■■■■/■■/■■
Night21:生者のためのトランジ
きっと、この生活は彼女が望む限りどこまでも続くのだろう。
彼女は、自分の肉体の時間も、他人の肉体の時間も『巻き戻し』できる。
『いいだろ? この力はかなり融通が利くんだ。まあ、元々は誰かとずっと時間を過ごしたいという欲望がかたちを持ったものだからね。記憶を保持して、肉体年齢だけは若返らせる、なんて芸当もできる』
その夜、夜嘴さんは煙草を咥えたまま少女へと姿を変えていた。
髪もいつものショートヘアから肩口にかかるまでの長髪になり、端正な彫刻じみた美貌はそのままに、すこし目尻の鋭さが和らぎ、幼げを残した顔立ちが面に出てきている。
「こっちのが興奮できる……ワケないか。きみ、水泳女に首ったけだもんな」
若返った夜嘴さんは肩を竦めて、手を叩いた。
次の瞬間、彼女の姿は元の大人のものに戻っている。
……たぶん、自分の肉体に施していた『巻き戻し』を解除したのだ。
出来ない道理は見当たらない。おれの『硬化』も、変化は可逆的だ。任意の瞬間に物体の『軟化』を解除し、元の性質に戻すという運用も行っている。
「尾武が、〈21〉の襲撃で見た少女というのは夜嘴さんのことだったんですね」
おれは無感動に呟いた。
たぶん自分の背格好を『巻き戻し』、簡易的な変装に利用したのだろう。
夜嘴さんは満足げににやりと笑い、ベッドに倒れ込んだ。
「そうだよ。もっとも、これはきみを先に逝かせないための使い方だ」
その夜、彼女はおれを枕のように抱き締めて眠った。
道具としての日々は、世界が終わるまで続くだろう。
寿命が来ても『巻き戻し』される。彼女が飽きるまで。
だが、飽きるまで、とはいつだ?
おれと同じく、夜嘴さんの欲望の深度もまた異常だ。
おれが自分の一生を、躊躇わず大切なものを壊させないために使うことができるのと同様――彼女もまた、永遠にも近い余生を、己の復讐のために投げ捨てることができる人種だ。
彼女の眼はおれを透かして、おれの向こうの弟を見ている。
夜が落とす影のように、永遠に届かないものを夜嘴さんは眺めている。
欲望は届かないからこそ欲望なのだ。
それを探し求めるために、おれたちは夜にいた。
おれも本当は、最初から解っていて――考えないようにしていたのだ。
先輩がもういないことを。おれの辿り着く海辺はとうにないのだということを。
もう、〈
ベッドの中で、おれはアクアリウムの光を眺めて瞼が落ちるのを抑えている。
球形の水槽の内に泳ぐポリプテルスは、死んだような目つきで砂を食んでいる。
佐備沼さんが死んでからずっと眠れていなかった――というより、そもそも寝たくなかった。夜がくればまた朝が来る。眠ってしまえば目覚めなければならない。そして目覚めた先で、自分の現実を取り囲む水槽に気付く。
このまま夜嘴さんに身を委ねてしまえれば、どれほど楽だろう。
おれの背を抱くこの手を取って、今度は永遠に、偽りの平和な舞台に上がる。
よく考えれば、彼女を拒む理由はもう、何もない。
彼女は人倫にもとるろくでなしで、先輩を殺した犯人だ。
だが、おれ一人さえ彼女の人生に使い潰されれば、少なくとも周囲にこれ以上被害が出ることはもうないだろう。
どれほどろくな大人ではなかったとしても、昔のおれは夜嘴さんを得難い友人だと感じていたし、上手くやりたいとも思っていた。
たぶん、先輩と――今はもう名前も思い出せなくなった彼女と先に出会ってさえいなければ、おれは夜嘴さんのからだを今抱き返していただろう。
彼女がくれた夜には全く心は惹かれなかったが、夜をくれようとする彼女の笑顔は、きっとおれの壊したくない大切なものだった。
おれの反抗は、無駄なことなのかも知れない。
賢い大人なら、こういうときよく考えて、賢い選択をするだろう。
だが――昔誰かが言っていたような気がする。
夜の海を泳ぐには、考えすぎないほうがいい。
その名前を思い出せないまま、瞳の奥に燻る水音と共に、おれの目は閉じる。
■■■■
その晩、久しぶりに夢を見た。
湖面までさえざえと黒く磨かれた、夜の海におれは寝そべっていた。
浜には女性の影が
月の光だけが海辺に照り返し彼女の輪郭を切り取っていた。
