第27話
放課後、カイが音楽室のカギを借りてきた。
「え、今日弾くの?」
「今日しか借りれなくて」
「それはまた。急だね」
「やっぱりちょっと家で練習しておけばよかったかなー」
「いやそういう問題か?」
なんの気を使ってかソラがナツを心配してひとり焦っていた。ナツはその理由がなんとなく分かっていた。先日アップされた動画のコメントを読んでいたからだろう。読み進めていくと誰かが彼の活動休止について
「弾くのは構わないよ。で、何を弾いてほしいの? リクエストはあったりする?」
いつもの癖でピアノの椅子に座り蓋を開ける。鍵盤を久し振りに見た。この綺麗に白と黒に詰まっている鍵盤が好きで弾いていた。ある時期からは見るだけで嫌気が差したピアノ。
――今日は全然平気だ。嫌じゃない。
不思議と笑みが零れた。
「カイくん?」
「んー。……考えてなかった!」
「考えなしに言うなよ」
「えー! じゃあ、“キラキラ星”とか?」
「なんで聴きたいんだよ、キラキラ星」
「だってクラシックの曲なんて知らないんだもん」
カイが開き直る。確かにそうだ。音楽が好きな人かピアニストくらいしかクラシックについて詳しい人など一握りしかいない。普通は知らなくて当然だ。モーツァルトの『トルコ行進曲』とかベートーベンの『運命』とか。音を聞けば分かる、という感じだろうな。
「とりあえず……キラキラ星でいい?」
「お願いします、とりあえず」
「…………じゃあ」
トーンと『ソ』の音を出す。少しだけ調律がずれているような気がしたがまあ、いけるだろう。
『絶対音感』というものを、ナツは幼い頃から持っていた。今でこそコントロールできているから日常生活での支障は無い。今までは母親に教育されてきたこの能力も、頼られることによって嫌なものではないと感じる。
“キラキラ星”の少しアレンジしたものを弾き終えると、ソラたちは沈黙していた。
――……。あれ? 何かマズったか?
「ス」
「ス?」
「スゲェエエエエ‼」
その感激の声は、その日、音楽室のあるその一帯に響き渡ったという。
「凄い! 凄いね! 凄い!」
カイが手を高速でパチパチと鳴らしている。まるでチンパンジーのカシャンカシャンとシンバルを鳴らすあの人形みたいでナツは思わず吹いてしまった。
「いやいや。これくらいは」
「いやいやいや。これ程ですよ」
「そういうものなのかな?」
「でも本当に凄いね」
ここで否定するのもまた同じことを繰り返すだけで面倒だ。ナツはここは肯定することにした。
「あーうん。昔母さんに習ってて。ああ、母さんあれでもプロのピアニストだったから。そのこともあってそれなりに賞とか獲ってたからねー」
「なるほど」
「リっくんが興味持つなんて珍しいねー」
「そう? 音楽は前から好きだったから。きっと小学生の時にナツくんの演奏を聴いたことあったから、懐かしくて」
「嬉しいんだ」
「リクは顔に出さないからなー」
「……あっ! ねぇ、ナツくん!」
「え、あ、何?」
「ピアノを弾いてる動画、撮っても、いい?」
きっと、カイもナツのことを知っていて気を使ってくれているのだと思った。
「……いいよ。あ、それってサブってやつ?」
カイはソラのことを確認するかのように見た。ソラは彼のピアノを動画に上げることをあまりよく思っていない。だから確認をしたのだろう。
ソラは「はー」と大きなため息を吐いて、何かを諦めたかのようにナツの方を向いた。
「メインに載せよう。ただし、編集でナツの意見を聴きたい」
「うん。だから僕はいいんだってば。何を気にしてるのか分からないけど面白いなあ」
そうして、ピアノを弾く動画の撮影が始まった。と言ってもこの前のようなガッツリとした撮影ではなくゆったりとした撮影だった。
――ドキュメント映画でも作ってるみたい。
「じゃあ、弾き始めるけど……何を弾こうか」
「ぼくはピアノが聴ければなんでもいいよ! リっくんは?」
「オレは曲名とか気にして聴いてないから……」
「じゃあ、ソラは?」
ソラは口元に指を付けて何か考え事をしているようだ。少しして何を言いたいか、思い出したのかハッとして「そうだ」と発した。
「――『月の光』」
「誰の曲なの?」
「ドビュッシー、だね」
「なんか有名そー」
「でもどうして『月の光』なんか?」
「……いや、なんか小さい頃によく聴いてた気がして」
「そっか。じゃあ、弾くね」
ドビュッシー作曲・『月の光』。
この曲はまだ純粋にピアノを弾くことが好きだった頃、ナツの母が大好きだった曲だ。必死に練習をして賞を獲った最初の曲だった。病気で入院していた時も聴いていたし、体が回復し動けるようになった時も広場のピアノで弾いた記憶があった。
――あれ。
そういえば、と引っ掛かる記憶がある。入院していたあの頃、よく後ろをついてくる子供がいた。
――“お兄ちゃん、お兄ちゃん、今日は何を弾いてくれるの?”
入院していた子供ではなかった。その子が笑うから、ピアノをまだ嫌いになることはなかった。ふと、ソラのことが気になりそちらを向く。
「……」
そこには、何故かあの小さな少年の面影があった。
ピタリと、曲が
何故、ドビュッシーの『月の光』なんて言い出したのだろうか。いや、唯一好きだった……というか知っているクラシック音楽だということもあるのだが。ただ小さい頃に、誰かにお願いして弾いてもらっていた気がすることをソラは
「ん?」
ナツがソラを見ている。何かが突然理解できたような表情で。
「……ナツくん、どうしたの?」
カイが演奏が
「あ、うん。……。ごめんねカイくん。この続き忘れちゃったみたい」
「えー!」
「ソラもごめんね」
――なんで……俺に謝るんだ。
ソラは悲しい目を一瞬だけした。リクはその様子を見てか静かにカメラを回すのを止めた。
本当にその先の音が思い出せないようで、ナツはピアノと睨めっこを続けている。彼が言うには、その先は楽譜を見ないことには分からないそうだ。いや、半分くらいまで暗譜しているのも相当凄いことだと思うが。とは、声を掛けづらい表情をしていた。
「うーん……」
「ナツ」
「ん?」
「弾いてくれて、ありがとう」
ソラはぎこちなくお礼を言った。それが少しだけ面白かったのか、ふにゃりとナツが嬉しそうに笑った。
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