第10話 もう好きでしょ

「これでよしっ。これからも応援してね?」


 俺の手の甲にサインを書き終えた藤谷ふじたにさんが、僅かに首を傾けて微笑みかけてくる。マスクで隠しきれない反則級の笑顔の輝きと、初めて女子に手を握られた興奮に飲まれ、俺の言語中枢はもうまともに働いていない。

 かろうじて、隣のチカが「ずるいですよ……」と呟く声は認識できたが、俺の恵まれぶりがずるいと言ったのか、彼女の可愛さにずるいと言ったのかはわからなかった。……両方だったかもしれない。


「あ……は……」


 はい、の一言すら出せない俺の右手をそっと離して、美少女作家は、今までそれを握っていた左手を謎に俺の前でひらひらさせた。


尾上おがみくんが作家デビューしたら、私の手にもサインしてね」

「へぇ!?」


 またも変な声が出てしまったが、あいにく俺の脳にはもう、周囲の客の目がどうこうなんて意識する容量は残っていなかった。


「……いや、俺は、今さら作家なんて……」


 やっと喉から出てきたのは、我ながら実に情けない言葉。

 かつて目指したこともあったその道は、今の俺には意識するのも苦しいものだった。同い年の天才を目にしてしまった今では、なおさらだ。

 と、言いよどむ俺に被せるように、「そんなこと言わないでさ」と彼女の優しい声。


「ヒロインに手を握られたら、夢を持ってくれるんでしょ?」

「っ……!」


 ぞくっとするほどの可愛さで差し込まれたのは、俺がさっき好きだと言った、彼女のデビュー作の終盤の展開になぞらえた発言だった。


「いやいや、俺はケントじゃないし!」

「でも、オオカミじゃない?」


 上手いこと言ったでしょ、みたいな目をして微笑む彼女。あの作品に登場する新人類は、一人につき一種、この地上から滅び去った生物の力を受け継いでいるという設定があり、主人公が覚醒したのはニホンオオカミの力だった。


「……負け犬だよ、俺なんてのは」


 チカのいつもの悪口を引用して俺が言うと、美少女は少し寂しい目になって、「負けてないよ」と一言だけ口にした。

 勝った人に言われても嫌味にしか――なんて言い返すこともできないほど、その目は切ない色をしていて。

 先程までの緊張とは違った意味で、俺が何も言えずに固まっていると、チカが「あのー」と小さく手を挙げて、今しかないとばかりに切り込んできた。


虹星ななせ先生っ。私、ずっと謎なんですけど……」

「『さん』でいいよ?」


 さらっと先生呼びを遠慮する彼女の目は、もう明るいファン対応の色に戻っていた。


「……じゃ、ナナセさんっ。あのっ、あなたほどの方が、一体コイツの作品のどこを気に入ったんですか?」

「お前、年長者を普通にコイツ呼ばわりした?」


 息をするように突っ込みが口をついて出ていた。

 なな……藤谷さんは俺達の様子にくすっと笑ってから、「そうねー……」と値踏みするような流し目を俺に向けてくる。ただそれだけの仕草でも、逐一ドキッとしてしまう俺がいた。

 ……いや、でも、俺だって聞きたい。彼女ほどの才能の持ち主が、どうして書籍化すらしていない俺の作品をあんなに褒めてくるのか。あまつさえ、「大好き」なんて……。

 その言葉の響きを思い出して、俺が一人で顔を熱くしていると、彼女は穏やかな声で語り始めた。


「突き放したような言葉の裏に、優しさを感じるところ。ほんとは人のことをよく見てて、真剣な人の夢を茶化さないところ。……それに、闇の中でも希望はあるって示してくれて、私も頑張ろう、って思わせてくれたところ。……かな?」


 その言葉の一節一節に、俺は胸がどくんと脈打つのを抑えられない。

 ……なにそれ? 昨日送った長編、そんな内容だったっけ? だったと言えば、だったような気もするけど……。


「……さ、作品の話ですよね、それ」


 恐る恐るといった声で代わりに訊いてくれたチカに、「さあ、どっちでしょうー」と弄ぶように答え、彼女はお馴染みのイタズラっぽい笑みを含んだ視線を俺に向けてくる。

 それから、美少女は再びそっとマスクを外し、紅茶の残ったカップを白い指で持ち上げていた。

 あっ、そういえば自分のコーヒーなんか全然手付かずだった、と意識のどこかで思い出したが、彼女の思わせぶりな言葉とその美貌を前に、俺は汗のにじむ手のひらを自分の指で撫ぜていることしかできない。

 目をそらすことも忘れて、俺が彼女の口元に釘付けになっていると、やがてカップから離れた赤い唇が「さて」と言葉を紡いだ。


「ずっとお喋りしてたいけど、私もう帰らなきゃ。おばさんが夕飯作ってくれてるの」


 壁の時計をちらりと見て言う彼女の声は、本当に名残惜しそうだった。


「あ……あぁ、居候、だっけ」

「うん、自活できるようになるまではね。だから、二冊目が出せるように応援してねっ」

「す、するする」

「それか、尾上くんが先にベストセラー作家になって、私を書生として置いてくれてもいいんだけどー」

「へあっ!?」


 俺の動揺をよそに、彼女はくすくすと笑ってカップをソーサーに戻し、マスクを付け直している。


「あ、いいよ、二人はゆっくりしていって?」

「いえ、そんなっ! 駅まで送りますっ」


 チカが慌てて飲み物を飲み干すのを見て、俺もマスクをずらし、冷めたコーヒーを急いで喉に流し込む。

 そこで、「あっ」と何かを見つけたような美少女の声。


「やっと見れた。尾上くんの素顔」

「っ!?」


 思わずむせ返りそうになるのを必死に抑え、俺はなんとかコーヒーを飲みきる。味なんて全くわからなかった。


「ナナセさんっ、あんまりイジメないであげてくださいよっ。コイツの命の火、とっくに消えちゃってますから」

「おかしいなー、拙作だと一度生き返ってからが本番のはずなんだけど……」


 愛読者と作者様が作品をネタにして何か言っている。俺は新人類じゃないから、一度死んだら生き返れないんだけどな?


