第5話 マキ(1) 事故

 学校に行くのは憂鬱ゆううつで、放課後に近づけば近づくほど気分は沈んでいく。今日は何もないだろうか。まだ平気だろうか。いつまで平気なんだろう。


 行くのをやめたとき、アツシは家までやってきた。唯一絶対の安全地帯だったはずの自宅は簡単におかされた。母親はあいつに取り込まれ、帰りの遅い父親は当てにできない。


 逃げ場はなかった。


 マキが学校に行けば、アツシはそれ以上テリトリーを広げない。関わりは学校とその周辺に限られる。であるならば、自宅を、自分の精神を守るためには、マキが登校するしかなかった。


 放課後、アツシの待つ教室に行く時が一番つらい。頭がガンガンして、胃がキリキリと痛んだ。倒れてしまえば行かなくてもいいだろうか。いいや、アツシはその程度では許してくれない。体をきたえろとでも言ってくるだろう。


 日直や係の仕事で遅くなるときは特に怖かった。事前にチャットで連絡を入れてさえいれば、とがめられたことはない。だが、アツシの気分次第で簡単に反転することをマキは知っている。


 遅れて入った教室は異様な空気だった。アツシがイライラしているのがわかった。いつまでも教室を出ようとしない。人目のある所は比較的安全だから、マキは早くどこかに行きたかった。


 あまりにも空気が重すぎて、ゆっくりと天井が下りてきているのではないかと思った。シリンダの中の空気がピストンで圧縮されていくように。


 それでもいい。このまま時間が過ぎていけば、そのうち解散するだろう。壁掛け時計の秒針が動くジーッというわずかな音に集中して、マキはひたすらその時を待った。


「あ、そーだ」


 脳天気に上げられたミツルの言葉に、うつむいて息を殺していたマキの頭がびくりと動いた。


 ミツルはいつもろくな事を言い出さない。アツシが興味を持ちさえしなければ何ということもないが、興味を持ってしまったら、大抵マキの身に災いが降りかかる。


 話題に出たのは心霊写真を撮るアプリだった。マキはホラーがそれほど苦手ではない。人並みには怖いが、怖いもの見たさで映画を観るくらいのことはする。


 だが、それがカメラアプリだということが、マキの恐怖をあおった。写真を撮るのが怖い。シャッター音が怖い。撮った画像を見るのが怖い。


 ミツルがカシャカシャと写真を撮る度に、マキの心臓は跳ねた。レンズがこちらを向いているような気がして、体が縮こまる。


「マキ」


 アツシが静かに名前を呼んだ。


「お前も見ろよ」


 命令口調ではない。だがその言葉は絶対だった。嫌と言うほど分かっているはずなのに、マキは恐怖のあまり拒絶してしまった。


「えっ? でも私、怖いのって苦手で」

「いいから見ろ」


 強められる語気。これ以上抵抗すると何をされるかわからない。


 マキはミツルのかかげるスマホを見た。窓の上方に上半身逆さまのスーツの男がいて、教室の中をのぞいている。目が合った気がした。


 思わず後ずさると、体が机に当たった。その反応が面白がって、ミツルが画面を近づけてくる。


 拡大された男の顔、眼球のない空虚な目がマキを見ていた。同様に丸くぽっかりと開いた口が、お前のせいだ、と動いた。


 お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。


 逃げ続けて、マキは机に乗り上げる。落ちそうになり、自然に片足が振り上がった。


「ぎゃはははっ! パンツ見えてやんの!」


 その言葉に、ざっとマキの頭から血が引いた。単に同級生の男子に下着を見られたというだけの羞恥しゅうち心からではない。


 あのことを思い出したからだ。


 夢の中でも、目を閉じただけでも、時には白昼夢として、繰り返し繰り返し思い出す、マキをさいなむ記憶。後悔しても、懺悔ざんげをしても、謝罪をしても、忘れるな忘れるな、と脳裏に引き出される。


「自撮り」


 アツシの声に、カッと頭に血が上る。耳が熱くなった。生物としての防御反応なのだろうか、これから起こることに身構えるように、心臓がドクドクと血液を体中に送っていく。抵抗なんてできるわけもないのに。何の意味もないのに。


