういうこと?」

「覚えてるかな? 香織ちゃんが棋帝戦の大盤解説会に出ていた時」

「ワタル君も来たよね」

「俺、思い知ったんだ。香織ちゃんが棋士の女の子達と一緒に関係者室に入った時、関係者以外立ち入り禁止の看板が掛けられいてさ、俺は入ること出来なくてさ、今の俺と香織ちゃんは違う世界に住んでいるんだなって」

「ワタル君」

「だから香織ちゃんが超えてきた棋士予選に俺も受かって、香織ちゃんと同じ世界に住みたいんだ! 棋士として、人間として、男として」

 亘と香織は真剣な表情で互いの目を見つめ合った。

 一方、そんな二人の邪魔をしないために、別室から見守っていた仁村は悲しそうに笑顔を浮かべる。

「みのる、香織ちゃんはもう厳しいぞ」


 東京都千代田区五番町7−2。

 日本棋院東京本院が本部を置く日本棋院会館の豆腐のように真四角な白いビルが、朝日に照り付けられて、その白い外観をより際立たせている。

 亘は黒いジーンズを履いて、胸元が大きく開いた黒の七分袖のニットを着て、黒のスニーカーでアスファルトを踏みつけて、バッグを肩に掛けながら歩いて来る。

 真四角な白いビルの前まで来ると、改めて会館を見上げる亘。

「いよいよか」

「ワタル君!」

「えっ?」

 聞き覚えるのある、愛しい甲高い声色。

 香織が白いワンピースを着て、トートバッグを手に立っている。

 茶髪だった香織の髪の毛は真っ黒になっている。

「香織ちゃん!」

 亘は香織の下まで少し駆け足でやって来た。

「おはよう!」

「おはよう」

「髪の色、変えた?」

「似合っているでしょ?」

「うん」

 微笑み合う亘と香織。

「それで、どうしたの? 香織ちゃんも対局?」

 香織はトートバッグを亘に手渡した。

「お弁当!」

「香織ちゃん……」

「頑張ってね」

 亘は力強く頷いた。


 日本棋院の職員に案内され、プロを目指す若者達が何十人も対局室に案内される。

 何処にでも有るような広めの会議室。

 碁盤より一回りだけ大きなテーブルと二組の椅子が多く並べられ、テーブルの上に碁盤と碁笥、さらに自動で時間を計る対局時計が載る。

 亘はつい和室で正座しながら対局するものだとばかり思っていたので、椅子対局と云うのが意外だった。

 亘は案内された椅子に座った。

 少し遅れて、同世代くらい若者が亘と向かい合って座る。眼鏡を掛けた柔和な顔付きで、長いこと囲碁に向き合ってきたと云うのが感じられる、真面目そうな雰囲気を醸し出しているが、赤いチェックの半袖の襟シャツを着ながら、リュックを背負ってやってきたから、あまり美青年には見えなかった。