「ほら、レンレン、男ならトレー持ってくださいよっ」

「レンレン言うな」


 チカの突っ込み待ちのおかげでギリギリ調子を取り戻し、三人ぶんのカップを載せたトレーを持って立ち上がったところで、同じく席を立った美少女作家がにこにこと笑いながら距離を詰めてくる。


「レンレンって可愛い呼び名。私も呼んでいい?」

「はぁっ!?」

「そうだ、ナナセって呼んでくれなかった回数だけレンレン呼びしちゃおうっと」

「なんでそうなんの!?」


 トレーを落としそうになるのを危うく回避し、なんとか無事に返却口に戻したところで、手の甲のサインが目に入ってまた顔が熱くなった。

 店の出口で二人に追いつき、揃って店を出る。もう日は暮れきっていた。


「……ていうか、藤谷さんさぁ」

「なにかな、レンレンくん」


 美少女作家は、あくまでさっきの宣言をひるがえすつもりはないらしい。


「……ナナセ先生さぁ。今さらだけど、これじゃ俺、うかつに手洗えないじゃん」


 小柄なチカを間に挟んで歩行者天国を歩きながら、俺がサイン入りの手の甲を示して言うと、彼女は「洗っていいよ?」と弾んだ声で答えた。


「だって、インクが落ちても今日の記憶は永遠でしょ?」

「……かなわねーわ」


 顔から蒸気が吹き出るような熱さを感じて、俺がサイン本ならぬサインで顔を扇ぐのをよそに、転校生は夜の秋葉原をチラチラと見回しながら言った。


「私、東京に出てきてビックリしたんだけど、こっちの電車ってすごいよねー。時刻表なんか気にしなくても、数分に一本来るんだもん」


 ……そっか、都会育ち以外にはそれって珍しいのか。

 妙な感慨を覚える俺をよそに、チカが「前に住んでたところはどうだったんですか?」と如才なく尋ねている。


「んー、電車は一時間に一本くらいかな。みんな時刻表を暗記してて、それに合わせて行動するんだよ」

「はぇー、想像もつかないです。スローライフものの世界ですねっ」

「お前、それはちょっと違うと思うぞ……」


 俺達の言葉にふふっと笑って、彼女は嬉しそうに流し目をくれた。


「いつか遊びにきてねっ。ホタルが綺麗なところだから」

「……か、考えとく」


 そんな言葉しか返せない自分が、ちょっと……いや、かなり情けない。


 ちょうど秋葉原駅の電気街口が目の前だった。ホームまで送りますよと申し出るチカに、「自分の足で辿り着きたいから」と詩人のようなことを言い、藤谷さんは「また学校でねっ!」と笑顔で俺達に手を振る。

 その華奢な背中が人の波に飲まれていくのを見送ってから、チカがふと言ってきた。


「ホタルかぁ。だからですかね、オルフェウスのあのシーン」

「……あー。そうかも」


 夏の夜に美しく光を放つホタル。散りゆく命の儚さを表現するのに、そのモチーフは作中で印象的に使われていた。

 自らの生まれ育った土地の景色を、彼女は小説に写し取ったのだろうか。


「ねぇ、センパイ」

「なに」

「もう好きでしょ、あのヒトのこと」

「! ばっ、お前、何言って……!」


 オタクの街の喧騒の中、俺の声に振り返る人はいなかった。

 にやにやと笑って俺を見上げ、チカは駅構内に向かって歩き出しながら言う。


「私は応援しますよ。だって、センパイとあのヒトがくっついたら、私も一足飛びで親戚の立場ゲットじゃないですかっ」

「いや、だから何考えてんの!? そういうんじゃないって!」


 後輩に続いてICタッチで改札を通りつつ、俺はネットで見た親族関係の知識を思い出して言った。


「つーかお前、五親等の姻族いんぞくって普通に他人じゃん」

「えっ、姻族とか言って、もうあのヒトと結婚する気でいるんですか!? きもーっ、陰キャの妄想きもーっ!」

「いや、お前が言ったんだろ!」


 避けられるのを承知で突っ込みを入れようとして――振りかぶった右手に彼女のサインがあるのを思い出して、俺はホームへの階段の手前で思わず立ち止まってしまった。

 ちらりと振り向いたチカが、俺の顔を見てふふんと笑う。


「いやらしい顔しちゃってぇ。今夜はその手でナニする気なんですかぁ?」

「お前、さすがにそれは冗談でもぶん殴るよ!?」

「ひえっ、未来のお嫁さんに握ってもらった手を私の血で汚すんですか!?」

「およ……っ!」


 スカートの後ろを器用に押さえて、たたっと小走りに階段を駆け上がるチカを、俺ははぁっと息を吐いて追いかける。

 ――コイツの冗談はともかく、自分の中に芽生えかけた想いを否定することは、もはや俺には難しそうだった。

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