十一手目「住んでいる世界」
「レシートです」
「ありがとうございます」
亘は仁村に指導碁の料金を支払い、レシートを受け取り財布の中にしまう。
囲碁サロンの中は、小学生も保護者達も帰宅して、すっかり閑散としていた。
香織は亘の左に立っている。
仁村はレジスターにお金を入れながら、
「楽しかったかい?」
「はい、とっても」
「それは良かった」
「みのる君が来たらどうなるか分かりませんでしたけど」
「あいつには今日ワタル君が居るから来るなよって言っておいた」
「ああ、何かすみません」
「気にしなくて良い」
仁村はレジスターの前に立ちながら、今日一日の清算の作業を始める。
「ところで香織ちゃんから聞いたけど、今日誕生日だったんだって?」
「はい、19歳です」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「香織ちゃんからプレゼントもらった?」
「あっ、ポータブルの碁盤をもらいました」
「二人で相談したんだ」
「そうだったんですか」
「ワタル君に囲碁を嫌いになってもらいたくなくてね」
「お気遣いありがとうございます」
「良いんだ」
「それよりも今日、驚きました」
「何が?」
「仁村先生、一度に何人も子供達を相手に碁を打っていて凄いなぁって」
「プロなら誰でも出来る」
「そうなんですか?」
「余程変わった手を打たれない限り、ほとんど何も考えていなくても対応は出来る。大体どんな手も見たことがあるからね」
「プロって凄いですね。精密機械のようでした」
「去年、AIにプロが負けなければ面目も保てたんだけどな」
「時代の変化ですよ」
「そうだね」
亘は帳簿を付けている仁村を見つめる。
(そうか。囲碁の世界ではめちゃくちゃ強くても、サロンの経営者ってことになると普通の社会人なんだな、囲碁棋士の仁村先生でも)
「仁村先生はどうやってプロになったんですか?」
「私は5歳か6歳の頃に囲碁を始めて、小学生の時に少年少女囲碁大会で優勝して、その後で院生になったって感じかな。私もプロになれたのは17歳で遅かった」
「やっぱり、子供の頃から始めないと強くなれないんですか?」
「まぁ、バイオリンみたいなところは確かにあるけど」
「けど?」
「どんな人でもちゃんと訓練すればアマチュア初段までなら誰でも強くなれる。それ以上ってなると、人生を全部囲碁に捧げる覚悟で頑張らないと難しいかな」
「そうなんですね。今の僕では、あの子供達にも敵わないんだろうなぁと思って」
「別に弱くて良いんじゃないか?」
「どうしてです?」
「囲碁で食べていくつもりないだろ?」
「えっ、えぇ……」
微笑する仁村。
「ワタル君、野球部だったんだって?」
「はい」
「野球みたいに、学校を出た後でプロになるって思っていたでしょ?」
「はい、勘違いしていました」
「囲碁の世界の常識は、世間の非常識だ」
「父親はどの業界でも皆そう言うって言ってました」
「そうなの?」
「医者の世界の常識は、世間の非常識とか」
「なるほどね」
「先生」
「なんだ?」
「どうすれば囲碁強くなりますか?」
「どうして強くなりたい?」
「香織ちゃんに囲碁が強い人じゃないと尊敬出来ないって言われたからです」
鼻で笑う香織。
「本心じゃないと思うけど」
「でも香織に相応しい男になりたいです」
横に居た香織は恥ずかしくて照れ笑いを浮かべる。
仁村は微笑ましく帳簿をつけながら、
「君がイイ男になればいいんだ。そうすれば香織ちゃんだって付き合ってくれるよ」
「でも教えているばかりじゃ、香織ちゃんもつまらないんじゃないかなって」
「なるほど……強くなる方法か」
仁村は帳簿を書き終えて、レジの下にしまうと亘に向く。
仁村の声色が少し低くなった。
「強くなるには兎に角、実戦を何度も積み重ねるしかない」
「積み重ね、ですか」
「詰碁を解いたり、棋譜を並べたり、今はインターネットでも対局出来るから、そういったことを積み重ねて、囲碁に必要な技術を頭と体に叩き込んでいくしかない」
「なるほど」
「私も子供達を相手にするから、色々と話を聞くんだ。下は幼稚園生、上は中学生、高校生、勿論ワタル君のような大学生を相手にすることもある。すると、自分が子供だった頃と比べると、ゲームをやっている子が凄く多いなぁって感じる」
「あっ、今の子はそうですね」
「私が子供の頃はせいぜい中学生の時にファミコンが初めて出たくらいだったけど、今の子達はゲーム機やスマートフォンなどで日常的にゲームに触れているよね」
「だと思いますね」
「私達の頃と比べると、明らかに鍛錬されてない」
「鍛錬ですか?」
「囲碁でも将棋でも自分が強くならないと話にならない。そしてテレビゲームも昔は自分が上手くなったり強くなったりしていくものだったと思うんだ。ところが近頃は課金して強いキャラクターとかカードとかを手に入れて戦うわけでしょ?」
「あっ、そういうのが多いですね」
「そうなると、自分自身を鍛えるスポーツとか碁将棋とかが流行らなくなるのも凄く分かるんだよね。自分が強くなるんじゃなくて元々強いキャラクターとかモンスターとかカードとかを手に入れて勝っていくわけだ。そっちの方が楽だから良いよね? でもそれってやっている子供達は何にも強くなっていなくて、自分が強いと錯覚する体験を味わっているだけなんだ。だって強いに決まってんだよ、ゲームを作っているプログラマー達が強いキャラクターとか能力とかに設定しているんだから」
「ですね」
「ワタル君、悪気は無いのかもしれないけど、プロになろうとしているわけでもないのに強くなれるなんて思ったら大間違いだよ」
「先生」
「ゲームは遊んでいる人間を楽しませたり
(何故だ? 何故、仁村先生は僕にこんな話をしているんだ?)