 若者は詰碁の本を片手に持ちながら着席した。

「よろしくお願いします」

 亘が小さく呟くが、対局者の若者は無視して詰碁を解くのに夢中。

 亘は若者が持つ詰碁の本を見る。

 亘は微笑した。

 若者は自分が笑われたことに気付いて、詰碁の本を横にどけて亘の方を見る。

「何ですか?」

「悪いが、この対局は俺の勝ちだ」

「どうして?」

「その詰碁の本は、2か月前に全て解いている」

 顔が歪む若者。

 部屋に若者達が一通り集まると、係員の中年の男性が長机を前にして立って、皆に大声で呼び掛ける。

「時間になりましたので、握って下さい」

 対局者達の片方が白石を多く握る。

 亘も蓋を開けた碁笥の中から白石を複数個握ると、碁盤の上に手を置いた。

 もう片方の対局者は、握られた白石が奇数だと思えば1子、偶数だと思えば2子の黒石を碁盤に置く。

 亘の対局者は黒石を1子置いた。

 亘は手を広げて、握っていた白石を全て碁盤の上に顕わにする。

 碁盤の上に置かれた白石は全部で14子だった。

 当たった場合は石を碁笥の中に入れなおして、碁笥に蓋をして、そのまま待つ。

 亘の席のように、黒石で数字を予想した側が間違った席だと、碁石を碁笥に入れて蓋をした後、互いに座っている席を交換して座り直す。

 亘と眼鏡の若者も席を入れ替える。亘が先番の黒、眼鏡の若者は白番である。

「良かった。僕、白番の方が得意なんで」

 若者が能天気に座りながら呟くと、亘は小さく微笑する。


(挑発のつもりか? 白が得意ってことは「攻めが弱い」と自白したようなものだ。そう言えば“自白”って罪を認めることを言うけど、コミのルールが無くて黒番の方が絶対有利だった時代、「白番の方が得意」と言った罪人が自分の不利益になる事実を白状したことが由来なのかな? でも白状にも「白」って言う字が入るから、囲碁と全く関係が無くて、単に打ち明けることを「白」が意味するんだろう。もしも囲碁が由来だったら、“駄目”の話みたいに元々は囲碁用語って紹介されるよな。“真打ち”も落語用語と知らなかったら、昔の本因坊のように本当に強い囲碁棋士のことを言ったなんて誤解する子も居るかもしれない)


 全員の黒番白番が決定して、皆が席に着いたのを確認すると、職員が呼び掛ける。

「それでは対局を始めて下さい」

 対局者達は碁盤を自分の傍に引いて、碁盤の右側に碁笥の蓋を取って置くと、頭を下げ始める。

「お願いします!」

「お願いします!」

「お願いします!」

「お願いします!」

「お願いします!」

 亘は元気よく挨拶すると、対局時計のボタンを押して対局を始めた。

「対局を始めて下さい」

 対局時計からアナウンスされる女性の声。

 亘は黒石を右上隅星に打つと、対局時計のボタンを押した。


係員「昼食休憩です」


 亘達は、職員達によって対局室とは別の休憩スペースに案内された。

 長机とパイプ椅子が幾つも並べられた部屋である。

 若者達の多くは、コンビニで買ってきたと思われる弁当やパンをテーブルに並べて食している。

 亘は椅子に座り、テーブルの上に香織から貰ったトートバッグを置く。

 亘はトートバックに入っていた弁当箱や銀紙に包まれたお握りを取り出す。

 亘はまず弁当箱の蓋を開ける。ウインナーや冷凍食品のから揚げ、ポテトサラダやミニトマトなども盛られているが、亘が一番注目したのは、香織が赤いケチャップで「がんばってね」の文字を書いた大きなオムレツだった。

 亘はあまりに嬉しくて笑顔になって、少し泣きそうにもなる。

 亘がお握りの銀紙を剥がす。

 海苔で巻かれた茶飯に、半分に切った煮卵が入った、手の込んだおにぎりである。

(ありがとう。香織ちゃん)

