2020/5/17

Night19:通電の海

 あたしが〈代数能力アルゼブラ〉を身に着けたのは高校生くらいの時だ。

 当時は水泳部に入っていて、記録もまあ……ちょっとしたものだった。

 総体の方はおまけで出たようなものだったけど、泳ぐのは大好き。

 いつも、水は孤独にあたしを切り取ってくれた。

『水が音を伝える速さは空気の約四倍だそうです』

 航くんが大学一年の時、いつもの仏頂面で言っていたのを思い出す。

 今になって思えば、彼はたぶんあたしの孤独をわかっていたのかも知れない。

 大人みたいな皮をつるんと被った大人が闊歩する地上の喧騒も、絡まったイヤホンのコードみたいなしがらみも、水の中では一瞬で過ぎゆく。


 別にはらに落ちる理由があったわけじゃない。

 ただ何となく生まれた時から、世界との間に一枚仕切りを挟んで生活しているような疎外感があって、その斥力はあたしが大きくなるにつれぐんぐんと育って行った。他の人が良いなと心躍るようなことばを、ただの文字の羅列としか認識できなくなることがある。まるで水の中にいるみたいに、皆の世界に鳴り響く様々な音が、ごぽりとした水音が自分を隔てて聞こえるように感じる。

 別にあたしが特別だったワケでも恵まれていたワケでもなく、ただ社会性と呼ばれる受容体がこわれていたのだ。


 あたしはずっと海の中にいて、そこに誰も立ち入らせるつもりはなかった。

 昼の世界には生きられない人間として、ただそれだけを、強く望んだ。

 だからこそ、その孤独は欲望として世界に代入されたのだろう。

記憶整除きおくせいじょ』。あたしの〈代数能力〉はそう呼ばれていた。


『記憶整除』は、対象の記憶の形を自在に整えられる。反対に、都合の悪い記憶を海の水を掬うみたいにさっと取り除くこともできる。自分で言うのもちょっとヒクけど、ひとを廃人にすることだって簡単だ。

「条件」は、消したい記憶に関連する質問を投げかけること。

 それを満たしてしまえば、説明は難しいんだけど……あたしの意識を相手の脳に滑り込ませるようにして、『記憶整除』の境界面インターフェースにできる。

 もっとも『自分が質問をされた』という記憶は残るから、勘のいい相手なら自分の記憶の不自然な空白と質問内容から逆算して、〈代数能力〉の存在に気付くだろう。 

 ちなみに、あたしの〈代数能力〉を最初に見破ったのも航くんだった。


■■■■


 あたしはずっと海の中にいて、そこに誰も立ち入らせるつもりはなかった。

 だから大学では、やりたいようにやっていた。歌いたいと思ったら歌うし、飲みたいと思ったら飲むし、関わり合いになりたくないヤツとは関わらない。

 あたしは、あたしのビーチで、あたしだけのために生きる。

 関わってくる奴がいたら、片っ端から『記憶整除』で遠ざける。


 海嶋さーん。次の講義終わったらさ、ちょっとお茶とかしない?

 海嶋、飲み会ついてきてくんないかなあ。アンタいないとつまんないよ。

 円果ちゃーん、コス何使ってんの? 今日もすっごく可愛いよね。


「ねえ、あんた、あたしのことどう思ってるワケ?」


 この世に響く様々な声に対して、あたしはずっと速い水になれる。

 するりと相手の頭の隙間に挿りこみ、相手の記憶を盗み見て、『その時どう思っていたのか』という心情までを精彩に感じ取ることができる。

 記憶とは感情と認識の可逆的な総体だ。

 その時認識した事実が、感情に裏打ちされて記憶になる。

 だから――逆に言えば、あたしの能力で少し記憶を弄ってあげれば、ある程度こちらへの感情を操作することも可能になる。


(クソ怠いこと聞いてくんじゃねえよ。こっちはヤリ目なのにメンヘラかよ)

(あんたなんて男子寄せに決まってんじゃん。馬鹿じゃないのコイツ?)