 しかしその言葉は、マキに向けられたものではなかった。


 ミツルが自撮りをしようとしてもたつき、ジュンコが撮ることになった。すぐにチャットに共有される。ミツルが幽霊にすがりつかれている気持ちの悪い写真だった。


 それがアツシの興味を引いた。引いてしまった。


 結果、マキはそのアプリをインストールさせられた。デフォルトのカメラアプリでさえ消してしまいたいくらいなのに。


 アツシを除いた三人が、教室の中を撮り始める。


 嫌々アプリを起動すると、ポップアップが現われた。『撮影した画像をAIが心霊写真にします』とメッセージが書いてある。ホラーらしく黒地に少しかすれた赤い文字で書いてあり、雰囲気があった。


 チャットに共有された画像を見たくなく、撮影もしたくなかったマキは、アプリの機能を確かめているふりをすることにした。問い詰められてもこれで説明がきく。


 といっても、アプリにはなんの機能もなかった。明るさや拡大といった機能はもちろん、フラッシュさえない。ただ撮影するしかできない。メニューボタンを押して出てきたのは、人間を撮ってはいけないという説明書きだけだった。


 そういう大事なことは、起動するときに出さなければいけないのではないだろうか。すでにミツルの写真を撮ってしまっている。四人の反応からすれば予定通り心霊写真になっていたようだが、もしかすると処理が上手くいかない時もあるのかもしれない。


 そうやって逃げていたマキだったが、逃げ切ることはできなかった。アツシの目に止まり、撮影せざるを得なくなったのだ。焦って床を撮ってしまった。そんなどこにでもあるような物を撮るべきではなかったのに。


 震える指でシャッターボタンに触れると、現れたのは、床から人間の顔が浮き出ている写真だった。顔立ちははっきりしておらず、目が表れていなかったことには助かったが、大きく開いた口がまたもマキを責める言葉をつむいだ。


 思わずスマホを取り落としてしまい、慌ててそれを拾い上げてグループチャットに送る。


 アツシががっかりしたような顔をして一瞬ヒヤリとしたが、興味を失ったようで、そこでお開きになった。


 いつもよりもずっと早い。これ以上何も起きませんように、とマキは願った。学校を出て、少し歩けば解放される。それまでにアツシの気が変わりませんように。


 カシャカシャと耳障りなシャッター音が聞こえる中、マキは足元の床だけを見つめて、じっと昇降口に着くのを待った。


 だが、実はそんなに甘くなかった。


 突然アツシがトイレの前で足を止める。


 まさか――。


「マキ、トイレ行きなよ」


 死刑宣告に近しい一言だった。


 がしっと両腕をつかまれる。


「う、ううん、私、別に行きたくない」


 慌てて言ったが、意味はなかった。ユナとジュンコに引きずられていく。


 嫌だ。トイレは嫌だ。やめて。嫌だ。


 後悔してもしきれない光景がフラッシュバックしてくる。


 暴れると、ユナに髪をつかまれた。ぶちぶちっと髪の毛が抜ける音がした。


「入りなっつってんだろ!」


 ユナが怒鳴り、トイレの壁をバンッと叩いた。続けて鳩尾みぞおちに衝撃が走る。ひるんだ隙に、個室に突き飛ばされた。


「鍵閉めな! ほら早く!」


 言われて、反射的に扉を閉めて鍵をかけた。はーっ、はーっ、と荒い息が漏れる。頭が痛い。お腹が痛い。自然と涙が出てきた。


 だけどここは安全だ。誰も入ってこない。怖いことはされない。


 扉の外で、カシャッとシャッター音が響いた。


 大丈夫。大丈夫。平気。大丈夫。


「もういいよ。出ておいで」


 さっきの剣幕がなかったかのように、ユナが優しい声を掛けてきた。このまま閉じこもっているわけにはいかない。


 もう一度大きく息を吸ってから、マキは個室から出た。


 廊下に出てからは、泣き声が漏れないように努めた。風邪の時のように、鼻をすするだけにする。間違っても嗚咽おえつなど漏らしてはいけない。そしてなるべく早く泣き止まなくては。


