十四手目「院生の宿命!」

 夜になっている渋谷。

 囲碁サロン『ニギリ』の窓の外も真っ暗になっている。炎暑厳しかった七月よりはマシになったがそれでもまだ暑く、冷房は28℃設定で冷風を出している。

 壁に掲げられたカレンダーが8月に変えられている。

 亘は黒のチノパンとスニーカーを履き、薄手で黒い生地の長袖のカットソーを着た姿で、封筒を手に何やら緊張した面持ちで身構えている。

 香織と仁村は亘の向かい側の椅子を並べて座り、心配そうな表情を浮かべている。

 仁村はノータイの半袖ワイシャツに黒のスラックス姿。

 香織は半袖の黒のブラウスに、白のロングスカートを履いた姿。靴は亘とお揃いのスニーカーを履いている。

 亘が緊張しながら、口を開ける。

「外来予選……」

 亘は封筒から紙を取り出すと、香織と仁村の二人に向けた。

「四位で通過出来ました!」

「おお!」

「おめでとう!」

 香織と仁村はパチパチと拍手した。

「凄いじゃん!」

「外来予選を通過したってことはアマチュアでも強豪ってことだぞ」

「仁村先生と香織ちゃんのおかげです! 本当にありがとうございました!」

「これで合同予選に出られるね」


「喜ぶのが早いんじゃないか?」


 背筋をぞっと震わせる亘。

 仁村と香織が後ろに大きく振り向く。

 囲碁サロンの出入り口のガラス扉に背中を付け、長袖のワイシャツに白のデニムを着て、腕組みして立っている銀髪の美青年。

「みのる……」

 香織が呟く。

「一位じゃないのを悔しがるべきだろ」

「みのる君」

 みのるは蛇のような笑顔で、腕組みしながらゆっくりと歩み寄って来る。

「まさか、君がここまで辿り着けるとは思わなかったよ」

 凄まじく緊張して言葉が出てこない亘。

「君が合同予選に上がったと云うことは、俺と戦うってことだよな」

(何故だ? 「そうだな」の一言さえ返せない。威圧されていると云うのか?!)

 みのるは亘に近寄ると、蛇が身体に巻き付くように亘の傍を回る。

 みのるは亘の耳元から毒を注ぐかのように、低い声で語り掛ける。

「外来予選を勝ち抜いて調子に乗っているようだが、君は院生の実力を知らない」

 ケンカになるんじゃないか心配そうに見守る香織と仁村。

「君はきっと後悔するぞ。その女に惚れて囲碁を始めたこともな」

 下を向く香織。

「後悔などしない!」

 みのるを睨み付ける亘。

 みのるは余裕の表情。

「まぁ、いい。九月に入るまでぬか喜びしているか、せいぜい備えておきな」

 武者震いする亘。

 みのるは鋭い目以外を笑わせながら、断言する。

「すぐに、現実を思い知らせてやる!」


 冷たい秋雨が降る東京。

 日本棋院の白い外観の壁も、太陽を雲に遮られ、薄汚れた灰色と青色に染まる。

 雷が遠くで鳴っている。

 亘は長袖の黒シャツに黒のデニムに雨靴代わりの黒のブーツを履き、バッグを抱えながら黒い傘を差して日本棋院に入って行った。


 職員達によって案内される、院生と亘のように外来予選を受かった四人の若者。

 亘は合同予選の時と同じ、対局場に着いて席に座る。

 亘の前に対局者は来ていない。

 亘は対局場を見回す。

 亘が見る初めての院生は皆が幼い10代の少年少女。弱弱しそうでとても勝負師と言えるような雰囲気を出せていない。

(こんな子供達が本当に俺より強いと云うのか?)

