十二手目「同じ世界に住むために」

 都内でも一等地に建つ高級ホテル。

 結婚式でも開こうもんなら、最低でも約50万円、金持ちなら1000万円以上は軽く支払わされるような中々に広い宴会場。大きなシャンデリアをぶら下げる天井は一部が凹んでいたり、凹みを作る線上に照明を仕込んだりして、高級感を醸し出して西洋の宮殿の中にいるようである。カーペットの床も何とも形容しがたい緻密な幾何学模様を描いて、ホテルの非日常感を演出するのを手伝っていた。

 雛壇が設けられ、壇に向かって椅子が多く並べられている。

 椅子は手摺が無いが、頑丈に作られ若干重く、座板や背凭れのクッションが厚く、座り心地は良い。

 壇の後ろにベージュのカーテンが下がり、登壇者を照らすための照明機器が天井に宙吊りされている。カーテンの前にはスクリーンが垂れ下がり、スクリーンの上には横長の看板に『第40期棋帝戦 七番勝負第三局 井川勇太棋帝対山上敬司九段』と大きく書かれ、その下に主催者の日本棋院や関西棋院、スポンサーである新聞社名や企業名が小さく横書きされている。

 雛壇の上手側にも別のスクリーンが垂れ下がっている。

 スクリーンとスクリーンの間に小さなテーブルが置かれ、その上にノートパソコンが載せられている。

 雛壇の中央のスクリーンには、パソコンの画面が映写されていて、デジタルで描かれた碁盤や対局者の写真が表示されている。

 上手側のスクリーンには、対局場の様子を中継しているリアルタイムの映像が映写されている。

 

 椅子を埋め尽くしているのはほとんどが高齢の男性ファンだが、若い女性も居る。

 やがて男性達が拍手を始める。

 雛壇の下手側から、香織と仁村がマイクを手に持って上がってくる。

 仁村は灰色のスーツ姿。

 香織は、首元と七分袖が花柄のシースルーのレースになった青いワンピースのパーティードレスを着て、踵が少し高い黒のパンプスを履いて登壇する。

 髪型も、いつもの茶髪のストレートではなく、ハーフアップにして、宝飾の付いた髪留めも付けて、艶やかに整えていた。

 仁村はスクリーンを挟んで下手側に留まり、香織は檀上をゆっくりと歩いて、スクリーンの上手側まで進み、パソコンが載ったテーブルの右横まで来ると足を止めて、観客の方に顔を向けて立った。

 万来の拍手の中、香織と仁村が頭を一旦下げる。

 香織がマイクを口元に上げて喋り出すと、ファン達も拍手を自然と止める。

「皆様こんにちは。本日は、第40期棋帝戦、七番勝負第三局、井川勇太棋帝対山上敬司九段の一戦の大盤解説会にご来場頂きまして誠にありがとうございます。本日、聞き手を務めさせて頂きます、稲穂香織です。よろしくお願いします」

 香織が頭を下げると、観客達は惜しみなく拍手した。

 香織はすぐに頭を上げるが、さて客席の方に目が行くと動揺を見せる。

 客席の中に、ダークスーツに紺色のネクタイを締めた亘が香織を愛しく眺めながら右手を振っている姿を目撃してしまったからである。

(ワタル君、こんな所まで来るなんて!?)

 香織は目を逸らして仁村の方へ向いた。

「そして解説は、仁村博久九段です。どうぞ、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 仁村もマイクで声を覚醒させながら挨拶を行い、観客の拍手を浴びる。

「本日の棋帝戦ですけれども、見所は如何ですか?」

(香織ちゃんのドレス姿に決まっているだろ!)

 亘は心の中で叫んだ。

 亘は香織のことしか眼中に無い。

 上手側のスクリーンに対局者の井川勇太棋帝と山上敬司九段が対局場に入る映像が映し出されると、ほとんどの客はその映像を視るために首を右に曲げたが、亘は首を真っ直ぐ前に向けたまま壇上の香織をじっと眺めた。

 その様子は香織からはっきりと分かった。

(やべぇ、超見てんじゃん、ワタル君)

 仁村はこの後、井川勇太棋帝と山上敬司九段の印象を語ったり、どのような戦型になるのかを予想したり、壇上の香織と和気あいあいとした雰囲気で会場を盛り上げていった。

 昼休憩まで3時間もある解説会だと、途中でトイレで抜ける客や椅子に座ったままウトウト眠っている老人まで出て来るが、亘は集中力の全てを香織を美しさと永遠に脳裏に焼き付けることに注いだ。