 学校から出るまでの間、そして学校を出てからも、ミツルは写真を撮り続けた。人目のあるところでは何もされないことがわかっているから、マキの心は平和だった。


 ようやく分かれ道まできた。


 マキは一刻も早くこの場から離れようと、体をそちらへ向けながら口を開いた。


「ま、また、明日っ」

「マキ」

「な、何?」


 どうか気が変わったんじゃありませんように、とマキは願った。帰して。お願い。このまま帰して。


「ミツルを撮って」

「アプリの説明に、に、人間は撮るなって……」


 カメラを使いたくなくて、マキは先ほど見た注意書きを言い訳にした。


 だが、アツシは許してはくれず、なおも撮れと言ってきた。


 諦めてマキはスマホを取り出した。被写体がミツルならいいやと思った。


 アプリが立ち上がり、ミツルにレンズを向けてすぐに、マキは撮影ボタンを押した。早く終わらせたかった。


 何の合図もなく撮ったことをミツルに責められて、マキははっとした。まずいことをした。アツシの機嫌を損ねてしまっただろうか。だが、いい写真が撮れていれば問題ないはずだ。


 暗転したスマホ画面をじっと見つめていると、ガードレールに片足を乗せたミツルのウエストに白いワンピースを着た女の腕が巻き付いた画像が現われた。ずいぶん怖い写真が撮れた。これならアツシも満足するだろう。


 すぐにチャットアプリで共有する。

 

「あ、あの、私、帰っても……いいか、な?」

「いいよ」


 アツシはあまり満足している様子はなかったが、とにかくマキは解放された。マキは逃げるようにしてその場を去った。




 夜、入浴中にチャットの着信通知が鳴った。マキはいつでも既読がつけられるよう、こうして風呂場にまでスマホを持ち込んでいる。完全防水に機種変するまではジップロックに入れていたが、今は裸のままでよくなった。


 頭を洗う手を止めて、チャットアプリを立ち上げる。話題はマキが帰った後のことのようだ。見当違いの反応をしてしまわないように、注意深く内容を追う。


『ミツル:いやー、にしてもあの事故はビビったなーwww』

『ミツル:急にキキーッてwww』

『ジュンコ:パトカーと救急車来てたもんね』

『ミツル:オレ目撃者としてテレビ出るのオッケーだったんだけどなー』

『ミツル:写真取っときゃSNSでバズったかも』

『ジュンコ:あんた目撃してないじゃん笑』

『ジュンコ:ユマは見てたんでしょ?』


 ポポポポッと連続していたメッセージがしばらく止まった。ユマはまだチャットに気づいていないのだろうか。マキは発言をしていないから、今の既読数がいくつなのかはわからない。


 マキがシャンプーの泡を流し終わり、湯船に浸かった時にまたメッセージが入った。


『ユマ:目撃っていうか、あの人がコケて車道に落ちたところはね』

『ミツル:マジ裏山。オレも見たかった』

『ジュンコ:でもさぁ、あの写真のあとに事故ってなんかやだよねぇ』

『ミツル:やめろよー。取ったのオレだぞwww』

『ジュンコ:あれでひかれてたらミツルのせい笑』

『ミツル:だからやめろってwww』

『アツシ:写真アップして』

『ミツル:あれ、アップしてなかったっけ?送る送る』


 少し間があいたあと、ミツルから画像が送られてきた。


「ひっ」


 マキは思わずスマホを遠ざけた。極度の怖がりではないとは言え、人並みに怖いものは怖い。


 画像は二の腕の途中から下の腕のかたまりだった。場所は学校から駅までの間の道で、形状からして人のようだ。手と思われるところからはリードが伸びていて、その端には犬が繋がっている。腕が密集していて被写体の性別も身なりも全く分からない。


 その腕たちは、まるでその人を横――車道へと引っ張ろうとしているように見えた。


 チャットの内容から察するに、この写真をミツルが撮った後、この人が転んで車道に落ち、危うくかれそうになったということなのだろう。どんな転び方をしたらガードレールを乗り越えてしまうのかはわからないが、そこまでは偶然としても、この後に轢かれてしまったら、まるでこのアプリのせいのように見えなくはない。


『ジュンコ:やっぱこれヤバ笑』

『ミツル:これだけでもバズるかなwww』

『ジュンコ:やめときな。見つかったらあのババアチクりそうじゃん』


 マキは反応するならここだろうと思って、メッセージを入れた。


『マキ:写真すごいね』


 一度に既読が四つついた。全員が見ていた。


 マキのメッセージに特に反応はなく、話題は今日放送されるドラマへと移っていった。それでいい。会話に入ったという事実が大事なのだ。


 時々メッセージで起こされながらも、マキはその日を無事に乗り越えることができた。

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