すらりと伸びる手足、陽に薄く炙られたつややかな肢体。
だが、顔のあるべき部分に目を向けると、そこは黒い『四角』で切り取られている。空間に窓がはめ込まれたように、先輩の顔は遮られて見えない。
『四角』の郭線は時折ちりりと焼け付くようにふるえ、端々から英単語らしき記号の残骸が剥離しては夜の海に溶けていく。
おれは直感した。
この『窓』は、あの文字――ロレム・イプサムの書字が蝟集したものなのだ。
そして、その『窓』の向こうに隠された彼女は。
■:アッハハ。なっさけない。
■:あんた、夜嘴にいいようにやられちゃったのね。
それは声ではない。声と呼べるものですらない。
海からひそやかに揺れ動く波紋が、おれの耳を撫でては消えるたぐいの――波が寄せては返すような、実態を伴わないささめきだった。
それでも。
「……先輩?」
考える間もなく、なぜか言葉が零れ落ちた。
幾度となくおれの心が砕けようとも、いつも求めていたもの。
■:ああ、そうか……あんた、無茶しすぎだって。ちょっと待ってなよ。
先輩はそう笑って、おれの額にそっと触れた。
その瞬間くびきが解けるように、先輩の顔に張り付いていた『窓』が剥がれ落ちる。夜に濡れた肌が、白く一筋メッシュの入った髪が、猛禽みたいに細められた目尻が、その姿を取り戻していき――
「おかえり、航くん。死にそうな顔してんねえ」
「先輩」
おれは跳ね起きると同時に、先輩の元へ駆け寄っていた。
「先輩」
「あんたね、もうちょっと気の利いた台詞言ったらどーなの。一応、正真正銘、本物の海嶋円果の記憶だっての」
「嘘、言われてません?」
「嘘から出た真って言葉もあるでしょ」
「嘘なのは、変わんないんです、か」
「あんたさぁ――」
先輩はおれの尻を蹴り上げた。
「うりゃえい」
「痛っ……うわっ、ちゃんと痛い、何だこれ……」
なるほど、この蹴りは水泳部のミドルキックだ。強く思い出せる。
笑いながらおれたちは夜の海辺に二人で倒れ伏した。
「極めて善良な青年が災厄に見舞われる……ああ、何たる不幸か」
先輩はおれの隣に寝転んで、砂浜を散らすのも構わず、真面目くさった顔で呟く。そのあとにかりと歯を見せて笑い、手指をやわらかく絡めてくれた。
おれも握り返す。やっと巡り合った出会いに、水を差されたくなかった。
言葉も、手指の触りも、波濤のように愉快に荒れ狂う瞳も、記憶の中の先輩そのままだった。疑いようがない。彼女は本物だ。本物の海嶋円果だ。
だから、おれは聞いてみたかった。
「先輩は」
「うん」
「本当に死んだんですか」
「そーなの。ミスっちゃったみたいだわ」
先輩はあっけらかんとした調子で、けらけらと笑った。
この人はきっと葬式で笑うタイプの人だ。
「何だかんだ言って、そんじょそこらのヤツよりは上手く〈
「そうですか」
もう、解っていたことだ。解っていたことが、これほど重い。
「あんたさあ。葬式みたいな顔しないの」
「言っておきますけど、葬式なんですよ、これ」
「あ、そっか」
先輩は手を繋いだままごろんとこちらの顔を覗き込んだ。
背中まで伸びた長い髪が、
「あんたさ、一応好きな女が死んだってのに、リアクション薄くない?」
「そうでしょうか。いまは、夢が覚めなければいいのにと思っていますが」
「ふうん。そういえば、デート誘ったよね? あたしのこと」
「はい」
「そーよね。で、わざわざそんな言い方したのはなんで?」
「先輩のことが好きでした。告白して付き合いたいと考えていました」
「へえ。じゃ、いつから好きなの? あたしのこと」
「……そうですね。おれも、いつかは忘れてしまったんですが」
少なくとも、一目惚れではなかった。
じぶんが手助けした人の顔と名前は基本的に全員覚えているが、だからこそ、最初に手を差し伸べた時の先輩は、おれにとって全員の中の一人でしかなかった。例え〈代数能力〉を持っていたとしても、それは変わらない。
どちらかと言えば、何でもない会話の積み重ねだったように思う。
船が波に揺られながら、少しずつ航路を進めて行くように、何となく自分の錨を彼女に投げ渡す機会が増えて行ったのかもしれない。
彼女は水のような人で、海のような人だった。