「まぁ、別に良いか。香織ちゃん」
「はい」
「まだ書店はやっているかな?」
「渋谷駅前のTSUTAYAだったらやっているかと」
「じゃあ何かワタル君に詰碁の本を買ってあげなさい。うちの店で経費落とすから」
「分かりました」
「領収証貰ってきてね」
「はい。ワタル君、行こう?」
「うっ、うん」
亘は仁村に振り返って頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
「はい、ありがとうございました」
亘は香織と共にサロンを出て行った。
人でごった返す渋谷の街。
日はすっかり沈んで暗くなり、代わりに商業施設の喧しいネオンの光がそこら中に溢れて太陽よりも鬱陶しい眩しさを人々の眼球に与えた。
風は無いと大丈夫だが、たまに冷たい風が吹くと、夜の闇は寒さを感じさせる。
亘と香織は横に並んで一緒に歩く。亘は何となく香織を気遣おうと、車道側の左に寄って歩いた。
「香織ちゃん」
「何?」
「仁村先生、なんであんなこと言ったんだろう?」
「何が?」
「先生、強くなろうとしなくていいって、ちょっとしつこいぐらいに言ってたから」
「仁村先生はよく知っているんだよ。強くなることの大変さが」
「仁村先生って九段って言ってたから凄く強いんでしょ?」
「仁村先生はトーナメント戦の優勝はあるけど、8大タイトルを獲ったことは無い」
「8大タイトルって?」
「棋聖、名人、本因坊、王座、天元、碁聖、十段、棋帝の八つ。凄く大雑把に言えばボクシングのチャンピオンベルトみたいなものかな」
「あれも確かにWBC、WBA、WBO、IBFとかいっぱい王座があるからね」
「そこまでは覚えてなかったけど、囲碁のタイトルはちゃんとそれぞれの国の棋院が一括に管理しているから、そこはちょっと違うかな」
「それで仁村先生でもその8代タイトルを獲ったことは無いと」
「うん。昔、棋帝戦に挑戦するところまでは行ったんだけどね」
「そっか、強くなるのってそんなに大変なんだ」
「そう。私ももう良いんじゃないかと思っているんだ」
「良いって?」
「ワタル君とも友達になれたし、囲碁も打ってくれたし」
「香織ちゃん」
「アマチュア初段を目指して頑張るくらいで良いんじゃない?」
二人はやがて渋谷駅前スクランブル交差点を渡り、渋谷センター街の中心にビルを構えるSHIBUYA TSUTAYAに入った。
「久々に入ったなぁ」
「本とか買わないの?」
「最近は全部Amazonかな」
「私も」
二人は書店エリアの中に入る。本屋に行き慣れておらず、迷いそうにもなったが、書店の趣味のコーナーから囲碁の関連本が置かれている本棚に辿り着く。
何冊も本があるが、香織はその中から10級から1級の初級者向け詰碁の本を選んで取り、亘に手渡す。
「はい、ワタル君」
「これが詰め碁の本」
「そう、手っ取り早く強くなるには一番良いの」
「へえ」
亘と香織は一緒にレジへ歩いて行く。
「明日も会える?」
「明日は無理。仕事があるから」
「対局?」
「違うよ」
「テレビ出演?」
「違う」
「じゃあ何?」
「棋帝戦の大盤解説会のイベントが開かれるの」
「そんなのあるんだ」
「私、そこで聞き手を務めるんだ」
「そういう仕事もあるんだ」
「明日の準備もあるから、本買ったら解散で良い?」
「うん、分かった」
二人は会計を済ませると、すぐに渋谷駅に向かった。
香織はJR線を使うので、二人は改札口の前で手を振って別れた。
香織の姿が見えなくなると、亘も歩き出す。
香織から受け取った詰碁の本を一旦広げるが、亘の興味を惹くものではなかった。
亘は詰碁の本をバッグの中に入れて、そのまま帰って行った。
朝からずっと大学から香織と居たため、体力的にも疲れていたため、電車の中でも特に考えことなどはせずに、頭を休めるように亘は何も考えなかった。