(社交辞令だって解んないかな。美人だからってイキりすぎでしょ)


 彼らの記憶は一様にあたしへの憎しみや嫉妬に彩られていて、どぶみたいな腐臭を放っていた。大歓迎だ。元から存在する出来事に方向性を修飾する方が、『記憶整除』の難易度は低かった。

 あたしの能力はあくまで『整除』だ。整えて、除去する。

 何もないところからエピソードを作ったり、全く出所のない感情を誘導するような、完全な洗脳じみたことはできない。だから、

 一人目のクソ野郎には『昔のセフレに性病を植え付けられている』という記憶を、 

 二人目の自称・友達には『昔付き合っていた彼氏と復縁できた』という記憶を、

 三人目のパパ活狂いには『付き合ってるパパに切られた』という記憶を、

 それぞれ彼らの昔のエピソードから加工して、『整えて』あげた。

 

 これがあたしの力のキモだ。

 ゼロから事実を作ることは無理だけど、事実を捻じ曲げたり誇張して、彼らに本物だと思い込ませることはできる。

 例えば一人目は『病気を移されたかも知れない』という恐怖自体を心の奥底に持っていたし、二人目も『彼氏と復縁したい』という願望があった。三人目も『パパに切られるかもしれない』という怯えはあったから、その方向性を『整えて』、事実を誤認させる方向に誇張した。ちなみに記憶を『除く』のは、もっと自由度が高い。


 だけど、別に彼らを責める気も起こらない。ムカついたからあたしが個人的に能力を使って嫌がらせしただけだ。人の心なんて覗く方が悪いし、言動に現さなければそれは『ない』のと同じ――だって、そうじゃなきゃとっくにこの世は言いがかりと被害妄想で溢れた無法地帯になってるはずだ。

 だからあたしはこの力であたしに誰にも関わらせなかったし、記憶を消したり弄ったりしていつも一人の水音の世界に浸っていた。

 

 拒絶されれば、それ以上踏み込んで来るやつなんて居るわけがない。 

 だって、誰かを本気で助けたがる、正義の味方なんて居るわけがない。


 ずっとそう思っていたし、なまじ誰かの記憶を覗けるだけに、概ねその考えは正しかったことも立証されていた。

 ただし、有動航という男の子に会ってからのあたしは――


「海嶋円果先輩ですか」

 大学構内で声をかけてきた彼の第一印象は、『怪獣みたいな男』だった。

 タッパがデカくて、がっちりしてて、冗談なんて毛ほども知らないみたいな、こわい瞳。

「何の用? 一年だよね」

「はい。有動航と言います。二年の人から、先輩を飲み会に誘ってこいと頼まれました」

「何だそりゃ……使い走り? じゃあ、適当に断っておいて」

「解りました。……でも」

 航くんは仏頂面であたしを見つめた。

「個人的な意見で申し訳ないのですが、先輩は彼らとの交友関係を断った方がいいように思えます」

「はあ? あんた頭おかしいんじゃないの?」

 あたしは笑ってひらひらと手を振ったが、彼は返らなかった。

 硬く凪いだ鏡面のような瞳で、ただあたしの乾いた笑いを眺めていた。

「彼らの会話を聞いていたのですが、あまり、海嶋先輩のことを友人として扱っているようには見えませんでした。先輩とおれは初対面ですが、必要ならおれが彼らに一言述べておきます」

