2021/12/19

Night20:死人のためのカイエ

 瞳の奥から、水の音が聞こえる。


「航くん。プリン食べるかい」

 ベッドの脇から、キャラメリゼされたような、暗く甘い声が耳朶の奥に爛れた。

 寝ているおれの脇には、スーツを纏った夜嘴さんが身体を横たえている。


 水族館での戦いから二週間ほどが経ち、おれは夜嘴さんのものとなった。

 彼女がおれに望んだことは、たったのそれだけだった。

 尾武とは連絡を絶っていた。もう、あいつを巻き込むことはできない。


『確実に追い込んでしまえば、きみほど人質が有効な奴もいないだろうね。正義の味方というのは中々に面倒と見える』


 彼女の言う通り、おれが逃げたら真っ先に尾武やおれの父は殺されるだろう。

 夜嘴さんの『巻き戻し』を掻い潜って彼らを救出できるとは思えなかった。

 夜嘴さんに蹴り殺された佐備沼さんの呻きが、たまに聞こえる時がある。

 もう、何もかもどうでもいい。先輩はどこにもいないのだ。

 おれの心は凍てついているようだった。

 何事にも喜びを感じ取れず、眠れもしない。


 夜嘴さんは水族館からおれを車で『凪浜なぎはまグラフ』の社屋に連れ帰り、そしてある一つの命令を下した。


「これからきみはずっと、私の傍にいるんだ。いいね」


 何故かは解らないが、無記課の人々はおれたちを追ってこなかった。

 それからはずっと、〈超能力〉に関わる前のような、平穏な日々が続いた。

 彼女の言葉どおり、おれは『凪浜グラフ』の事務所で生活し、料理を作り、彼女の表向きの仕事、つまり出版社の業務を手伝う。夜は一緒に映画を見て、一緒のベッドで眠る。暖かい布団のなかで、彼女はおれにたくさんのキスを施す。


 一週間ほど前、夜嘴さんは一度だけ、下着とバスタオルを纏ったままソファに腰かけていた。シャワーを浴び終えたおれをみとめると、こちらへひょいと近付いて来た。そのまま煙草を指に挟み、おれを抱き寄せ、耳をあまく噛んだ。

 おれは強いおそれに打ちのめされ、夜嘴さんを引き離そうとしたが、彼女は体ごとぶらさがるようにおれを引っ張る。おれたちは不格好なワルツを踊るようにふらつき、抱き合ってベッドに倒れ込んだ。

 彼女が持ったままの煙草の火が、背中にじゅうと焼き付く。

 おれは小さくうめき声を上げた。夜嘴さんがくすりと笑った。

「私の傷だ」

 再び彼女は、おれの耳の外縁を口に含む。ねぶって甘やかし、粗雑に刺激を与え、不意をつくように首筋を撫でる。思い付きで頬や瞼に口づけを掠めたかと思えば、迷った子供のようにおれをきつく抱き締める。

「私とするかい?」

 ソファに凭れ、おれを抱えたまま夜嘴さんは訊いた。

 おれは首を横に振った。彼女のしろく骨ばった手と、先輩のしなやかで少しだけ日に焼けた手の触りの違いがずっと頭に焼き付いていた。彼女の傷よりも強く。

 そういうことは、まだ覚えていられた。


 夜嘴さんは目を細めて、「そう」と言ったきり何も返さなかった。

 眼鏡を外し、おれの鼻の頭にキスをして、一人でベッドに向かっていった。

 彼女の噛み跡は重たるく甘いバニラの匂いがする。

 おれは先輩の香りを思い出そうとしたが、不可能だった。

 枯れた井戸をいくら掘り返しても水が湧き出ることのないように、彼女との思い出はおれとの繋がりを失っていた。もう、壊れているのだ。

 その日はソファに座り込んで、適当な映画を夜通しみて時間を潰した。

 どうせおれは眠れなくなっていたし、それに――彼女と同じベッドに潜ってしまえば、今度こそ夜から戻れない気がした。


 おれたちがからだを交えることはなかった。

 夜嘴さんはその日以降もおれに度々スキンシップを求めて来たが、最後の一線だけは頑なにおれへと意志を預けていた。たぶん彼女も、おれから正常な欲望はとうに失われていると解っていたのだろう。妙な話だが、常通り下品なジョークを飛ばしてくることと、やたら諧謔的な物言いをすることを除いては、彼女はおれに対してひどく親切で面倒見がよかった。だからおれの周りの大切な人がすべて壊れたことを除けば、平穏な日々が戻って来たみたいだった。悪友みたいな夜嘴さんとの日々が。