(香織ちゃん、素敵だ。めっちゃ可愛いな)


 大判解説会が始まって3時間ほど経つと対局者達がお昼休憩に入って、壇上に居た香織と仁村も壇上から降りて行った。

 

 宴会場外の廊下。

 関係者以外立ち入り禁止の看板が立てかけられた出入口の前で、亘と香織は立ち話している

「来ちゃまずかった?」

「別にいいよ。でも驚いちゃった」

「来ると思わなかったでしょ」

「まさかね」

「囲碁棋士ってこういう仕事もあるんだね」

「そうだよ」

「今日はおめかしして綺麗だね」

「毎日そう思ってるんでしょ?」

「そうだけど」

 微笑み合う亘と香織。

「ワタル君もスーツ持ってたんだ」

「高校卒業した後、おばあちゃんが亡くなって、制服で葬式に行くのも何だからってスーツを買ってもらっていたんだ」

「ワタル君はなんでも買ってもらえるんだね」

「香織ちゃんはそのドレス自腹?」

「自腹」

「大変だな、いくらぐらいするの?」

「これはレンタルで5000円くらい」

「レンタルでそんなするの?」

「実際に買ったら数万円以上する奴だから」


「香織!」

 亘の後ろから女性の声がして、亘は振り返った。

「皆!」

 香織は亘を放って、声を発した若い女性達の三人組の下へ駆けて行った。

 女性達も香織のようにめかし込んでいる。


 永遠に時が止まったような冷たい錯覚を覚える亘。

 寒くないはずのに、全身が鳥肌を立たせて、心臓が悲しさで冷たく震えた。


 香織の声色は亘と喋っていた時よりも明らかに明るい。

「香織、聞き手良かったよ!」

「ありがとう!」

「来週の棋戦、楽しみだね」

「えっ、私達が当たるんだっけ?」

「香織、調べてないの?」

「また中押し勝ちしちゃおうかな」

「えええええ?! 勘弁してよぉ」

「はっはっはっはっはっはっはっ!」

「立ち話でも何だから、控室で座って話そう」

「そうだね」

 香織が亘に振り返る。

「ワタル君」

「この子達は?」

「女流棋士の仲間だよ」

「彼って香織ちゃんの彼氏?」

「結構イケメンじゃん」

「イケメン」の言葉に反応して、女流棋士達はほくそ笑む。

「ただのお友達! さぁ行こう」

(ただのお友達……)

「じゃあね、ワタル君。楽しんでね」

 香織は亘のことを横切って、女流棋士の仲間を連れて、関係者以外立ち入り禁止の看板が立てかけられた出入口を堂々と通過して、中に入って行った。

 扉が閉められる。

 亘は振り返り、関係者以外立ち入り禁止の看板を見た。


「どうかな? お友達で終わるんじゃない」


 母親の言葉を思い出す亘。

(俺、関係者じゃないんだ)

 亘は右向け右で歩き出す。


 香織達は棋士や棋院の人間だけが出入りする大部屋の控室に入り、女流棋士同士で楽しく会話を交えながら、ケータリングに多数用意されたさまざまな料理の中から、ビュッフェスタイルで自分の食べたい品を取って皿に盛っていった。


 亘はホテルのバイキングレストランを見つけて、歩み寄って行くと、入口前でレジスターの前に立っていた店員が亘に気付いて話し掛ける。

「お客様は?」

「一人です」

「料金前払い制のビュッフェスタイルですが、よろしいですか?」

「はい」

「大人一名 8,640円です」

 亘は会計を済ませると、高級感のあるレストランの中に案内されて入った。

 大盤解説会で見掛けた年寄り達の姿も見えたが、ほとんどは一般の客で、知らない顔ばかり。


 香織達は楽しく食事を摂っている。


 亘は食べる料理を皿に盛り付けた後、空いている席に一人で着いた。

 皿から料理を口に運んで食べるが、8000円を払った割にはあまり美味しく感じられない。

 すると、厨房の前でコック服を着た料理人の男とウェイトレスが楽しく喋っているのが見えた。

 ウェイトレスも自分達と同じくらいの年齢で若々しく、中々に美人の女性だった。

(そうか。

 香織ちゃんにとって、俺はただの客でしかないんだ。

 俺はあのウェイトレスに恋をして、金を払って店に通い詰める客と一緒なんだ。

 お金を払って囲碁を教えてもらう、ただのお客様。

 イベントは入場無料で入れたけど、入場料を取れるだけの需要が日本に無いだけであって、もし囲碁が大人気競技で人々が金を払ってでも見に来る客が大半になれば、入場料を取っているだろう。