ずっと陸の世界とは違う法則で生きてきて、他の人とはちょっと違う幸せと不幸せを抱えていた。それでも、時たまこちらに手を伸べてくれることがある。
自分は幸せの受容体が毀れているのだと、いつか彼女は自嘲していた。
やりたいようにやって、死にたいように死ぬ。
結局のところ、それが海嶋円果という女性だ。
母の死によって人生のかたちが決まってしまって、出口が全く見えなくなかったおれにとっては、彼女の生き方は眩しく見えた。
壊れているものが許せなかったのに、
壊れた彼女を美しいと思ってしまった。
それが全てだ。
……そういえば、
母の最期のこと。
用水路に落ちた子供を助けようとして、そのまま両方死んだという過去を――そして、母が外に出たきっかけも、おれが皿を割ったせいだということを話した時に、先輩は気持ち悪いものを見たというような表情でこう一蹴した。
『あんたさ。あんまり考えすぎない方が良いよ』
『でも、おれのせいです』
『あのね。常識的に考えて、そんなわけないでしょ。サバイバーズギルドだか何だか知らないけどさ、泳ぎも下手なのに勝手に飛び込んで死んだお母さんが100パー悪いでしょそれは』
『でも、人を助けることを悪いことだと思いたくない』
『分けて考えろっつってんの。人助けはそりゃいいコトかも知んないけどさ、それで自分まで死んじゃったら、結果的にはその先生きて助けられたはずの人まで見殺しにしたことになんない?』
『それは』
『あんた、家族とか友達に全然自分の考えてること打ち明けてなさそうだもんね。何でも自分一人で抱えて突っ走ってない? 罪滅ぼしのつもり?』
『父さんは、母が死んだ後、おれが話しても何も返してくれませんでした』
『はあ? じゃあ色々……葬式の手続きとかどうしてたわけ?』
『親族の前では必要最低限の会話を。あとはずっと書置きと筆談でした』
『うわ。キッショ』
『そうでしょうか。おれは愛されて育ちました』
『……まあ、あんたがそういう感じになったワケは理解できたよ』
『でも、この生き方を変えることはできません』
『ン? 別に変えろなんて言ってないじゃん』
『どういうことですか?』
『あたしは好きだよ。あんたみたいな生き方』
『でも、さっきは』
『分けて考えろって言ったでしょ。あんたの母親が死んだのは、そりゃ自業自得。でも、人助けって志自体は立派なんじゃないの? 幸せとか不幸せとかはよく解んないけどさ、簡単にできることだとは思わないよ。あたし、あんたが声を掛けて来てくれたときは、それなりに嬉しかったよ。記憶が読めて便利なこともあるんだね』
『……なら、今の生き方を続けても良いんでしょうか。いつか、自分の生き方を悔やむ日がきたら? そうなったらおれは、母さんに顔向けできない。おれはそれが怖い。母さんの死も、子供の死も、無駄になる気がする』
『でも、まだそうなってない』
『……』
『わかる? あんたのそういう生き方が、あたし達を引き合わせたわけ。少なくともあたしはあんたに出会ったことを悔やんでない。あんたもそうでしょ? だったら、アレコレぐちゃぐちゃ考えないで……』
『
『何ソレ。呪文?』
『剣道の標語です。
『あー……良いじゃん、ソレ。結構ビビッと来た』
『急に指パッチンなんかして何ですか。ふざけているんですか?』
『目が怖すぎ。いやさ、あたしもライフセーバー資格持っててさ。夜間水泳で急に遭難とかした時の話なんだけどね』
『怖い話しようとしてます?』
『違うって。ええと――夜の海を泳ぐには、考えすぎない方が良い』
『……余計なことを考えると体力を使うから生存のための思考は働かせども、考えること自体を目的にしてはならないということでしょうか』
『まあ、大体そんな感じ。やろうと思ったら、あんまり考えすぎない方がいいのよ。結局行動に勝るものってあんまりないわけでしょ?』
『でも、母は行動して死にました』
『なら、あんたは死ななきゃいい。壊れなきゃいい。その手伝いをするなら、あたしも悪くないかなと思うわけ。あんたの生き方も、あんたのお母さんの生き方も、あたしは好きだよ。だってそれって、自分だけの幸せじゃん』
『――おれと、母が』
『そう。ヤバくなったら一緒に逃げたげるし、お互いのことが鬱陶しくなったら離れれば良い。一応、あたし、あんたの先輩だからね』