 すると、白いワイシャツに白のデニムを履いた、銀髪がトレードマークのみのるが遅れて姿を現し、亘と向かい合わせに座る。

 みのるが妖しく微笑する。

「初日から君とやりあえるなんて嬉しいよ」

「俺もだ」

「いよいよだな」

「半年前の俺とは違うぜ」

「違わなきゃ話にならん」

「香織ちゃんにいっぱい囲碁を教えてもらったんだ。負けるわけにはいかない」

「稲穂は俺に一度も勝ったことは無いぜ」

「なら香織ちゃんより強い君が何故院生に留まっているんだ」

 みのるは下を向く。

「男だからだよ」

「何?」

「女は女流棋士特別採用枠で受かれる。だが男にそのような優遇措置は無い」

しぇい依旻いみん先生は男女混合の一般採用試験で受かったぞ」

「謝先生は本物の棋士だ。だが女流棋士特別採用で受かった大抵の女流棋士なんて、俺から言わせれば偽物なんだ」

「香織ちゃんが偽物だって言うのか?」

「対戦成績も負けが先行して、プロになってから2年も経っているのに未だに初段。それはつまり、あの女が棋士として偽物であるという証拠だ」

「香織ちゃんの悪口は許さない!」

「君の許可なんかいるか」

「何だと……」

 顔を引き攣らせる亘。

 みのるはさらに調子づいて、他の棋士達にも聞こえるように喋る。

「女と云うことで優遇してもらわないとプロにもなれない奴らに、プロ棋士を名乗る資格なんか無いね。此処にいる女子の院生達なんて皆、俺より弱い」

 すると、亘の目にも院生の中に女の子が居るのが映って、みのるの言葉を聞いていると凄く気まずくなって不愉快になった。小学生中学生くらいの少女達が皆、黙って下を見ている。

「どうせこの冬季採用試験に落ちても、女流特別採用枠で受かろうって薄汚れた魂胆しか持っていない連中なのさ」

「そんなこと聞こえるように言うな」

「聞こえるように言わなきゃ意味無いだろ」

「何?」

「君は、碁盤ここが、どういう場所か分かってねぇな」

 みのるは碁盤を右手の人差し指で示しながら亘を睨む。

「此処は、つぶし合いの場所なんだよ。皆、自分が生き残ることしか考えていない。俺の言葉に気を悪くして囲碁をやめるような連中なら、所詮それまでのカスだったということさ」

「お前……」

「俺の減らず口を黙らせたいんだったら、力で破って来い!」

「望むところだ!」


 部屋に若者達が一通り集まると、係員の中年の男性が長机を前にして立って、皆に大声で呼び掛ける。

「時間になりましたので、握って下さい」

 対局者達の片方が白石を多く握る。

 みのるの方が白番側の席に座っていたので、ニギリを先に行うのはみのるである。

 みのるは蓋を開けた碁笥の中から白石を1子だけ摘み、碁盤の上に置いた。

 目を疑う亘。

「何っ?」

「勝つのは俺だ。どちらでも良い」

 亘が碁盤をよく見ると、みのるは中指だけで白石1子を碁盤に置いている。それが中指を立てて侮辱しているように見えた。

 思わず舌打ちする亘。

(面白い……!)

 亘は黒石を1子置いた。

「なら、白番で」

 みのるは冷たく言い放ち、白石を碁笥に戻して蓋をする。

 亘も黒石を戻して蓋をしながら考える。


(こいつ、なんて奴だ。そういえば外来試験で「白番の方が得意なんだ」って言っていた子が居て、僕は絶対に勝てると思った。自白の白は囲碁の白番を意味するんじゃないかとありもしない妄想もした。だがこいつは違う。こいつはまさに白い服に身を包んでいるように、心から純真な奴なんだ。自分が完全に清廉潔白だと信じている。嫌な奴だとか悪い奴だとか周りにどう思われるかとか全然考えていない、純粋無垢で純白な暴力性を持っている男なんだ。外来予選の初日が終わった後、「白」の意味についてネットで検索したら、「白」は申し述べる、事実を告げるの意味だと書かれていた。こいつはまさに自分の攻撃性を全身で表現している奴なんだ)


 全員の黒番白番が決定して、皆が席に着いたのを確認すると、職員が呼び掛ける。

「それでは対局を始めて下さい」

 対局者達は碁盤を自分の傍に引いて、碁盤の右側に碁笥の蓋を取って置くと、頭を下げ始める。

「お願いします!」

「お願いします!」

「お願いします!」

「お願いします!」

「お願いします!」

 部屋中で木魂する対局の挨拶。

 亘とみのるも碁笥を手前に引いて、蓋を取って碁盤の右に置く。

「お願いします!」

 亘は元気よく挨拶して、頭を下げた。

 しかし、みのるは頭を下げず、挨拶もしなかった。

 亘は対局時計のボタンを押して対局を始める。

「対局を始めて下さい」

 対局時計からアナウンスされる女性の声。

(はっ!? こいつ、挨拶もしないのかよ!)

