第24話 向日葵を大事にしてやってくれ

 いつの間にか池谷家は昭和組と平成組に分かれての飲み会になっていた。

 平成組はついつい正樹の悪口で盛り上がってしまった。


 椿は一気に池谷家のスターダムに上り詰めた。


 いまさら発覚したことだが、どうやら子世代の女性陣はみんな大なり小なり正樹に反感を抱いていたらしい。その正樹に真っ向から反抗した椿は子世代から絶大な信頼を勝ち得た。向日葵はほっとした。池谷一族はこれから自分たちの世代になる。老いていく一方の正樹のご機嫌伺いをする時代はそのうち終わる。


 菜々と稔には申し訳ないが、向日葵にとっての一番は椿だ。椿がそういうつもりなら向日葵もそういう態度で行く。


 しかしふたを開けてみれば菜々も父親には思うところがありそうだ。菜々も参加して「そうなの、お父さんはそういうところがあるの、ほんとうにむかつくの」と相槌を打っている。稔一人が肩身の狭そうな顔をしてちびちび日本酒を飲んでいる。息子の稔は感じない何かがあるらしい。


 もともとは大勢の人のいる前でちやほやされるのを好まない椿だったが、今日ばかりは機嫌がよさそうだ。この家には味方が多いことを知ったからだろうか。椿が少しぐらい反抗的な態度をとっても、嫌悪するどころか、応援してくれる。そういう環境に身を置くのは初めてかもしれない。池谷家ではストレートに自分の意見や感情を表現することのほうが善だ。時と場合にもよるだろうが、椿にも少しずつそういう方向にシフトしてくれることを望む。


 本家の家屋が多少広いと言っても、さすがに親族全員を泊められるほどのスペースはない。夜になると、県内東部に住まいのある由樹子一族と美樹子一家、大叔父夫婦は帰っていった。遠方から来た亜樹子一族は客間へ、真樹子は祖母の部屋へ、正樹夫婦は仏間へと散り、菜々と稔は離れに下がった。


 波乱の元旦が終わる。向日葵は椿が風呂に入ってさっぱりした状態で眠ったのを確認してから寝た。一年の計は元旦にあり。椿がすっきりしたのなら何よりだ。今年はこの調子でがんがんいきたい。




 明けて二日、正樹一家が午前中のうちに関東に帰ることが決まった。菜々と稔と一緒にいたい向日葵は少し寂しい気分になったが、正樹の居心地が悪いのだろう。自業自得だ。


「ななちゃんとみのくんだけ延泊すれば?」


 向日葵がそう言うと、稔が「いやあ」とにやける。


「僕も向こうに帰ったらカノジョさんと長野にスノボ旅行に行くので」


 大樹が稔を殴るそぶりを見せた。稔が「ふふふ」と笑った。


 父のミニバンに荷物を詰め込む。こっちの車なら三列シートで定員は八人なので広樹桂子夫妻と正樹一家が同時に乗ってもそんなに窮屈ではない。しかし向日葵と椿、大樹と祖母はここでお別れだ。


「まあ、どうせゴールデンウィークにも来んだら」


 大樹の言葉に、稔と菜々が頷いた。今度は茶摘みだ。池谷家にとっては一年で一番の大仕事だ。親族を丸ごと駆り出すのである。


 広樹が運転席から「おら、菜々、稔、お前らも乗れ」と声をかける。姉弟が「はい」と返事をして車のほうに向かった。

 二人が乗り込む前に一回中に入ったはずの正樹が出てきた。見送りに出てきた四人の前に立つ。

 向日葵は警戒した。この叔父は最後の最後までいちゃもんをつけてくる気なのかと身構えた。


 違った。

 正樹は、深々と頭を下げた。


「すまなかった」


 向日葵は驚いた。そばにいた面々も驚いた顔をして黙った。

 正樹が下を向いたまま言う。


「おとなげないことをした。ゆるしてくれないか」


 本家の見送り組がそれぞれに視線を交わす。大樹が椿の腕を小突く。椿が口を開く。


「あの、そんなことせんといてください。身内やないですか。これでお互いのことをよく知ったということで、これからに生かしていきましょ」


 なんと優しいのだろう。こんな奴だっただろうか。いや、口先だけで内心は違うかもしれない。椿は生来衝突を好まない京都人なので上っ面だけ合わせた可能性はある。


 正樹が顔を上げた。その顔には覇気がなく、なんとなく老けて見えた。


「俺は大樹と向日葵が心底可愛いんだ。特に向日葵は女の子だからな、俺が守ってやらないといけないと思っていた」

「なんで俺らだけ?」


 大樹のストレートな物言いにちょっと緊張する。だが正樹は反発せず素直に答える。


「兄さんの子だからだ」


 車の中から、助手席の桂子の胸に顔を突っ込むようにして広樹がこちらを見ている。


「俺は大学まで出してもらった。長男の兄さんに家のすべてを押し付けて。手伝わないとならないことはいくらでもあっただろうに、俺は次男という立場を利用して東京に出ていってしまったんだ。おかげで好きな勉強をしながら四年間遊び狂って、大きな企業に就職できた。子供を二人とも私大に入れた。特に稔は中学受験をさせて私立の中高一貫校を出した。それもこれも全部兄さんが実家を継いでくれたおかげだ」


