第9話 入魂の一筆

 それから書店を出た俺達は、歩行者天国に面したカフェチェーンにチカの先導で入り、店の奥のソファー席に腰を落ち着けていた。秋葉原に不慣れそうな藤谷ふじたにさんと、女子との行動に不慣れな俺に代わって、頼れる後輩が店を決めてくれた次第である。

 藤谷さんには奥側の席に陣取ってもらい、その向かいに俺とチカが並んで座るという構図だ。幸いオタクの街だけあって、周りの客は皆それぞれの世界に没頭していて、俺達が注目されている様子はなかった。


「あのっ、実は私っ、今日は虹星ななせ先生に会えると思って、これ持ってきたんですけどっ」


 飲み物に口をつけもしない内から、チカは自分のスクールバッグから忙しなく美少女作家の著書を取り出し、両手をぴんと伸ばして作者の前に差し出していた。

 藤谷さんは、ぱっちりとした瞳に温かな笑みを浮かべて、「あ、サイン?」と応じている。


「はっ、はいっ、ご迷惑でなければっ」

「ふふ、まだ慣れてないから、キレイに書ける自信ないけどねー」


 謙遜か本気かわからないことを言いながら、慣れた様子でサインペンを取り出す彼女。その前ではホットティーのカップが湯気を立てている。

 サインもいいけど……いよいよそれに口をつける段になれば、マスクなしの素顔が遂に生で拝めるんだけどな……。


「……あ、尾上おがみくん、何かヨコシマなこと考えてる?」


 テーブルに置いた著書の表紙をめくり、ペンを構えたところで、作家先生はふいに俺に目を向けて言ってきた。


「え!? いっいや、別に、何も!」

「焦らなくてもー、こんな顔でよければいつでもご高覧に入れますよー」


 イタズラっぽい声色に俺がドキリとしているのをよそに、先程の謙遜は何だったのか、彼女は恐ろしいほど手慣れた筆致でさらさらとサインを書き上げていった。その名の通り、虹と星のイメージを組み込んだらしい書体で、「虹星ななせ彩波いろは」の四文字が綴られていく。


「めっちゃ慣れてんじゃん……」


 俺がぼそっと呟いた声を耳ざとく捉えて、彼女は「練習してたからねー」と口ずさむように述べ、「チカちゃんへ」の文字の横にハートマークを躍らせた。


「はい、応援ありがとっ」

「わぁっ、ああありがとうございますっ! わが一族の家宝にしますっ!」


 本を受け取り、聴いたこともない声を上げて喜ぶチカ。流石に周りの客の視線が集まるのを感じて、俺は一族の年長者の務めとして「声、声」とその袖を引っ張った。

 ハッとなって口元を押さえてからも、後輩は「はぁーっ……」と変な息を吐いて、年末ジャンボにでも当たったかのように恍惚とした表情で手中のサイン本を眺めている。

 やれやれ、と思って作者様に目を向けると、


「!」


 いつの間にかマスクを外し、静かにティーカップに口をつけながら、俺の視線に気付いてパチリと片目を閉じてくる美少女の姿がそこにあった。

 ラインのアイコンでしか知らなかった素顔が、こんなに簡単に目の前に……!


「んー? 思ってた顔と違った?」


 カップから赤い唇を離して微笑む彼女は、それはもう自撮り画どころじゃない可愛さで。


「いっ、いやいや! 思ったより早く正体を見ちゃったから、びっくりしただけで!」


 さっきのチカに負けず劣らずの勢いで声を裏返らせてしまい、俺は周囲の客の視線から逃れるように身を縮こまらせる。隣のチカもまた彼女に見惚れているのは気配でわかった。

 正体呼ばわりは妖怪みたいで変だったか、と思って顔を上げたところで、カップをソーサーに置いた彼女が微笑む。


「ふふっ。あのとき助けて頂いた鶴でございます」

「ど、どっちかって言うと、かぐや姫とかじゃ……」

「えー? 私って男の人に貢ぎ物とか要求しそうに見える?」


 マスクを付け直しながらクスクスと微笑む彼女。正直、見えるか見えないかで聞かれると、大勢の男をはべらせてブランド物を貢がせる未来の姿が見えなくもない、が……。

 いやいや、なんて失礼なことを、と思わず首を横に振ったところで、ふと気付いた。


「……そういや、俺も欲しがった方がいいのかな」


 チカの手元のサイン本と藤谷さんの顔を交互に見ると、彼女は「お望みとあらば?」と空っぽの手でペンを構える仕草をしてくる。

 そりゃあ、ここまで来たら俺だって……あ、でも、彼女の著書は家に置いてきたんだっけ……。


「センパイ、読んだこともないのに図々しくないですか? それなら私が二回頂きますよっ」


 ダメ元でバッグの中を見ようとしたところで、ようやく余裕が戻ってきたらしいチカが横からそんなことを言ってきた。


「いや、読んだから、ちゃんと昨日」


 俺が反射的に答えると、「えっ!?」と向かいで黄色い声を上げたのは作者様だった。


「尾上くん、読んでくれたの!?」


 今までで一番嬉しそうな顔になっているのがマスク越しにもわかる。身を乗り出してきた彼女の甘い匂いを感じて、俺は思わずソファの背もたれに背中を押し付けていた。

 胸の高鳴りに声も出せないまま、俺がコクコクと頷くと、彼女は「嬉しい……」と一言。

 その目の表情は、それこそサインを貰った直後のチカよりも、うっとりと喜びに浸っているように見えて……。どこか、余裕の笑みで俺を手玉に取っていた彼女とは別人のようにさえ思えた。