 夜嘴さんはときどき、寝言で知らない男の人の名前を呼ぶ。

 おれはそれを、同じ布団の中で、彼女に抱き締められながら聞いている。

 彼女の目尻には、一筋涙が浮かぶ。おれはそれを拭う。

 朝方になって、インスタントコーヒー(※彼女は時間を『巻き戻して』いつもフレークを一杯にしている)を淹れながらそのことを伝えてみると、

 夜嘴さんはふいにうつむいて笑った。

 陽光が生気のない美貌へさらに影を彫り刻む。

「誰なのか聞いてもいいんだぜ。きみ、私に踏み込まないから、こんなことになったんじゃないか」

「別に構いません。夜嘴さんが話したくなったら話せばいい」

「また、お得意の何も壊したくないってやつかい?」

「だって凄く悲しそうでした。無理に聞くのは良くない」

「きみは」

 夜嘴さんはかたんとコーヒーカップを置き、

「……ほんとに優しいな」

 肌着の上から、おれが糊を効かせたワイシャツを羽織った。

「弟がいたって、むかし話しただろう」

「はい」

「死んだんだ。溺死だった」

 彼女の手の中で、あたらしい煙草のケースがぱりっと封切られる。

 夜嘴さんはその中の一本を手に取り、ゆっくりと火を灯した。

 彼女のスーツはBerberryのセットアップで、煙草は新品のピース1カートン。

 インテリアは品が良いけど無機質で、インスタントコーヒーは常に満タンだ。

「その時から、私の時間は止まっている」

 かちり。部屋の時計の音がやけに大きく聞こえる。

「ところで、きみの母親も溺死だったね。その理由はどうして?」

 おれは、その問いに答えることができなかった。

 喉元に冷たく思い氷が嵌め込まれているみたいに、息が出来ない。

「ちなみに、私ときみの出会いは思い出せるかい」


 夜嘴さんの声が、歯車のようなおれを動かす。

 そうだ。思い出した……思い出していた。

 あの時も、この事務所で、おれは夜嘴さんとの出会いを思い返していた。

 おれと夜嘴さんの出会いは、大学一年の冬。

 酔っぱらって川で溺れているこの人を助けて、掴んだ手首の細さと冷たさを思い出した。あの時から彼女はずっと死にたそうな顔をしていた。


「ちなみにあの時酔っぱらって川で溺れてたのは、わざとだぜ」

 夜嘴さんは立ち上がり、熱帯魚が泳いでいる丸い水槽の方へと歩いて行った。

 もう何も聞きたくなかったが、それ以上に、もう一人の――“自動的に”人を助けるおれが、その耳を塞ぐことを拒んでいた。

「私の弟は、きみに似てたんだ。すごく似てた……例えその身が泥の塊になり果てようとも、何一つ穢さずにいるような魂の持ち主だった。放蕩娘だった私にもたいそう優しくてね。家族はみな、彼を拠り所にしていた」

 時間がひっくり返ることを望むくらいにね。

 そう言って夜嘴さんは水槽を――ポリプテルスが旋る檻を愛し気に撫でる。

 そうだ。彼女はおれを自分の事務所に上げる際、動揺することもなく、やけに手慣れてはいなかったか? あれは――男兄弟の存在があったからか。

「別に弟に生き返って欲しかったわけじゃない。彼とずっと一緒に居たかったから、私は〈代数能力アルゼブラ〉に目覚めたんだ。もうずっと前のことになる――子供ながらに『巻き戻し』は恐ろしい力だと解ってね。周囲には『回復』と偽っていたし、『上』を除く無記課の人々にも同様に能力は隠していた」