 そう言って航くんはくるりと背を向け、下の階に通じるエレベーターまでどんどん歩いて行く。一歩一歩が大きい。あたしは慌てて彼を追いかけた。

「待ちなって、ねえ、あんた」

「……? なんですか」

 教室前のロビーで、彼とあたしは二人きりだった。

 だからあたしは口許くちもとを抑え、すうと息を吸って、


【――何でそんなことすんの?】


〈代数能力〉の書字は――あたしの場合、舌に浮かび上がる。

 だから、いつの間にか口許を抑えて笑ったり喋ったりする癖がついた。

 そして、「条件」は満たされた。

 脳内の回路がばキンと灯り、『記憶整除』が発動する。


 意識が溶ける。

 ぴちゃり、と水音が頭の中に鳴り響いて、視界が収縮し――

 気付けばあたしは、幽裸をさらけ出し、彼の記憶の海を泳いでいた。


 記憶の海は、みな夜だ。どこまでも静かに暗く、途方もないほどに深い。

 ただ月だけがぼんやりと浮かんでいて、あたしはその無辺のビーチを裸で歩く。

 海に目を向けると、硝子片みたいに光る海域があった。

 そこが、彼の『海域』だ。

 砂浜をさりっと蹴立てて、あたしは黒い海へ飛び込んだ。


『海域』はさっきの質問の周辺――『なぜ彼がそんなことをするのか』という理由、それに付随する記憶が眠っている場所だ。

 息を吸う必要も吐く必要もない。法則のように、あたしはただ自分を反転させて、『海域』のふかくへと潜っていく。

 すると、扁平へんぺい放埓ほうらつな闇の中で、手応えの違う闇をすぐに感じ取った。

 手応えの記憶は粘度が違って見える。それを掬って手に取り、飲み干す。


 ■■■■


『有動。お前さ、海嶋飲み誘って来てくんねえ』

 キャンパスの一階のロビーでたむろしてた先輩に、おれは声をかけられた。

 良く知らない人だったが、たぶんこの人たちにも『何でもやってくれる一年がいる』という噂は広まっているのだろう。

 特段良い気も悪い気もしなかった。おれは自動的に人を助ける。母が死んでからそう決めているし、それを実行し続けている。

 そのせいで周囲からは家事手伝いの妖精のように扱われつつあると自覚しているが、それに関しても別にどうでもいい。

 これは罰ですらない。ただの義務だ。

『解りました。海嶋先輩はどこにいるか解りますか?』

『さあ。一人が好きみたいだし、この時間なら上の階でメシ食ってんじゃね』

 名前も知らない男の先輩は、そう言って周囲の人間と首を傾げて笑い合わせた。

 少なくとも、おおよそ好意的な反応ではない。だが、その笑みに、何やら不穏なものをおれは感じた。

『……』

『何』

 彼は笑みをふっと消した。貧乏ゆすりの音がうるさい。

『何か言いたいことでもあんの』

『進んで一人になっている人もいます。そういう言い方で貶めるのは良くない』

『お前何? 海嶋と知り合いかなんか?』

『全く知りません。名前も初めて聞きました』

『……じゃあ別に、尚更どうでも良いじゃん。何でお前にそんな口利かれなきゃなんないわけ? さっさと誘って来いよ、お節介好きなんだろ』

『解りました。ただ、先ほどの言動については後で訂正してください』

『キッショ。解ったから、さっさと行って来いって』

『解りました』


 上の階に続くエレベーターに乗って、考えてみる。

 海嶋円果という人物のことはよく知らないが、一般的に飲み会というのはコミュニケーションを取り、親睦を深めるために行われる催しだ。

 彼らが口にする『海嶋』先輩に対して、先ほどの彼らの言動を伝えておかなくては不公平だろう。飲み会と言うのは誘う権利はもちろんのことだが、同様に断る権利もまた存在する。そもそも――少なくとも、尾武嵐であればあんな敬意に欠けた誘い方はしないだろう。

 それだけでも、彼らと言い争う価値はあるように思える。

 母がひとを助けるために死んでから、そう言う風におれの人生の形は決まっている。


 ■■■■


 ぴちょん。

 水音。

 そして、

 記憶の海に潜っていたあたしの輪郭ごと、感覚が一気に蘇る。


「あんた」

 気付けば、

「マジで莫迦じゃないの……気持ち悪い」

 あたしは無意識に呻いていた。

 彼の動機なんてちっぽけな善意ではなく――彼が抱いた、その罪悪感に。

「そんなに悲しくて、どうして、生きていけるの……」

 気付けばあたしは、目元を手で押さえている。

 彼の抱いた、『母の死』という感情に触れた時――あたしの頭の中の海が、溢れた。人間が一人で抱えるには大きすぎる、それは哀しみの渦だった。

 暴力的なまでの感情の波濤を押し付けられて、あたしの感情までへんに輻輳されてしまったのだ。こんなこと、『記憶整除』を使い始めた最初の一、二回しかなかったはずなのに。

 彼の人生はもうその斥力に歪められて、虫食いのように形が決まってしまっている。……普通の人間の感情には、欲望には、そんな力なんてないはずなのに。

 あの感情一つで直感できた。

 この子は、何度記憶を弄っても――同じように、あたしを助けようとする。


 航くんはゆっくりと、しゃがんで泣きじゃくるあたしを見た。

 その手には、スマートフォンを携えている。

「そうか。先輩は、おれの記憶を読んだんですね」

「――それは」

 まずい。〈超能力者〉は、能力を使った時――カメラには。


「『条件』は恐らく対象への質問、または会話。おれの記憶の逆流らしき現象が起きているので、能力は恐らく同調をベースにした記憶操作でしょうか」

「あんた……」

 あたしは思わず後ずさる。

 自分の〈超能力〉を言い当てられた経験なんて、初めてだったからだ。

 でも、

「すみません。驚かせてしまって」

 彼はそう言って大きな体を沈め、あたしに糊の効いたハンカチを差し出した。

 そして、その布面には――


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「おれも、先輩と同じなんです」

 航くんはそう言って、初めて笑った。

 穏やかで、太陽に照らされた帆のような笑み。

「困ってること、ないですか。よかったら、相談に乗ります」


 記憶を読むまでもない。彼の心は、さっき誰よりも理解したから。

 そのとき、”正義の味方”はいると思った。思ってしまった。

 要するに、あたしはつまらない女で、ヤキが回っていて、一目惚れだったのだ。


 二十年の人生が通電する。

 あたしだけの海に、彼の暖かな稲妻が走った瞬間だった。

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