『先輩は』
『なに? 改まって』
『なぜ、そこまでしてくれるんですか?』
『さあ? 言いたくなるくらいに惚れさせてみる?』
『……』
「先輩、あの頃からおれのこと好きだったんですね」
「アッハハ! 死ね!」
先輩はおれの首根っこを引っ掴み、浅瀬に突き飛ばした。
そのままざぶざぶと自分も海に浸かる。
「そうだよ! あたし、結構マジだったんだよ! あんたが〈舞踏会〉って奴らに狙われてるって聞いたから、そこに入って、ボスのこと調べて、ついでに〈舞踏会〉の情報無記課に流して中からぶっ壊そうとしたらさあ! 全部グルなんだもん!」
「お互いひどい目に遭いましたね」
「全くだよ」
先輩は珍しくつかれた表情で、海の水をそっと掬って眺める。
「……あんた、あたしの正体、大体見当付いてるでしょ?」
「一応は」
おれは頷いた。
「今ここにいる『先輩』は、おれの記憶の中から再現された先輩ですよね」
思えば、予兆は感じ取れていた。
夜嘴さんの『巻き戻し』がかちりという時計の音を強く想起させるように、
これまでずっとおれの瞳の奥で響いていた水音は、この海から流れ着いたものだ。そして、この海を媒介として、他人の記憶を操作する――恐らくは、それが彼女の〈代数能力〉なのだろう。
そうだ。取り除かれていた記憶がよみがえる。
この力は確か。
「『記憶整除』。そう呼ばれていた……そして〈代数能力〉は、それを利用したロレム・イプサムが死んだ場合、少しずつその影響が薄れていく。強く対象を意識すれば進行を遅らせることはできるけど、それに例外はない」
意識を失った蔵内さんの能力は解除されなかった。
だが、死んだ佐備沼さんの錆びた鯨は、しばらくすると崩れて消えた。
つまり、死者の〈代数能力〉には制限時間がある。
「そして、先輩は――たぶん死の直前に、おれの記憶を『取り除いて』いた。でも、先輩が死んだから、ゆっくりと先輩の『記憶整除』の影響が薄れて――おれは先輩に取り除かれた記憶を取り戻していった」
時々、先輩の声が聞こえる時があった。
そういう時にはきまって瞳の奥から水の音がした。
あのとき、おれは先輩との記憶を取り戻していたのだ。
「だけど記憶を取り戻した端から、今度はおれの〈代数能力〉の『条件』で無効化された。蘇るそばから、先輩との思い出は壊れていった。だから気付かなかった」
「じゃあ、今こうしているあたしは何?」
「おれは最近、全く能力を使っていません。だから、『条件』も発動せずに、先輩の残した最後の記憶がそのまま残っている。そして、先輩の能力は『取り除く』だけじゃない――『整える』ことも可能なんでしょう。例えばおれの中の先輩との記憶を弄って、『先輩の記憶から、疑似的な人格を再現する』ことも」
記憶とは、感情と認識の可逆的な総体だ。
可逆的――つまり、記憶のほうを弄って、感情と認識を再現することもできる。
『おれの傍にいた先輩』という記憶から、先輩への認識と感情を寄せ集め、弄り回し、粘土細工じみた記憶の亡霊としておれの夢に登場させるという芸当も、時間は掛かるだろうがきっと可能だ。
今なら思い出せる。最初に先輩が、額に指で触れてくれたのは、おれの記憶の一部を還元してくれたからだ。そして先輩とおれとの間には長い会話の積み重ねがあった。そして先輩の能力の「条件」は、『質問』であり――つまり、〈代数能力〉を行使できる機会も、それだけ多い。
だからこそ、今こうして、おれと先輩は最後の時間を持つことができている。
そして最後に、先輩は、
「――航くん」
「〈超能力〉って知ってる?」
この質問で、おれの記憶に封をした。
おれがかつて、ロレム・イプサムだったという記憶に。
だからおれは、この質問を一番最初に覚えていたのだ。
もう、今なら思い出せる。
先輩が死んだ日、何が起こったか。
――そして、おれがどのように、東京湾の形を変えたか。
「あたしはさ。お別れを言いに来たんじゃいなんだ、航くん。まだね」
先輩は、あの日カラオケのマイクをぶっ壊したような笑顔で言う。
「方法がある。あんたと一緒に、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます