第42話

百年前ーーー。


突然、この世界に黒い風を全身に纏った謎の男が現れた。風が邪魔して、男の素顔を拝むことは出来ない。


彼は、歪なタワーを無言で見つめると片手で20人の『ヴァルカン』を惨殺し、タワー内部に侵入した。


ーーーー数時間後。



彼は、最上階のマスターを窓から突き落とした。その後すぐ、彼は黒い風の一部を体から剥がし、それを世に放つ。黒い風は空を覆い、凄まじい速さでこの町だけでなく世界中を襲った。


「なんだ……アレは………?」


黒い風がどこからともなく、まるで悪魔の吐息のように静かに吹いてきた。月や星の輝きが、その黒い風によって一瞬でかき消され、世界は闇に包まれた。普通の風と違うのは、夜を溶かしたような、その色だけではない。




【黒い風は、運のない人間を殺す】




その風を少しでも吸い込んだ人々は、すぐに己の運を計られ、選別。運がない者は、蝋人形のように体が固まり、心停止を起こし死んでしまった。ただ、この黒い風の影響を受けているのは人間だけらしく、動物の被害は皆無だった。



すぐに死んだ人間が道路を埋め尽くし、怪鳥や獣の餌になった。



町中至る所で黒煙と真っ赤な炎が、空まで焼き尽くす勢いで燃え盛っていた。夥しい数の人間が焼ける臭い。それは、言葉では形容出来ない臭さだっただろう。そんな地獄絵図とは違い、窓を閉め建物の中にいた人々は、全員無事だった。窓から外の惨状を見ていた人々の悲鳴が、建物の中で木霊し、外は異様に静かだった。それが一層不気味さを際立たせた。




黒い風が止むまでの数十分で、世界の人口は五十八パーセントも減少した。新手のテロ説が浮上したこともあったが、すぐにその話題は人々の記憶から消えていった。口にはしないが、あれが魔界の者の仕業だと誰の目にも明らかだったから。



黒い風は、その後も何度となく世界を襲った。彼を倒そうとする勇敢なフロアマスターも現れず、長年、彼はタワーの最上階に君臨する絶対神となった。



それから、百年後ーーー。


下層地区に『運』が見える男が、転生してきた。この世界を壊す為に。自分をこの座から引きずり下ろす可能性を持つ男の登場。


初めて、タワーの神が笑ったことは誰も知らない。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「はぁ………なんかやる気…出ないなぁ」


「ふぁあぁ~……眠いよぉ」


僕の横で眠たそうに目を擦っているネム。夜遊びをし過ぎたのか、僕以上にしんどそうな顔をしていた。二人揃って、まるで覇気がない。



「また寝不足? いい加減、体壊すぞ。ってか、そんな遅くまで何してるの?」


「………そんなに私が心配ならさ、一緒に住もうよ」


「い・や・だ。毎晩、寝ている間にキスマークつけられたんじゃ、恥ずかしくて外歩けないし」


「っもう! 照れ屋さんなんだから。…………でも、好き」



僕が生きていく為の最低限の労働。不定期バイト。その昼休み。僕は、廃ビルの屋上でしばしの休憩を満喫していた。錆びたフェンスに寄りかかりながら揚げパンを頬張る。揚げパンは、人気が高く即売り切れてしまう。今日は、運が良かった。…………貯めていた運を使うズルをしたことは、内緒だ。


いつの間にか、ネムはフラッとどこかへ行ってしまった。もしかしたら、今日はもう僕の前には現れないかもしれない。



ネムは、誰にも縛られず、自分勝手に行動し、自由を謳歌している。僕は、彼女のそういう所を羨ましいとさえ思っていた。僕にないものをネムはたくさん持っている。




ヴゥゥーーーーーーーー!!



ヴゥーーーーーーーーー!!




「っ!?」




空が震えるサイレンの音。町中に設置されている防災無線塔の巨大スピーカーから警報を知らせるサイレンが鳴り響いている。


ネムから聞いて最近知った、黒い風の存在。その風がやって来る合図だ。市民の間では、『悪魔の囁き』とも呼んでいる。


サイレンが鳴ってから『黒い風』がやってくるまで一分弱しかない。逃げてもいいけど、パンを食べてる途中だし………。


動くのも面倒だ。



パンを頬張った状態でフェンスの外を眺める。そろそろサイレンから一分が経過。さっきまで穏やかに鳴いていた鮮やかな鳥が、逃げるように飛び去った。外を出歩いていた人々も既に簡易マスクを装着済みで、かくれんぼをしているかのように息を潜めていた。僕も黒い風を何度となく体験してきたが、未だに慣れない。緊張で手先が震えた。




 来たっ!!




山の向こうから、夜より深い闇がやってきた。その闇は、町を飲み込もうとまるで生き物のように左右に広がり、襲ってくる。音がないので、余計にその速さが分かる。屋上にも闇が覆い被さってきた。




「…………………」




無音。




今、黒い風の中に僕はいる。

十月も後半だと言うのに、この風の中は妙に生暖かい。自分の足元を見るが、暗くて何も見えなかった。宙に浮いているような感覚。




黒い風。




これは、一体何なのだろう。その答えは、専門家ですらまだ出ていない。僕は、無宗教だから本気で神様なんて信じているわけじゃないけど、これは人間に対する罰じゃないかな。実際、この黒い風の影響を受けるのは、人間だけで周りの動物たちには無害だし。神様が、僕たち人間を皆殺しにして地球を浄化しようとしているのかもしれない。




「まさかね~」




 突然、光が目の前に溢れた。眩しくて、しばらく目を開けられなかった。黒い風が消えた。


黒い風に体を犯される感覚にも慣れた。僕は体内に運を貯蓄している為、黒い風を吸い込んだとしても、まず死ぬことはない。



黒い風は、現れる時も消える時も突然。悪夢を見ているかのようだ。毎回長さは違うが、平均して三十秒ほどで黒い風は、消える。



多いときは、一日に三回。少ない時は、月に数回程度黒い風はやってくる。


昼休みも残りわずか。マスクを持って屋上と四階とを繋ぐ鉄扉に手をかけた。




「お前、前田 正義だろ?」




「っ!?」




背後から声がした。反射的に振り返る。そこには、髪の長い女が立っていた。


今までどこに隠れていたんだろう。そんな疑問の答えが出るより早く、また女は僕に話しかけた。




「言葉分かるよな、お前。前田 正義かって聞いてんだけど」



言葉遣いは悪いが、小さな顔にお人形のような大きい目。二重で可愛いかった。




「そうだけど。今までどこにいたの、君」




「そんなつまらない質問に答えるほど僕は暇じゃない。そんなことより……」




 女の子は、ズンズンと近づいてくる。あまりにも近くまで来るので、後ずさった。




なんなんだ? この子。




「どうして逃げる。僕が嫌いか?」




いや、嫌いとかそういう問題じゃないんだけど。


なんだ、なにする気だ?


頭が混乱する。昼休み終了の鐘が鳴った。




「ほ、ほら、昼休み終わっちゃったし。そろそろ戻らないと」




 僕は、女の子がこれ以上接近出来ないように人差し指で鉄扉がある方向を指差した。瞬きする回数が、増える。動揺が、全身から漏れ出ているのが自分でも分かった。


しかし、それを無視して、さらに僕に近づく女の子。揺れる大きな紫色のリボン。



「あのさ、あの……えっ……と」




「黙って。悪いようにはしないから」




言葉がまとまらない。女性とここまで至近距離になったのは、小学生以来だ。お互いの息がかかるぐらいの距離。心臓の音を聞かれるのではないかと心配になった。


 彼女の綺麗な目に見つめられ、僕は自分でも分かるぐらいに顔に熱が集中しているのを感じていた。生唾を何度も飲み込む。




「前から、お前を確認したかった。よしっ! 確かに『新人類』だな」




新人類?  


なんの話だ。漫画の話かな。




「キスしろ。僕と」




 キス? あれ、キスってなんだっけ。確か、そんな魚がいたような。食べたことないけど。


女の子は、必死に背伸びをして顔を僕に近づけた。目と口を両方閉じている。




えっ……と、キスってそのキス?


