2 届かない

 それから十日ほど経った土曜日。五月ももうすぐ終わりを迎える。それでも、午前中だけの練習。半日しか大講堂を使えない。


 蒸し暑さはいや増して、ジメジメとした湿気を感じる。もうすぐ梅雨の時期だと肌で感じるほどに。照明でジリジリ焼けるようだけど、もはやジャージなんか着ている場合じゃない。


 全員が上下とも体操着の、半そで半ズボン。

 俺も健全な男だし、好きな人が生足を出していたら、反応するのが普通……のはずだった。今はあまりそんな目で見れないし、そうすることに後ろめたさや罪悪感を覚えてしまう。

 舞台上では、練習でははっきりと目を合わせられるのに。見つめ合っているというのに。互いに違う方を向いているような気がしてならない。


 演劇部の雰囲気は途轍もなく悪い。重苦しく、息が詰まりそうなほどだ。峰岸先輩と川嶋先輩はあれ以来、ほとんど口をきいていない。


 そのただならぬ空気に田中先輩と菅原先輩も気圧されていて、口をまったくはさめずにいた。二宮先輩から説明を受けて納得していたが、「こんなに長引いてるのは初めて見るかもな」、と田中先輩がポツリと言った。菅原先輩は、その言葉に肯いた。


 そんな中で俺の演技はメキメキと上達しているらしく、口数の少ない菅原先輩からもたいそう褒められた。「こりゃあ、追い抜かれたかな」、と冗談めかして言われるくらいには。


 不思議な感覚だった。演技する自分を操作しているような、空中から俯瞰して自分を見ているような、一歩下がった位置にもう一人の自分がいるような。

 客観的に自分を見ることができている。演技に熱が入っても、冷静な自分がもう一人頭の中にいるのだ。


 ただ……少し気を抜くと、ジュリエットに――神崎に、どうしても怒りを感じる瞬間が出てしまう。


 理不尽なのはわかっている。それでも、やり場のない怒りを覚えてしまう。それを鎮めるのには、だいぶエネルギーが必要だった。深呼吸をしても変わらない。拳を痛いくらい握りしめて、奥歯を食いしばって耐えるしかない。