あっと言う間に、白金台駅から出て来て、自宅へと辿り着く亘。
「ただいま」
玄関を開けてリビングに入ると、テレビが点いていて映画が放送されている。
「おかえりなさい」
酒焼けしたような擦れた女性の声が亘を出迎える。
コの字のソファに座って、テレビを真剣に視聴している中年女性は、亘の母親の
ピンク色の長袖のニットを羽織り、白いロングスカートを履いていて、何となく、今日の香織と同じようなファッションに亘には感じられた。
亘はテレビ画面を遮らないように努めながら、母親が左に来るようにソファに着席した。
亘もテレビ画面を視ながら話し掛ける。
出ている俳優は誰も知らないが、昔の洋画なのは分かった。
「何見てんの?」
「刑事ジョン・ブック 目撃者」
「昔の映画」
「そう、ハリソン・フォードの」
「どんな話?」
「アーミッシュの女性と子供をハリソン・フォード演じる刑事が守るの」
「アーミッシュ?」
「なんかアメリカで自給自足している、変わった集団の人達」
「へぇ……」
亘も映画を視聴するが、途中からだったのであまり興味が持てない。
「あんた、囲碁棋士の女の子と付き合っているんだって?」
「友達だよ」
「囲碁棋士か。珍しいよね」
「そうだね」
「でも、亘ちゃんはその子と上手く行かないだろうな」
「なんでそんなこと言うの?」
「刑事ジョン・ブックもそうだから」
「どういうこと?」
「私、この映画何回も見ているから、話全部知っているんだけどさ」
「なんだ、そうなんだ」
「刑事ジョン・ブックとアーミッシュの女性は両想いなんだけど、結ばれないんだ」
「どうして?」
「住んでいる世界が違うから」
亘は映画に出ているハリソン・フォード演じる刑事ジョン・ブックに自分自身を、アーミッシュのヒロインの女性に香織を当てはめながら、母親と一緒に映画を視聴し始めた。
ヒロインを慕うアレクサンドル・ゴドゥノフ演じるアーミッシュの男性を、亘は仁村の息子で院生のみのるのことのように思う。
ヒロインと互いに言葉も交わさないまま、ハリソン・フォードはアーミッシュの村を出て行き、遂に映画は終わった。
途中からとはいえ、序盤の殺人事件のシーンを視なかったぐらいで100分近くは亘も視聴した。
映画が終わると、次の時間帯から始まる映画と通販のCMが流れる。
千鶴子はリモコンでテレビを消した。
亘は真っ暗になったテレビ画面を視ながら微動だにしない。
「住んでいる世界か」
「そうよ」
「でも、囲碁棋士は別に宗教集団じゃないし」
「そうだけど、あなた、その女の子のこと、全部受け止め切れるの?」
「そんな大袈裟な」
「自分を変えるって結構大変だよ。刑事ジョン・ブックの判断は正しかった。自分はアーミッシュになれない。だから諦めた」
「別に囲碁棋士にならなくても、香織ちゃんは付き合ってくれるよ」
「どうかな? お友達で終わるんじゃない」
「母さんは分かってないんだよ、香織ちゃんのことを。囲碁棋士って別に普通の人達だし、香織ちゃんだって普通の女子大生だよ」
「女の子は普通になりたいの」
「はい?」
「囲碁棋士なんて特殊な職業に就いている自分から解放されて、普通の女の子として青春したい。だから囲碁と何の関係も無い、あんたが選ばれた」
「香織ちゃんと結婚したら、お母さんとは嫁姑問題で犬猿の仲になるんだろうなぁ」
「当たり前じゃない! 私の可愛い亘ちゃんをフるだなんて、バカ女め、八つ裂きにしてやりたいわ!」
「母さんが敵なのか、味方なのか分からないよ」
「私は亘ちゃんの味方よ」
(男はマザコンになっちゃいけないんだなぁ……)
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