 何とコメントするのが正解かもわからず、俺がしばし硬直していると、横から助け舟のようなチカの声。


「センパイにこの作品の良さがわかったんですか? どこが面白かったのか言ってみてくださいよ」

「あ、あぁ……何ていうか、まず設定のスケールが凄いし、文章もメチャクチャ綺麗だし、ウイルス禍に合わせた臨場感もヤバいし? ……いや、じゃなくて……」


 ちらっと視線を上げて美少女作家の顔を見る。何となく、彼女はそんな通り一遍の感想より、別の言葉を待っているような気がした。


「やっぱさ、キャラの心の動きがいいよな。ヒロインの夢を聞かされて、主人公が改めて戦う決意を固めるとことか……。ライバルのほうも、なんだかんだで仲間思いだったりして好感持てるし。いや、でもやっぱ、俺はアレだな、最後の戦いの前で、崩れそうな主人公の手をヒロインが握るとこ……」


 俺が昨夜感じたままを口に出すにつれて、テーブル越しに身を乗り出したままの彼女の目が、少しの驚きと、嬉しさの入り混じった色に染まっていくように見えた。


「……あのシーンでさ、最後の最後でやっと主人公は夢を持てたのかなって。まあ、ほら、そういう話の良さがね、俺なんかにも理解できちゃったわけですよ」


 照れ隠しを交えて言い切る頃には、彼女はマスクがあってもわかるほどに顔を真っ赤に染め、「わぁぁ」とかチカ並みの声を出しながら自分の両頬を手で覆っていた。


「そんなに……ちゃんと読んでくれるなんて……わたし、うれしい……!」


 漢字で喋ることを忘れたようなとろけ声になって、くずおれるようにテーブルに両肘をつく彼女。頬から目元までを覆う白い指の間には、信じられないことに涙までも光っているように見えた。


「え!? えっ、いや、ちょっと、藤谷さん!?」

「……ナナセって呼べっ」

「ナナセ先生!」


 涙まじりの声で命じられ、俺が咄嗟に昨夜と同じ妥協に逃げると、彼女は涙声のままクスリと笑って顔を上げてきた。


「……ごめんね、ちょっと、感極まっちゃって」

「い、いや……」


 周囲の客から好奇の視線を感じる。チカに「ハンカチとか気の利いたモノないんですかっ」と小声で耳打ちされ、俺が「えっ」と変な声を出した時には、彼女はもう自分のハンカチをどこからともなく取り出し、目元に光るものを器用にぬぐっていた。


「……ホラ、ずっと書籍化作業なんかしてるとね、自分の文章が工業製品みたいに見えちゃうじゃない?」


 俺達にだけ聴こえるくらいの声で作家先生が言う。「じゃない」って言われても……。


「だから、生きた感想なんか、ちゃんと口に出してもらえるの久しぶりで。あぁ、私の小説が本になったんだなぁ……って、ヘンな感慨湧いちゃったの。驚かせちゃってごめんね?」


 顔の前で小さく両手を合わせ、まだ涙の乾かない上目遣いで彼女が俺を見つめてくる。この上ないほどの威力に心臓を撃ち抜かれ、俺が固まっていると、彼女は一際明るい声に転じて言った。


「よしっ、じゃあ、この嬉しさの記念にサインしてあげる。手出して?」

「へっ!?」


 彼女の細い左手がすいっとテーブル越しに伸びて、俺の右手を下から掴み上げる。いきなりのことに、今度こそ心臓が止まるかと思った。

 ふわりと柔らかい女子の手の感触。実の親戚のチカにだって、もちろん手なんか握られたことないのに。


「いや、いやいやいやいや、それはさぁ!」


 口では否定しながらも、俺は彼女の手を振り払うことすらできない。


「だって、私の本、今日は持ってきてくれてないんでしょ?」


 楽しそうに声を弾ませる彼女の目の色は、余裕の調子で俺を弄ぶ、いつもの藤谷さんに戻っていた。

 ……いや、「いつもの」も何も、知り合ってまだ二日目なんだけど……。


「ではー、入魂の一筆、いきまーす」


 チカが驚きに口をパクパクとさせている横で、美少女作家は、いつの間にか構えていたサインペンの先をきゅっと俺の手の甲に這わせてくる。

 温かく柔らかい手の感触と、冷たくくすぐったいペン先の感触に利き手をサンドされ、俺は身じろぎ一つできないまま、早鐘のような胸の鼓動を感じていることしかできなかった。

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