 亘は大きく口を開けて、煮卵のおにぎりを食した。


 お昼休憩が終わって、対局室に戻った若者達。

 再び椅子に座って、若者達は対局を始める。

「負けました」

「ありがとうございました」

「ありません」

「ありがとうございました」

 次第に決着が着き始める若者達の対局。


 夕方だが、まだ明るい空。

 亘がバッグを肩に掛けながら日本棋院から出て来ると、白のワンピースにバッグを肩に掛けている香織が、亘に歩み寄って来る。

「ワタル君」

「香織ちゃん」

「勝利おめでとう」

「ありがとう。そうだ!」

 亘が自分のバッグからトートバッグを取り出して香織に返す。

「ありがとう、美味しかった」

「オムレツ一回失敗しちゃって焼き直したんだ」

「ケチャップで『がんばってね』って書かれててさ、泣きそうになっちゃった」

「そうなの?」

「絶対に負けられないなって」

「今日の棋譜覚えてる?」

「丸暗記している」

「後で検討しよう?」

「そうだね」

 香織は弁当箱が入ったトートバッグを畳んで、自分のバッグにしまう。

 二人はJR市ヶ谷駅へと歩き出す。

 香織が左、亘が右を歩いた。

「香織ちゃんもプロ棋士になる時はこんな風に棋院に毎日通ったの?」

「そうだよ。でも院生だったから、棋院に来るのは日常だったかな」

「そっか。僕みたいな外来じゃないもんね」

「外来の子でプロになれる人ってほとんど居ないけど」

「僕、プロになれると思う?」

「プロになれるかどうかは分からないけど、プロの人と互先でやっても勝てる可能性自体はあると思う」

「もっと強くならないとな」

「三か月で外来試験まで辿り着けるなら十分だと思うけどね」

「香織ちゃんは外来の子に負けたことあった?」

「私はAクラスに居たから、外来の子は予選で敗退して、そもそも戦わなかった」

「そっか。まだ外来予選だもんな」

「外来予選を勝ち抜くと、次が合同予選」

「そこで院生達のお出ましってわけか」

「そして、みのるも居る」

「みのる君が?」

「みのるはずっと院生のAクラスに居たんだけどね。去年不調から初めてBクラスに落ちちゃって、それ以来髪を染めたりして、雰囲気変わったんだ」

「焦っているんだな」

「そりゃ、そうだよ。2年延長してもらったけど、院生としては今年が最後だもん。それこそ本気で向かって来ると思うよ」

「みのる君ってやっぱり強い?」

「院生の時、私勝ったことなかった」

「そんな強い子がどうしてプロになれずにいつまでも燻ぶっているんだろう?」

「やっぱり焦りがあるんじゃない? お父さんもプロ棋士だし」

「そうか。院生の子って、やっぱり外来の子よりも強い?」

「基本はね。でも勝つチャンスはある」

「本当に?」

「アマチュアでも強い人は居るから、そういう人と戦う時は緊張するし」

「どうして?」

「勝って当たり前って思われるから」

「なるほど、大変だね」

「でも自分でやりたくて院生やプロを目指したんだもん。遣り甲斐はあるよ」

「香織ちゃん、カッコいいね」

「ワタル君が教えてくれたんだよ」

「え?」

「自分から囲碁を打ちたいって思ったんでしょ? って。AIは囲碁を打ちたいって思ったことは無いって」

 香織と一緒に歩いている時間を貴重に感じる亘。

(あと何回、香織ちゃんとこうして一緒に歩けるのかな)

「今日は中押し勝ち?」

「いや、俺が黒番で15目半勝ちかな」

「圧勝じゃん」

「うん、なんかもう途中から相手も記念試合みたいになっちゃって」

「だろうね」

「ちょっと泣きそうになってたもんな」

「しょうがないよ、負けたら悔しいし」

「香織ちゃんは負けた時どうしてる?」

「なんでそんなこと聞くの?」

「今日は勝ったから良いけど、負けた時はどうしたら良いかなと思って」

「教えない」

「どうして?」

「負ける時のことなんて考えちゃダメ」

「香織ちゃん」

「院生の時に教わった。負けた時のことなんて負けてから考えればいいのであって、やる前から負ける時のことに備えているようじゃダメだって」

「なるほど」

「全部、勝つつもりで頑張ってね」

「分かった」

「さすがに毎日はお弁当用意出来ないけど」

「いいよ。香織ちゃんに無理はさせられないし」

「おにぎり、美味しかったでしょ?」

「美味しかった」

「得意料理なの」

「いいね」

「ワタル君、好きなおにぎりの具は?」

「なんだろう、でも、また煮卵のおにぎりが食べたいな」

「どうして?」

「なんか愛情感じちゃって」

 香織は亘の左の二の腕を右手で優しく小突く。

「調子に乗るなよ!」

 亘と香織は二人で笑った。

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