 そして俺も入場料を払っていただろう。

 香織ちゃんとは大学で知り合えたけど、結局はただの客でしかなかったんだ。

 料理人の男性は同じ職場の仲間だから、楽しくお喋り出来ているんだ。

 でも、お客さんにはウェイトレスも気を遣うから、そんなに心から楽しく喋ってはくれないだろう)


 昨日見た、『刑事ジョン・ブック 目撃者』を思い出す亘。


(ジョン・ブックは刑事として生きることを選んだから、レイチェルとは結ばれなかった。

 でも今の俺に、香織ちゃんを失ってでも、選びたい現実があるのか?

 失ってはいけない何かが、本当に俺にはあるのか?)


 お昼休憩が終わり、香織と仁村は壇上に戻った。

 亘も客席に戻って、香織のことを見つめた。

 今度の亘は客席の最前列に座ることが出来た。

 香織と仁村は、壇上で楽しそうに喋っている。

(きっと客に見られていることを気にしながら)

 亘は自分以外の観客にも目を向ける。

 高齢の男性ファン達は皆が楽しそうに壇上を見つめる。

(自分達がただの客であり、囲碁が趣味でしかないから)

 亘は悲しい表情で壇上を見つめる。

 香織の笑顔は凛として爽やか。

 雛壇の上と客席で、香織と住んでいる世界が違うことを悟る亘。

 亘は苦悶の表情で目を瞑り、俯く。

 亘は席から立ち上がると、トボトボと悲しそうに宴会場から出て行った。

 香織や仁村も亘が出て行く背中を見つけたが、自分達の仕事の方が遥かに重要なので、気にせず大盤解説会を続けた。


 外はお昼時も終わって、まだまだ人が多い。

 亘はバッグを抱えながら、歩いて考える。

(仁村先生はどうして僕が強くなりたいと言ったのを、楽しんだ方が良いよと止めたのか。

 今ならそれが分かる。

 それは、息子のみのる君の方が先に言ってたんだ。


「強くなる可能性の無い奴が、囲碁に興味を持って何の意味がある?」


 囲碁なんてプロになりたければ幼少の頃から鍛えていかないと無理だ。

 みのる君も仁村先生もその現実をよく知っているからだったんだ。

 俺、強くなる可能性なんて無いのに、囲碁に興味を持っちゃった。

 何の意味も無いのに。


みのる、19歳になってもまだプロになれてないから焦っているんだ」


 仁村先生はプロになれずに苦しんでいる息子さんを間近で見ている。

 だから分かっているんだ。

 プロになる厳しさを。

 そして何より、強くなれずに苦しむ屈辱を。


「好きなことを仕事にするのも、結構つらいんだ」

 

 大学で海坂先生の話を聞いた帰り、香織ちゃんそんなこと言ってたよな。

 きっと、プロの世界が厳しいと云ったのは、単に勝つのが大変だってことだけではない。迷惑な客に絡まれたり、嫌な気持ちになったりすることもいっぱいあるんだ。

 そういうのをお互いに経験してきているから、同じ女流棋士の仲間達の方が大切に感じられるんだ。

 俺なんか……ただのお友達)


 亘は最寄り駅に着く。駅の出入り口に時計が「2時35分」を指している。

 亘は駅構内を歩いて、改札を通過し、ホームに降り立つとすぐに電車に乗った。

 電車内は空いていて、亘は座席に座った。

 向かい側の席に若いカップルが座って、仲良くお喋りしている。


「強くなる可能性の無い奴が、囲碁に興味を持って何の意味がある?」


 イチャイチャしているカップル。

 亘は自分のバッグの中を漁る。

 昨日貰った、詰碁の本を取り出した。


「そう、手っ取り早く強くなるには一番良いの」


(俺には囲碁に興味を持つべき理由がある。強くなるべき理由がある)


 亘は詰碁の本を開く。


(だって、香織ちゃんが好きなんだもん!)


 目の前でカップルがイチャイチャしている。


(俺も香織ちゃんとイチャイチャしたいんだ! 店と客の関係じゃなく、本物の恋人同士として!)


 亘は詰め碁の本を真剣な眼差しで読み進める。

 亘は頭の中で碁盤を描き、問題を一問ずつ解き始めた。

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