 こんな話を聞くのは人生で初めてだった。軽口を叩き合って過ごすこの兄弟の間にそんな葛藤があったとは思わなかった。娘の向日葵からするとこの能天気な父にそんな重い事情があるようには見えない。

 思わず広樹の顔を見た。広樹も驚いた顔をして手を振っているので何か行き違いがあるものと思われる。

 兄が背後でそんな顔をしているとも知らずに正樹はシリアスな顔で続けた。


「この恩に報いるためには兄さんに何かあったら俺が大樹と向日葵を育ててやるべきなんだと思っていた。それで、二人を大学に進学させてやるのが一番だと。女の子の向日葵は東京の大学に進むならうちに住まわせようと思っていた。稔もそうしてもらったんだから、それが俺の果たすべき当然の役目なんだと」


 大樹と向日葵は「いやいや、大袈裟でしょ……」「親父ぜんぜん死にそうにねぇし、ぴんぴんしてるし……」と否定したが、「わからないぞ。国一コクイチで衝突事故を起こしたら一発アウトのこともある」と言われてしまえばそれまでだ。国一とは国道一号線の略で、片側三車線の静岡県の大動脈である。


「大樹が理系の院に進むと聞いて、莫大な費用がかかっているだろうと思ってな……。実家に払えるだけの金はあるんだろうかとずっと心配していた」


 広樹が中指を立てた。


「向日葵は遠い関西に行ってしまうし。苦学しているものだとばかり思っていたから、そっちで男を――失礼、恋人を作っているとは夢にも思わなかった」


 そこで大きく深呼吸をした。


「そんな大変な中で選んだんだから俺も椿を信頼しないといけないな」


 そしてもう一度椿に頭を下げる。


「向日葵を大事にしてやってくれ。守ってやってくれ。俺の分までな」


 椿が苦笑しながら頷く。


「お約束します。全身全霊をかけて」


 正樹が顔を上げた。少しはすっきりしたのだろうか、顔色が良くなったように見える。


 広樹がとうとうパワーウインドウを下ろして顔を出した。


「オメー余計なことばっか言ってんじゃねぇぞ。俺は好きでじいさんの後を継いだんだからよ。好きで農業高校行って農業やってんだから、お勉強ができてお勉強をする高校に行ったお前が考えることじゃねぇ」

「兄さんはそう言ってくれるけど――」

「じいさんばあさんがそうしてくれたように俺もそうやって大樹とひまに好きな学校行かせた。何もかも想定の範囲内だ。後継者のことも気にしたことねぇ。誰かやりたい奴がやんだろ。まあ幸運なことにうちはひまが継いでくれることになったけどよ、ひまが嫁に出てっても俺は別によかったんだからさ」

「そうだ、俺は大樹が継がないと聞いた時心底家のことを心配したんだ。兼業でやるのかと思ったらぜんぜんそんなそぶりもないし、なんで兄さんはそんなに無頓着なんだ、って。最悪稔を養子にやって継がせようかとも考えたんだ」

「バーカ、稔はイギリス行くんだよ」


 稔は文学部の英文学科に籍を置いている。彼が英語に目覚めたきっかけは小学生の頃本家で引きこもっていた時に広樹の所蔵する洋画のDVDを漁って見ていたことにあるらしいので、彼の人生は広樹によって道が開けたとも言える。そんな彼を広樹がとどめ置くはずがない。


「オメー、子供は所有物じゃねーぞ。言うこと聞く子がいい子ってわけじゃねぇ。どう接したら子供が健康でいられるのかちったぁ考えろよ」


 兄の言葉に、正樹が「ごめん」と苦笑した。


「まあこのお説教の続きは車の中でするか。乗れ」

「ああ。よろしく」


 正樹が車のほうを向く。


「じゃあ、ゴールデンウィークに」

「うん。またね」


 スライドドアが閉まった。

 車が発進する。それを祖母が手を振って見送る。


 完全に見えなくなった時だった。


「やっと帰った……」


 椿がそう言ってその場にしゃがみ込んだ。

 向日葵は笑いながらその隣にしゃがみ込んで椿に抱きついた。その上で大樹が向日葵ごと椿を抱き締めた。


「一番めんどくせぇのが帰ったぞ! あとは亜樹子伯母さんと真樹子叔母さんだけだからどうにかなる!」

「ほんまやで、もう……僕は何回心臓が止まるかと思ったことか……」

「ありがとう、椿くんありがとう!」




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