 亘は口もを歪ませながら、黒石を右上隅星に打つと、対局時計のボタンを押した。

 みのるは明らかに不愉快になった亘を見て鼻で笑った後、自分も右上隅星に白石を打ち込んだ。


係員「昼食休憩です」


 亘達は、職員達によって対局室とは別の休憩スペースに案内された。

 以前と同じ、長机とパイプ椅子が幾つも並べられた部屋。

 院生達の多くは、母親が用意したと思われる弁当をテーブルに並べて食している。

 亘は椅子に座り、テーブルの上に香織から貰ったトートバッグを置く。

 亘はトートバックに入っていた弁当箱や銀紙に包まれたお握りを取り出す。

 亘は弁当箱の蓋を開ける。前と変わらずウインナーや冷凍食品のから揚げ、ポテトサラダやミニトマトなどが盛られている。

 亘が一番注目したのは、またしてもオムレツ。香織が赤いケチャップで文字が書かれている。「まけるな!」

 亘は悲痛な表情を浮かべて、少し泣きそうになる。

「愛妻弁当か?」

 亘が仰天して左を向くと、みのるが右手にコンビニのパンの包装を持ちながら、香織の作った弁当を狙うかのように首を伸ばして凝視していた。

「見せつけてくれるな」

「君が見に来たんだろう」

 みのるは香織がケチャップで書いた「まけるな!」の文字に注目する。

「負けるな! か。残念だったな」

「まだ負けると決まったわけじゃない」

 みのるは亘の向かいの席に着く。

「しかし、どうやって逆転するんだ? 地合いでは俺が勝ってる」

「すぐにお前の石なんか取ってやるさ」

「ほう……それは楽しみだ」

 亘がお握りの銀紙を剥がす。

 海苔で巻かれた茶飯に、半分に切った煮卵が入ったおにぎり。

「美味しそうなおにぎりだな」

「香織ちゃんが作ってくれた」

「君は彼氏として最低だ」

「なんで?」

「稲穂は今日対局だぞ。対局の準備だってしなきゃいけないのに、君のために弁当を作って勉強する時間だって削ったはずだ」

「俺からは頼んでない」

「無責任な彼氏だな」

(この生意気な減らず口には何て言えばいいんだ?)

 亘は冷めた顔で言い返す。

「お母さんに作ってもらったんじゃない?」

 みのるの減らず口が黙る。

「君もお母さんに弁当でも作ってもらったら?」

 亘は呆れ顔で大きく口を開けて、煮卵のおにぎりを食した。

 すると、院生の子供達の何人かが自分達を見ていることに気付く。

(何か注目されるようなことでも言ったか?)

 みのるはつまらなさそうにパンを食べる。

「離婚した」

「えっ」

「母さんとは一緒に暮らしていない」

「じゃあ仁村先生って」

 みのるは立ち上がって亘に怒鳴る。

「父さんは立派な棋士だ!」

 毅然とした表情のみのるに圧倒されて、亘はキョトンとするしかなかった。

「父さんの悪口は許さない!」

 みのるは休憩スペースから出て行った。

 亘はみのるの背中を見つめるしかなかった。

(あぁ、「お前の許可なんかいるか」って俺も言い返せたのに……)


「10秒」

 対局時計がアナウンスした。

 碁石が多数載った碁盤。

 碁盤を苦悶の表情で見つめる亘。

 部屋で対局しているのは亘とみのるだけで、後は対局を見守る職員しか居ない。

 職員達も見込み無しと言ったような表情。

「20秒、1、2、3、4、5、6、7、8、9」

「負けました」

 亘は悔しそうに頭を下げた。

 対局時計のブザーが鳴り響く。

 みのるは呆れながらも笑みをこぼす。

「もっと早く投了したらどうだ?」

「くっそ……」

(ごめん、香織ちゃん……)

「何故負けたと思う?」

「……棋力が違い過ぎる」

 すると、みのるは立ち上がり、自分の胸を右の拳で軽く叩きながら絶叫する。

「違う! 気力の方だよ!」

 啞然として、みのるを見つめる亘。

「てめぇは、香織に惚れて囲碁を始めた、ただのナンパ野郎だ。そんな不純な動機で囲碁を始めた奴なんかが、命を賭けて碁を打ってきた院生に勝てるわけないだろ!」

 みのるは捨て台詞を吐くと、足早に立ち上がって歩き去って行った。

 亘は落胆の表情を見せて、ガックリと下を向く。

 見かねた中年の男性職員が亘を気遣って話し掛ける。

「大丈夫かね」

「すみません。一つ聞いていいですか?」

「なんだ」

「“面白い”って言葉は囲碁用語ですか?」

「なんでそう思った?」

「盤面が白いからです」

 白地が大きく確定し、黒が白に圧倒的な大差で敗北を喫しているのが分かる盤面。

「確かにめん白いな」

「強過ぎる」

「みのる君の棋力なら、もうプロになれてないといけないんだけどな」

「そうですか」

「しかしあの態度は許せないな。彼にはよく注意しておくよ」

 亘は首を振る。

「結構です」

「どうして?」

「あいつを黙らせられなかった、俺の実力不足ですから」

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