第44話

漫画を読みながら寝てしまったネムを抱っこし、ベッドに寝かせ、静かに部屋を出る。


「…………」


先ほどから、ある人物にしつこく誘われていた。仕方なく、ため息を吐きながら風呂場に行き、敷いていた足拭きマットを見つめる。その刺繍の模様が、魔方陣だと彼に言われて初めて気づいた。半信半疑でマットの上に立つ。


「これで…いいのか?」


今も頭の中に響く声に従う。


足拭きマットから放たれた青白い光に全身を包まれる。メガネをかけた真面目そうな親指サイズの極小ゴブリンが、突然目の前に現れた。


「何階でしょうか?」


どうやら、エレベーターゴブリンらしい。


「100階をお願い」


「…………マスターの許可を確認しました。これより、100階まで移動。移動時間は」


チリンッ!


風鈴のような乾いた音。


「一秒です」



地上100階。魔方陣から出ると目の前に赤い大扉があり、それが音もなく開いた。目の前に広がるバー。骸骨バンドの生演奏。緩やかな大人の雰囲気が、部屋全体に漂っていた。


目的の場所。僕はある男に呼ばれ、ここに来た。バーカウンターで今も彫刻のように微動だにせず、僕を待つ男。その隣に座る。右目に眼帯をした女性バーテンダーが、シェーカーを振っていた。


「良い場所だなぁ。気に入ったよ」


「やっと会えたね。前田 正義くん」


こっちを見ようともせず、正面の壁に話しかける優男。ユラ。今まで対戦したクソ野郎とは、何かが違う。


このフロアの王は、ニコニコ微笑んでいた。男のくせに、とっても良い香り。


「どうして呼んだ? それと僕は、未成年だから」


目の前のガラステーブルにそっと置かれるリンゴジュース。


「お酒は飲めないよね。僕も飲めないから、いつもコレさ」


ユラは、細いグラスで牛乳らしき液体をゆっくりと飲んでいた。


「勝手に思考を読むな……。プライバシー、大事だぜ」



「ハハ。そうだね。ごめんごめん。正義くんを呼んだのは、ただ単に君に興味があったからだよ。あの日から、随分経つのになかなかココまで来ないから、焦れったくなってさ」


『あの日』とは、ネムと鮎貝、二人の誘拐事件があった日のことだろう。


「僕は、別に会いたくなかったよ……。面倒な事に巻き込まれるのは嫌だし」



「う~ん……正義くんは、不思議なことを言うんだね。面倒な事に自ら首を突っ込んでるのは、君の方でしょ?」


「………………」


「突然、獣化する猫耳女の世話に、不幸を呼ぶ運なし女の保護。これ以上、面倒な事ってある?」


「………だまれ」


「女なら、いくらでも紹介するのになぁ。選び放題だよ?」


「黙れって言葉が、理解出来ないのか?」


バーテンダーはうずくまり、雨に濡れた子犬のように震えている。


「僕は、君を心配してるんだよ。君自身がさ、大変な状況なのに、他人の世話なんかしてる場合じゃないって。馬鹿げてるよ」


席を立つ。この不快な気持ちが爆発する前に、この場からーーー。


「また逃げる? 運の量だけなら僕と大差ないのに。なんでいつも、あの程度の雑魚に苦戦するのか………。可愛い彼女らは騙せても僕は騙せないよ? それは、君が自分の運のほとんどを消費して、病気の進行を阻止してるからだよね。今、この瞬間もーーー」


扉を開けて、魔方陣の上に乗る。


「なん、」


「一階だっ!! 早くしろ」


扉が閉まる瞬間、頭にユラの言葉が響いた。


『前田君。キミ……とっても哀れだよ……』

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