嘘だろ、嘘に決まってる。この子は、僕をからかっているんだ。もしかしたら、まだこの屋上には誰かが潜んでいて、僕のことを今も笑って見ているかもしれない。




いや、そうに決まってる!




「あのさ、僕だってそこまでバカじゃない。こんなのありえない。急に君みたいな可愛い子とそんな、キ、キ、キスなんて出来る状況、あるわけない」




 自分でも呆れるぐらいに動揺している。女の子は、目を開け、そっと呟いた。




「信じられないのか?」




 そんな涙目で見つめられてもダメだ。演技に決まってる。僕を試しているんだ、きっと。




「信じられるわけないだろ。今さっき会ったばっかりなのに。もう行くよ」




 百八十度回転し、再び扉に手をかけた。もう振り返るつもりはない。




「そうか……残念だ。………えいっ!」




 女の子は、一歩後ろに下がり、そして思い切り僕の股間を蹴り上げた。直接見なくても、この激痛で何をしたのか分かった。


なんの躊躇もない急所攻撃。




「うっ……………」




それ以上声が出ない。両膝を地面についた。




なっ、なんで! なんでだよ、くそっ。突然やってきた強烈な痛みに頭が真っ白になった。




「く…そぉ……僕が、何したっていうんだ。ぃててて」




この女、頭どうかしてる。僕は、その場に蹲り、必死に痛みに耐えた。




「素直にならないお前が悪い。僕だってこんなことはしたくなかった。僕は、背が低いからこうするしかないんだ。許せ」




女の子は、ゆっくり腰を折り、コンクリの床でまだジタバタしている僕の顔をその両手でそっと持ち上げ。




そしてーーーー




キスをした。




「っ……」




「!!!!!!?」




その瞬間だけ、痛みとかそういう余計なものを全て忘れることが出来た。柔らかくて、ほんのり甘い匂いがして。僕の初めてのキス。今まで空っぽだった心の壷に、ジャバジャバと何かが満たされていく感じがした。




「これが、キスか。初めてしたが、なかなかいいもんだ。今、はっきりと確認した。お前は、新人類で間違いない。唾液がそう語っている。やはり、お前がこの世界の救世主………」


「…………なんて?」


女の子は、まだ床でどうしたもんかと悩んでいる僕を放置して、さっさと扉を開けて出て行ってしまった。


 女の子は消えても、しばらくその場から動けなかった。痛みはもう消えていたが、気持ちの整理がなかなか出来なくて、立ち尽くしていた。                   


 結局、午後のバイトを全てサボった僕は、夕方まで屋上で過ごし、あの女の子のことをずっと考えていた。




そういえば、名前聞いてなかったな。また、会えるだろうか。まぁ同じ下層エリアにいるし、会える可能性は高い。今さっき自分の身に起きたことを考えると興奮して落ちつかない。


もしかして、これが一目惚れと言うやつか。屋上は寒かったが、心はいつまでもポカポカ温かかった。




終業時間になり、僕は正面玄関で靴を履き替えていた。その時、親しみのある声が僕の名を呼んだ。猫娘のネムだ。



「ダーリン! なんで午後の仕事サボったの? 怒ってたよ、工場長さん。私が言い訳しといたから大丈夫だけどさ」



「ありがとう。………ダルかったから休んでただけ。うん。ただ、それだけ」




立ち上がり、カバンを持った。




「ちょ、ちょっと待って! 私も今日はバイトないの。一緒に帰ろうよ」




 そう言うと急いで階段を上がっていった。仕方ないので、しばらく正面玄関で待つことにする。知らない作業員にジロジロ見られた。ほどけていない靴紐を締めなおしたりして、この居心地の悪い時間を何とか消化した。




「お待たせ。じゃあ、行こっか」




「うん……」




 本当にバイトないのかな。まぁ、休みたい時ぐらいあるだろうけど。




「どうしたの?」




「なんでもないよ。これから、どうする? 甘いモノでも食べて帰ろうか」




「私、焼きそばの方がいいなぁ。ダメ?」




 上目遣いで僕を見る。最近、ネムは女の色気が出てきた。その成長に正直僕は戸惑っている。



工事エリアを抜け、地獄坂を下りると、僕たちの前に左右に分かれる道が現れた。左に行くと僕たちの家がある住宅街があり、右に行くと商店街がある。僕たちは、迷わず右に曲がった。


さまざまな匂いに惑わされながら、屋台で焼きそばを2つ買った。町の中央。噴水広場の長椅子に腰掛け、二人で食べる。


周りには、僕たちはどう映っているんだろう。



「美味しそうだね。なんか……デートみたいだ……。ふふん」


上機嫌のネム。



「そういえば、また吹いたね。昼休みの時。その時、屋上にいたんだけど久しぶりに風の中を体験したよ。まぁ、前と変わらずメチャクチャ気持ち悪かったけど」



「ふ~ん。私は、建物の中にいたからあまり気にならなかったなぁ」




建物の中にまで入ってくることはない黒い風。そこにいる限り、結界の中みたいな感じで何もしなくても安全だ。




あの風は、まるで目があるように周囲の景色を判断している。生き物のようで、本当に不気味な風だ。                    


「たまに食べると焼きそばも美味しいね。最近調子はどう? 例の発作は、大丈夫? あの薬は、ちゃんと飲んでね」



「うん……。大丈夫だよ。ありがとう、ダーリン」




どうしたんだ?


なんだか元気がない。




「どうした? なんか悩んでるの」



「ありがとう……。大丈夫だよ。今は、考えなきゃいけないことが多くて……。凄く大事なこと」



「その尻尾の使い道?」



「アホか……。そうじゃない」




 じゃあ、なんだろう。僕は、あまり使っていない新品同様の脳みそを働かせて考えた。




「…………」




何も浮かばない。ダメだ、この脳。




「フフ。ダーリンって、ほんと面白いなぁ。悩んでる顔、なんだか変だし」




「変……かなぁ。なんだかショックだ。はぁ、そろそろ帰ろうか。暗くなってきたし」




「ダーリン」




「うん?」




 二人の間に妙な間が生まれる。見つめ合う僕とネム。少し潤んだ瞳。初めて見るネムの表情に、僕は動揺した。周りの話し声や雑音が萎んでいく。




「新人類って知ってる?」




席を立ち上がった僕の動きが、金縛りにあったように強制的に止まった。一瞬、息をすることさえ忘れた。




 新人類。




あの髪の長い女の子も同じことを言っていた。漫画の中に出てくるような単語で、現実味のない言葉。もしかしたら、今この言葉は流行っているのかな。知らないのは、僕だけなのか。




「き、聞いたことはあるけど……それがどうかしたの?」




「そう。知ってるんだ、この言葉。じゃあ、もうあの人に会ったんだね。ダーリンも私と同じ新人類。フフ、そっか。なんとなくそんな気はしてたんだ。やっぱり、そうなんだ。ダーリンも」



ネムは、何を言っているんだ?


僕の中で何かが警鐘を鳴らす。




これ以上足を踏み入れるな! って叫んでる。




それでも、僕はーーーー。




「あのさ、新人類って何? ネムと僕が同じって……。正直、まだなんにも分からないんだよ。ちゃんと説明してくれ。今日、屋上で変な女の子に会ってさ、新人類って言われたけど。正直何のことかさっぱりだし」




 少しイラついていた。自分だけ除け者にされている気分。




「あそこに行こうか。そこで全部話すよ」




二人だけの秘密の場所。壊れた教会に行くまでの間、僕たちはお互い口を開かなかった。僕の少し前を歩いているネム。肩まで伸びた髪が、無邪気に僕の前で踊っていた。



「……」



「……………」




その道のりが、酷く苦痛で長く感じられた。「帰ろうよ」って言葉が、喉の奥に溜まっていく。


ネムは今、何を考えているんだろう。



この場所は、危険物も多くて、滅多に訪問者は来ない。やはり、今日も僕たち以外には誰もいなかった。冷たい夜風が、容赦なく吹きつける。完全に日の落ちた今の時間は、かなり寒い。




「寒いね。ごめんね、こんな場所まで連れてきて」




 申し訳なさそうに頭を下げた。その姿を見て、僕は少し安心した。ネムが変わってしまったと感じたのは、僕の勘違いかもしれない。




「いや、そんなことは別にいいんだけど。この場所じゃなきゃダメなの?」




「ダメなのっ! この場所じゃないと」




 僕の言葉を完全に拒否する一言。




僕は諦めて、周囲を見渡した。夜空には、一番星がキラキラと主張している。この寒さで、風邪を引くのも馬鹿らしい。




ヴゥーーーーーーー!!



ヴゥーーーーーーーーーー!!




大ボリュームの機械音が夜空に鳴り響く。空気が震えた。




「またか……」



屋上にいた時は、まだ太陽が出ていたので黒い風の接近が良く分かった。しかし、今は夜。この状態だと黒い風が近づいてきても気付くのに時間がかかる。昼間に比べ、夜のほうがかなり危険だ。



ネムは、ただ突っ立っているだけで何もしない。それなのに、一向に慌てる素振りを見せない。



なにしてんだよ、いったい!


もう時間がないって言うのに。



「早く逃げるぞ。建物の中に非難しよう。さっ! 早く」




半ば強引にネムの左手を掴んだ。まだ頑なにその場から動こうとしない。ネムは僕の手を振り解き、逃げるように距離をとった。




なんで? 



ほんと、どうしたんだよ。




「……………死ぬんだぞ。分かってるのか? ネムの今の運じゃ……助からない」




「私は死なないよ」




 あと三歩前に出れば、ネムの体に触れられる距離にいるのに。この二人の距離が、果てしなく遠く感じた。




ヴウゥーーーーーーーーー、

ヴウゥーーーーーーーー




ヴウゥーーーーーーーーー、

ヴウゥーーーーーーーー




「どうして……」




左目から自然と涙が溢れてきた。

    


もう、間に合わない。ネムが、死ぬ。



「ネム……。頼むから。僕の言うことを聞いてよ。お願いだからさ」                 


僕は、ネムの前で跪いた。カッコ悪いとかそんな感情は微塵もなかった。ただただこの友達を失いたくなかった。



 大切な人間を失う恐怖の大きさ。母さんが死んだ時と同じ恐怖が僕を襲っていた。




「今に分かるよ。これが、」




もう、大切な人を失うのは嫌なんだ。




ネムがまだ何か喋っている。でも僕の耳には何も聞こえなかった。ネムの手を握り、自分の運をすべて移した。前世で、鮎貝を助ける為に同じようなことをしたことを思い出す。


まぁ、今度はトラックではなく、黒い風だが………。


僕は、また死ぬだろう。


今度、『もし』があるなら、こんな狂った世界じゃなく普通の異世界に転生したい。強く希望する。


「………ネム」


死んだ場合、もう二度とネムには会えない。正直、その事の方が死ぬよりツラい。


ゆっくり、ネムを抱き締める。柔らかい髪が、僕の指の間をスルスルと抜けていく。可愛い唇に優しくキスをした。


「っ!?」


ネムは、驚いたように目を丸くして僕を見ていた。絶滅していたはずの動物が、実はまだ生きていた。そんな生き残りを目の当たりにしている人間のように。




「ダーリン……」




これでいい。これでいいんだ。


この地獄で今まで生きてこれたのは、僕に運があったからじゃない。ネムが側にいたからだ。明るくて優しい彼女がいたから。だから、僕は絶望せずに前だけを見て歩くことが出来た。




「さようなら、ネム。今までありがとう」




風の気配がした。さっきまで周囲に流れていた夜風ではない。生暖かい風が、僕の体を包み込んでいく。黒に侵食されるこの体。でも、何故か恐怖はあまり感じなかった。



音が消え、目の前が真っ暗になる。ネムの姿も見えなくなった。


…………。


……………………。


死ーーーーーーー




あぁ……。


なんか首の辺りが柔らかくて温かい。もしかしたら、天国かな?

地獄でないことに、とりあえず安堵。




恐る恐る目を開けた。最初に見えたのは、キラキラ輝く光度の違う星々。次に大きな三日月。




ここって……教会……。あれ? 




なんで、まだ僕は生きているんだ? 確かに僕は黒い風の中にいた。あの風の中を運なしで生きていられるはずがない。


さっき見たのは、幻?