 川嶋先輩のことを好きだとして、どうして俺には教えてくれなかったのだろう。

 相談にかこつけて、二人一緒にいる時間が欲しかったのか。その時間を大切にしたかったのか。宝物のように、胸の奥の箱に大事にしまっておきたかったのか。


 わかっている。俺はただの部活の同期で、ただのクラスメイトで。仲が多少いいとはいえ、自分の想い人を逐一教える義務はない。

 あくまで、ただの友人Aでしかないのだ、俺は。

 そうやってグルグルと思考すると、怒りと哀しみがない交ぜになって、しまいには虚無感に襲われ始める。


 けれど、ふと我に返ったときに浮かんでくるのは、やっぱり神崎の笑顔だった。

 結局俺は神崎が好きなのだと、諦められないのだと、再確認することになるだけだ。

 我ながら女々しいものだと思う。未練を断ち切るには、想いを伝えるしかないのだろう。


 でも、そうしたら、神崎とはさらに気まずくなって、演劇部は本格的に壊れてしまいそうな気がする。

 神崎は気にせず、むしろ今まで通りに振舞ってくれるのかもしれない。この微妙な距離感も改善されるのかもしれない。けれど、もう何が正解かわからなくなってきた。


 俺が辞めれば済む話なのだろうけど、そんなことをしたら、それこそこの自主公演は、峰岸先輩が心血を注ごうとしている文化祭は、いったいどうなる。

 留まっても、進んでも、退いても、苦しい。


 辛いけど、だからこそ現実逃避のために演劇に没頭できている。遠い世界のように思っていた『ロミオとジュリエット』が身近なものに感じ始めている。ずいぶんと皮肉な話だ。

 菅原先輩にも褒められた。糧になっている。そう思うことが、今日からの心の拠り所になるかもしれない。


「さて。茉莉也。颯斗」


 川嶋先輩とのいさかいなど微塵もなかったかのように、峰岸先輩が昂揚感を隠すことなく笑顔で言った。

 舞台の真ん中に呼び出される。まるで劇の一幕のようだ。当事者なのにそう感じてしまうほど、やはり峰岸先輩のまとうオーラは物が違う。


「本番まで二週間。そろそろ役を固めたい。二人は、どうしたい?」


 俺たちに判断を委ねているようでいて、先輩の意思は決まっているように思えた。俺たちの覚悟を試しているのだ。


 神崎へ顔を向けると、ちょうど目が合った。部活中とはいえ、演技以外で意思の疎通を図ったのは、ずいぶんと久しぶりな気がする。

 神崎の決意に満ちた表情。自信にあふれた、と言い換えてもいい。


「ロミオを、やらせてください」

「私も、ジュリエットがやりたいです」


 神崎は本当に変わった。憧憬と不安の狭間から。一歩先へ。挑戦の道を選んだ。


 変わった。どうして? どうやって? 何に変えられた?


 俺は、神崎に変えられた。救われた。背中を押してもらえた。神崎は何に背を押されてここに立っている。何に支えられている。

 これが本来の神崎か。だとしたら、彼女を解き放ったものは、何だ。

 わからない。わかりたくもない。


「よく言った。このまま本番まで行こう。確実に、日増しによくなっている。課題はあるが、君たちなら乗り越えられると信じている」


 二宮先輩がパチパチと拍手をくれた。それに続くように、恵先輩が、御厨さんが。川嶋先輩、田中先輩、菅原先輩と、全員が、拍手を送ってくれる。一瞬だけど、前の演劇部に戻ったような温かさだった。


 あまりにも今更のようだが、こうして正式に、俺と神崎がロミオとジュリエットを演じることになった。


 もちろん、嬉しくはあったのだけれど……。

 川嶋先輩がロミオを演じるべきではないか、と一瞬でも思ってしまった自分を、思い切りぶん殴りたくもなった。


 ぐっ、と唇を噛む。楽しみ、楽しませる。最高の舞台にするために。

 今はただ、演じられることを歓ぼう。

 それが俺に与えられた権利であり、義務なのだから。




 家に帰り、部屋に着き、着替えもせずにボスン、とベッドに飛び込んだ。

 制服がしわになるな……と思う程度には冷静な自分がいて、それが何だか不思議だった。


 のそのそと転がったままポケットからスマホを取り出し、仰向けになってメッセージを開く。

 いっそのこと、神崎にメッセージを送ってやろうか。それとも、電話でもしてやろうか。

 そんな気持ちも湧いてくるけど、もしも返事がこなかったら、とか、もしも着信拒否されていたら、とか、マイナスな想像ばかりが浮かんでくる。


 気を紛らわしたくなって、台本を取り出してパラパラとめくる。自分の台詞、その前後の台詞どころか、ほぼすべての台詞が頭に入っていた。学校の教科書もこれくらい暗記できれば楽なのに。興味あるかないかで、こんなに変わってしまうものなのだな、としみじみ思う。


 物語の終盤、ジュリエットはロミオに会うため、毒薬を飲んで仮死状態になる。四十二時間後に症状が回復する毒薬だ。そんな毒薬、かなりのご都合主義感があるが、まあ言っても詮無いことだろう。


 死んだら納骨堂に運び込まれるのがキャピュレット家のしきたり。この毒薬で仮死状態になり、死んだと思わせたところで、人目を盗んで納骨堂から脱走し、追放されたロミオに会いに行く。その手はずだった。

 だが、ロミオはその段取りをまったく知らず、無理してヴェローナに戻ってきたところで、ジュリエットが本当に死んでいると勘違い。後追い自殺を図る。


 なぜそんな悲劇が起きたかと言えば、ロミオのもとに段取りの手紙が届かなかったからだ。伝染病の検閲など様々な不慮の事故が重なり、手紙がロミオのもとに届かない。

 当時の道路は舗装もままならない状況。馬や徒歩で配達するのが基本の時代でもある。配達が遅れることは多い。伝染病の検閲も、時代背景を踏まえれば不思議ではない。


 現代は違う。ボタン一つで、離れた位置でもすぐに連絡ができる。声も聴ける。

 だというのに、思いを伝えるのは、かくも難しい。


 気がつけば神崎のことばかり考えている。四六時中、とは言わなくても、不意に浮かんできては頭の中がいっぱいになっている。

 スマホを枕横に放り出し、天井を見ながら大きくため息を吐き出した。

 吐き出した気持ちが返ってきて、重く胸の奥深くにのしかかった。


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