 かちん。

 動けない、おれを冷たい汗が伝う。

 彼女の動機は最初から、一つの罪に収斂している――おれの母の罪に。


 そうだ。最初から、解っていたことだ。


「逆恨みなのは理解しているさ。だが、古今を鑑みても、その言葉が遺族の助けになったことはあるかい? 私が物凄く性格の悪い奴なのは、きみも解っているだろ」

 夜嘴さんは細い身体でおれを抱き締めて、そっと囁いた。

「『夜嘴』は両親が離婚したあとの苗字さ。弟が死ぬ前から、うちも結構めちゃくちゃでね……」

「じゃあ」

 おれは呻いた。

「最初から、おれを殺せば、よかったんだ」

「うふふ」

 夜嘴さんは、おれの唇に指を当てる。

「そこがきみの不幸であり、私の不幸だよ。航くん」

「なんで」

「きみが弟に似ていたから。きみが良い奴だったから!」

 そのまま、軽い身体の、その何千倍の重みで、夜嘴さんはおれを押し倒す。


「だからさァ! あははは! 思ったんだよ! きみの“正義の味方”を徹底的にへし折って、その黒幕である私と、私とさァ、一生一緒に繋がれたら、きみはきっと最悪の気持ちになるんだろうなって!」

 夜嘴さんは高らかに笑った。夜のネオンにはしゃぐ子供みたいに。


「認めよう。きみとずっと一緒に――きみの夜に、きみの地獄になるために、私はこれまで生きて来たんだ。弟を失ったあと、私にとって生きることはたんなる苦痛にすぎなかった。苦痛そのものをdolorem ipsum,それが苦痛であるという理由でquia dolor sit,愛したりamet,探したり,consectetur, 手に入れることを望んだりする者はいないadipisci velit,sed quiaしかし、ときにはnon numquam苦労や苦痛がその人に大いなる喜びをeius modi tempora incidunt , ut labore et doloreいくらかもたらす状況が起こることがある magnam aliquam quaerat voluptatem――なあ、私だけは、この夜だけは本物なんだよ」

 上気した顔で、夜嘴さんはおれの手を取り、背中の傷をなぞる。

 朝の光が、彼女の整った容貌に陰を落としていた。

「私はウトさんに見付けられて、無記課に入った。そのあと何年かして、上に提案したんだ。〈舞踏会ワルツ〉と呼ばれる囮の組織を作って、野良のロレム・イプサムをおびき寄せないかってさ。佐備沼くんなんかを見ればわかるように“正義の味方”に頼る無記課のやり口には限界がある。きみに手を抜いたように、必要な時に手も下せない。だから、全てをなかったことに出来る私が全てを管理して、予算の掛かる無記課はもう全部物理的に解体しちゃいましょうってね」

 夜嘴さんはそこまで言い終えて、肩を竦める。

 おれはその言葉に、何も言い返すことはできなかった。

 彼女の『計画』は、やり方が違えど、おれが望んだことでもあったからだ。


 ――『いつか貴女たちが、そういう仕事をしなくて良いようにしたい』

 ――『ちょっと待ってくれよ。きみまさか、この街のロレム・イプサムを全部一人で背負い込むって、そう言ったのかい。本物の正義の味方になるって?』

 

 彼女は”正義の味方”になった。

 おれの代わりに、おれの守りたかった何もかもを壊して。 


「結局〈舞踏会〉があれば、きみを夜の世界に受け入れることは簡単だった。まずはきみに近しい海嶋円果を『有動航が追われている』という情報で釣り、紆余曲折ありつつもどうにか始末して……その失踪によって、きみは私達ロレム・イプサムの欲望へと足を踏み入れた」


 そうだ。そして、その後のことは――全ておれが知っている通り。

 彼女は一人で全てを始めて、全てを終わらせた。

〈舞踏会〉は壊滅し、無記課はなぜかおれたちに一切関わらない。

 そして、夜嘴さんはおれを手に入れた。

 何度も彼女はおれを遠ざけるような素振りを見せたが、別に彼女にとってはおれが離れようと構わなかったのだ。彼女の願いは、この日常をおれと過ごすことなのだから、夜に踏み入ってしまったのはおれの方だ。

 夜は欲望の時間だ。最初から、彼女の欲望もまた、そこに眠っていた。


「言ったろ。有動航は死ぬまで私のオモチャだって……ああ、舞台裏はもう十分見せたことだし、これからどうしようかな」

 夜嘴さんは無邪気に笑う。

 旅行でも行くかい? とおれにキスして誘う。

 誰にとっても光が必要だ。おれが望んだ光とは、他人を助けることだった。

 だが彼女の光はきっと――何もかもを壊した後の、この終わらない夜だ。

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