いやっ、違う。幻なんかじゃない!


あの凄く嫌な感じ。あれは、リアルな黒い風だった。なら、どうして僕はまだ生きているんだ。




「目覚ました? いきなり倒れて気絶しちゃうんだもん。心配しちゃった」



聞き覚えのある声が、僕の背後……というか、すぐ近くから聞こえた。ようやく僕は、今の自分の状況を把握した。




「いい夜空だね~。気持ちいい」


ネムに膝枕されていた。


僕の体は、床に仰向けに横たわっていて、頭だけがネムの太股の上に乗っている状態。今までに感じたことのない柔らかさと良い匂いが、首から脳へと伝播する。この状況に軽く眩暈がした。




「あっ! えっ……と、その。ごめん、すぐどくから」




 僕は、急いで体を動かそうと全身に力を籠めた。が、僕の両肩をネムの腕がしっかりと掴んでおり、全然上体を動かせなかった。女子とは思えない力。それとも、ただ単に僕が非力なだけか。ジタバタと足だけが情けなく動いていた。




「ネム……。僕、まだ生きてるみたいなんだけど、どうしてかな」




 間抜けな質問。




動くことを諦め、最大の疑問をネムに投げかけた。




「ダーリンが、新人類だからだよ」



また、新人類か。この単語を聞くのは、もう何度目かな。新人類ってなんだ? いったい。


 

ようやくネムは、静かに語り出した。




「新人類って言うのはね、黒い風に体が適応できる人間を指す言葉なんだよ。運のあるなしじゃなくてね。黒い風の中でも死なない人間。ちなみに私も新人類なんだよ~。ダーリンと一緒。でもまぁ、私がそれを知ったのもついこの間なんだけどね」




黒い風の中でも死なない? 


運の有無で、人間を選別していたんじゃないのか?




意味が分からない。僕が、バカだからだろうけど……。でも実際、運を持たない僕が今こうして生きているのが何よりの証拠。それにネムは、こんなつまらない嘘は言わない。さっき逃げようとしなかったのもネムが、新人類だからか。


教会に僕を連れ出したのは、黒い風の中でも生きられることを僕の目の前で実際に証明する為だったに違いない。話だけじゃこんな、ぶっ飛んだ話。新人類の存在なんて到底信じることは出来なかった。




 ネムも僕も『新人類』




これからは、黒い風に怯えて暮らすことが完全になくなる。それは、少し嬉しいけど。




「僕たちみたいな新人類ってまだいるの?」




「うん。まだまだいるよ。人数はかなり少ないけどね。みんな、自分が新人類だってことを隠して暮らしてる」




隠して暮らしてる?




なんで隠す必要があるんだ。まぁ、確かに世間様には騒がれるかもしれないけど。でも、もしかしたら僕たちの体を調べれば、黒い風に耐える何か、秘密が暴けるかもしれない。それさえ分かれば近い将来、黒い風の特効薬が出来るかもしれない。もう黒い風に怯えて暮らすこともなくなる。世界が救われる。



「ダーリンの考えていることは分かるよ。私達の体を調べれば、黒い風に対抗できる何か特別な物を発見出来るかもしれない。それによって、多くの人が助かるかもしれない。でもね」



ネムは、僕の頭を優しく持って起こした。さっきまで気絶していたせいか、立ち上がると少し吐き気がした。数回頭を振る。やっぱり気持ちが悪い。




「もし、新人類ってことが誰かにバレたら……私達は、殺されてしまうの。もう既に私の知っている人も五人以上殺されてる。警備兵に協力を求めたこともあったみたいだけど、その人たちも皆殺された。新人類だけじゃなく、それに関わった全ての人が殺されたの。親やその友達もね」



「嘘だ……」



映画じゃあるまいし。そんな簡単に人を殺すなんてありえない。



警備兵ですら、僕たちを守ることが出来ないなんて。そんなバカな話あるわけない。僕たちの存在は、この世界を救う希望のはず。



殺すメリットなんてない!




