第28話

 職員室へ音楽室のカギを返却し終え、校舎を出ようとした時だった。

 ドサリ、と何か重いものが上から落ちたような音がソラたちの耳を刺激した。その音の方に視線をやれば、顔を赤くしたナツが職員室の壁に手を当てて座り込んでいた。彼の体が地面に向かってズルズルと沈んでいく。


「ナツ!」


「ナツくん、少し触るね」


 リクが冷静に対処する。その光景に違和感を若干感じたが、今はそれよりもナツの体調だ。息が荒く辛そうだ。


「発熱してるね」


「ご、ごめ……。今日、は、大丈夫……だと」


「謝らんでいい。リク、どうだ」


「うん。熱は高いけど、休めばすぐに引くタイプの発熱だと思う」


「そっか。1回保健室で休んでから帰ろう。リクとカイは先に帰ってもいいぞ」


「えっ……。ソラちんは?」


「俺、ナツん知ってるし、落ち着いたら送って行こうと思う」


「だったら――」


「分かった」


「リっくん⁉」


 食い入るように反論しようとしていたカイをリクが抑えた。


「カイ。ナツくんは今日は疲れちゃったんだよ。それに……ソラがいれば大丈夫だ」


「…………分かった」


 渋々カイが承諾した。やりきれないという顔をしていたがこればかりはしょうがない。リクも、カイも分かっていたことだった。去り際、リクがソラを見て、ふっと柔らかい表情でカイと共に消えて行った。


「……未だにあいつが何を考えてんのか、分かんねえ……」


「ソ、ラ?」


「あ、ごめん。立てるか? ……って無理か」


 ソラは背中をナツに向けておぶる。最初は抵抗していたナツだったが、熱の所為か体力が無く、数分後には大人しくおぶられていた。

 保健室には養護教諭はおらず、しん……とした空気が漂う。

 とりあえず、おぶっていたナツをベッドに降ろし清潔そうなタオルと洗面器を持ってそこに水を張る。氷水にしたら逆に悪くなりそうだからあえて氷は入れないようにした。


「ナツー、大丈夫かあ?」


「んーだいぶ楽になったよー」


 そうは言っているものの、まだその顔は赤い。汗もそこそこ掻いている。


「まだ寝てろよ」


「眠くないんだよ」


「あっそ。じゃあ寝なくていいからこれで額冷やしとけ」


 濡らしたタオルをある程度絞り、ナツに手渡す。しかしナツはそれを受け取らない。


「……ナツ?」


 ナツは横に見える窓の外を眺める。それはまるでドラマで見たことがある、病室から鳥を眺める患者のようだった。その光景がしっくりきたのはきっと彼が実際に経験していたことからだろう。そのナツの表情を見た時、ソラは心に穴が開いたような感覚に溺れた。


「……今、何感じてた?」


「……。悲しいなと」


「ふーん。やっぱそう思うんだ」


「そう思う、というと?」


「保健室の白いベッドは嫌い。消毒液のにおいとか、入院の時のことを思い出すから。……でも、そうだな。ここに戻ってくると、生きる為にいるんだ、って思う」


 その姿を黙って見ていて、話を聞くことしかソラにはできなかった。歯痒い感覚が彼をさわる。


「生きるって、なんなんだろうね」


「……そんなの、感じ方次第だろ」


 それ以上、ソラは何も言えなくなった。


 20分後、ナツは静かになった。ふと彼の方を見るとようやく寝てくれたようだった。汗は先程よりも引いており、顔色も良くなっている気がする。すぅすぅと、規則正しい寝息を聞いてソラは安心した。


 “生きるって、なんなんだろうね”


 不意に、ナツの言葉がソラの頭をぎった。呪いにも似たそれは首回りに酷く絡まりつく。

 10年前は聞くことのなかったナツの本音。

 聞くことが出来なかった心の内。聞けて嬉しい、ことはなく。ただただ心の中が空っぽになった感覚だけソラの中に残る。

 ナツにとって生きることは苦痛だったのか。言いたくてたまらない。聞きたくて仕方がない。でも、それを聞いてしまえば、自分たちの関係は雪のように、ほろほろと消えてしまいそうで怖くなった。

 クラリと途端に眠気がソラを襲う。眠くないはずなのに心と体の意思がバラバラで、そのことに気付いた時にはもう、ソラは夢の世界にいた。


「…………ん」


 夢を見ていた。内容はあまり思い出せないが、未来からソラやリク、カイがやってきて自分を助けるというもの。

 ナツは目を覚ましてゆっくりと上体を起こし、現状を把握する。

 保健室。白いベッド。夕日、そしてソラの寝顔。ソラが寝ていることには少し驚いた。起きているものだと思っていたからだ。


「――え、」


 一瞬、ソラが大人に見え、髪に触れようとした手を勢いよく退けた。およそ17歳ではない容姿の彼が、彼と重なって見えたのだ。


「……まさか、ね」


 夢で見た状況と少し似ていた為、まさかとは思ったがそれは全て熱の所為だとした。


「もしそうだったとしたら、もう僕の為にここにいなくてもいいよ、ソラ」


 その言葉は果たして、彼に届いていたのだろうか。

 真意は誰も知りやしない。


 小1時間程した頃だろうか。何かと動いたような感覚がソラを刺激した。重い瞼を必死に開けると、既にナツが起きていた。いつの間にか自分も寝ていたらしい。


「……やあ! よく眠っていたね」


「……なんで俺寝てんだよ」


「疲れてたんだよ。動画の編集も程々にしないとダメだぞ」


「そうなんかな。気を付けるわー」


「あ、そうだ。ソラが寝てる間に唯一郎さんに迎えをお願いしておいたから、あともう少しで学校に着くと思う」


 だから、付き添ってくれてありがとうとナツはクシャリと緩めて笑った。本当に元気になったみたいだ。つられてソラも笑った。


「いやー、本当にいつもありがとうね、魚波くん!」


「い、いえ、俺は特に何も……」


 唯一郎の車の中で先程から何回も同じことを言われている。いや、これで8回目だぞ! 会話が続かないことを言い訳に、さすがにもう疲れた。

 後部座席ではまたナツが寝ていた。元気に見えていたが、とはいえまだ本調子ではなかったのだろう。苦しそうではないところを見ると普通に寝ているようだったのでソラはほっと心を撫で下ろした。


「……夏人はね。特別体が弱いってわけじゃないんだよ」


「え?」


 寝顔を窺っていた為、気を抜いていた。ソラの喉から変な声が漏れる。


「入院の話は軽く知ってると思うけど、その病気っていうのが厄介でね。内臓器官が一部鹿になっちゃってるんだ。ちょっとした条件で体調を崩してしまうくらいにね。たとえば、コンビニの美味しい弁当や菓子パンとかが該当するかな」


 ――だからあの日、ナツは急に体調を。


 そう言われれば合点がいく。


「普通なら大丈夫でも、ナツの場合は違うってこと……すね」


「そうだね。だから魚波くん。もし、夏人が心を開いていたらで構わない。自分から言える日が来たらいいと思うんだ。魚波くんが一番、夏人に近いと思うから」


 その言葉の意味を、今のソラにはあまりピンとこなかった。だけど、唯一郎の目には何か力のようなものを感じた。

 結局ソラは家まで送ってもらってしまった。玄関を開けるといいにおいが玄関まで届いてくる。美舟が夕飯を作っているようだった。今夜は肉じゃがだ。

 こんなに美味しいにおいがするのに。

 こんなに美味しいと思うもののはずなのに。


 ――あいつは食べられないんだ……。


 ソラはその答えに辿りついた時、とても心が締め付けられた。

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