「誰が僕たちを殺すって言うんだよ! そんなことあるわけない。今から警察に行こう。そこで粘り強く話したら分かってくれる。僕たちを守ってくれるよ。そんなワケの分からない殺人者から僕たちを」



「そんなことしても無駄なのっ! 分かってよ……。もう過去に何回もそんなことしてる。でもね、その度にその人は信じられない拷問を受けて、ゴミのように殺された。世界中……ありとあらゆる場所に私たちを狙ってる組織のメンバーが紛れ込んでる。もう私達を救える人はいない。殺された人の写真見る? どうやって殺されたか。この世の地獄だよ」



ネムは、胸ポケットから綺麗に四つ折りにされた写真を一枚取り出した。それを僕にスっと差し出す。僕は、その写真を震える左手で受け取った。写真は、手の中でカサカサと羽虫のような音を立てている。ゆっくりと写真を広げた。




牢屋のような場所……その中央で。




「っ!!!」




写真を投げ捨て、フェンスまで走った。どうしても、これが現実だと認めたくなかった。




「分かった? 私達のこれが末路よ。地獄でしょ?」 




嘘だ。


嘘だ。


嘘だ……。


嘘だ……ろ?




こんなの現実じゃない! 


こんなのって……。




「もう私達に残された道は、新人類ってことを隠して、静かに暮らしていくしかないの」




写真の中の人間は、確かに拷問を受けて殺されていた。




両方の耳を削ぎ落とされ、目玉を卵の黄身のようにグチャグチャに潰された人間が写真中央で倒れて死んでいた。口からは、見たこともない夥しい量の血を吐いていた。コンクリの床には、その人間の血にまみれた爪が何枚も落ちている。合成ではないことは素人の僕でも分かった。




「……はぁ……ぁ」




震えが止まらない。今まで感じたことのない悪寒が、ナメクジのように全身を這い回っている。顔を上げていないと今にも吐きそうだった。


夜空を見上げ、この悪夢から早く覚めるように必死に願った。




眼前の景色が、歪んで見える。ビルも家も商店街も学校も……ドロドロと溶けていく。どうして、こんなことに。新人類だと誰かにばれたら、僕も写真の中の男のように殺されるかもしれない。




はぁ………はぁ……はぁ…。




「ごめんね。やっぱり見せるべきじゃなかった。ごめんなさい」




 いつの間にか、僕の隣には同じようにこの町を眺めているネムの姿があった。




……恐いよ。恐くて恐くて堪らない。




助けて。




「新人類については、私も調査を進めているから……。何か分かったら、一番最初にダーリンに教えるね」



背伸びをして僕の頭を撫でる。何度も僕の頭を往復する温かい手。次第に気持ちが落ち着いてきた。僕の首を締め上げていた黒い死神が、逃げていくようだった。




「もう大丈夫……。ありがとう」




「ほんと? まだ震えてるけど。雨に濡れた子犬みたいだよ」




 意地悪い笑顔で僕の顔を見ているネム。その顔を見て、僕は正気を取り戻していた。ネムにまた助けられた。




「大丈夫。そんなにガキじゃないし。はぁ……正直、驚きの連続だよ。でもさ、新人類ってことを隠していれば問題ないわけだしね。まぁ黒い風が吹いた時には、不必要でも逃げる振りとかはしたほうがいいと思うけど。誰に見られているか分からないしさ」



僕は、大きく息を吸った。冷気が肺を満たす。濁った空気を思い切り夜空に吐き出した。




「それとさ……。ネム。頼むから、もう黒い風について、首を突っ込まないでくれ。危険過ぎるよ。新人類については気になるけど、それとは別で。ネムを失いたくないから。だから、頼む」



「もう一度……キスしてくれたら…考え直す……」



①ネムが、発作を起こして獣になること。

②黒い風に適応できる新人類なるものの存在。


これは、僕とネム。二人だけの秘密だ。



そういえば、もうすぐあの季節。

あの狂ったタワーから、使者が降りて来て、僕達の運を試す。


【運試しジャンケン】がある。



「ダーリン? お布団の準備出来たから、こっちおいで」


「な、なな、なんで、全裸なんだよ! 服を着ろ」


「フフン。何分もつかなぁ……そのショボい理性」


「……………」


嫌な予感が、今からビンビンする。

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