第23話 そういう覚悟で、今、ここにいます
とうとう元旦が訪れた。明けた、めでたい。愉快な2022年の始まりである。
「あんよがじょうず、あんよがじょうず」
やって来た従姉の子供がちょうど一歳になり、最近つかまり立ちをしては一歩、二歩と足を踏み出すようになってきたとのことで、向日葵はこの子が我が家で歩き出さないかと期待して見守っていた。他の親族もこの子の挙動に一喜一憂している。特に祖母となった由樹子はこの孫に夢中で、音の鳴るビニール製の人形を振りながら手拍子を叩いていた。
立った。一歩を踏み出した。
一同が固唾を飲んで見守る。
あともう少し、あともう少しで小さな足が床を踏み締める。
床についた。
「おっ!」
そしてもう一歩進めようとした。
ここで一歩が出たら歩いたと認定してもいいのではないか。
祖父である由樹子の夫が慌ててスマホを構え、動画を撮り出した。
ところがその時、勢いよくふすまが開いた。
「すみません!」
声を張り上げたのは椿だった。
一同の視線が一歳児から椿に移動した。
椿は少しオーバーにも見える動きで頭を下げた。
「寝坊しました! 申し訳ございませんでした!」
従姉の子がたたみにぺたりと尻をついてわっと泣き出した。この子からしたら知らない大人の男性が突然大きな声を出しながら部屋に入ってきたのだ、びっくりしたのだろう。従姉が慌てて抱き上げて「だいじょうぶだいじょうぶ、怖くないよー」とあやした。
時刻は正午である。本家の居間と仏間――ふすまを開け放って二部屋をつなげているため現在実質一続きの間――には大勢の親族が集まって所狭しと座っていた。市川の叔父一家だけではなく、由樹子伯母の一族、亜樹子伯母の一族、美樹子叔母の一家、真樹子叔母、祖父の弟夫婦まで集合している。もはや座る場所はないと言っても過言ではない。
そもそも親族一同からしたら本家など勝手知ったる自分の庭だ。テーブルの上にはすでにおせちと出前の寿司が並んでいる。その上大半はおおらかで細かいことを気にしないタイプだ。疲れ切っている椿が無理をして出てきて給仕をする必要はない、と向日葵は思っているのだが、とうの椿はそう思っていないようである。いつになく蒼白い顔をして目を白黒させている。
椿がその場に膝をついた。そして深々と頭を下げる。
「新年明けましておめでとうございます。僕がこのたび向日葵さんと結婚させていただきました椿です。初対面からほんまにすみません……」
それを聞いてようやくなるほどと思った。向日葵からしたらこの年末年始は例年どおりで日常の延長線上にあるハレの日だったが、椿からしたら初めて池谷家で過ごす正月だ。普段は静岡におらずなかなか会えない親戚もいる。椿にとっては初対面の人間が大勢いるわけだ。
配慮が裏目に出てしまったようだ。普段はどんなに夜更かしをしても必ず朝六時に目を覚ましてしまう椿が今日は八時を回っても起きないので、大晦日から年越しにかけての騒ぎでよっぽど疲れたのだろうと思い、向日葵はあえて無言で離れを出たのだ。それでもきちんとした着物を着て寝癖を整えてきたところはさすがである。稔など大樹のジャージでごろごろしている。稔を恋い慕う女の子たちに見せてやりたい。
従姉妹たちが奇声を発した。
「ンンン! この子が噂の『椿くん』か! 可愛い!」
「ちょっと、この、おい! どこでこんな美形を!」
向日葵は椿が褒められるのが嬉しくてへらへらと笑って「だら?」と言ったが、椿は頭を下げたまま何も言わなかった。
亜樹子伯母が微笑んで声をかける。風貌は由樹子伯母によく似ているが、亜樹子のほうがおっとりしていて静かな人である。
「大丈夫だよ椿くん、落ち着いて、顔を上げて。誰も怒っちゃいないよ」
亜樹子の言葉を聞いて、椿はようやく顔を上げた。ほっと息をつく。
「どうせ大樹に振り回されてんだら」
「おじさんたちにむりやり飲ませられてない?」
「せっかくのお正月なんだし好きなだけ寝たらいいさ」
「昨日も大泉寺行ったんだら?」
「大丈夫? 顔色悪くない?」
みんなが口々に慰めやねぎらいの言葉をかけてくれる。それでも椿の頬の緊張は解けない。彼としたら大失態のようだ。ここは池谷家であって九条家ではないから、もっとリラックスしてほしい。
「ほんますみません、僕、だらしない奴やと思われへんか不安で」
誰かが「関西弁ネイティブだ」と的はずれなことを言った。椿が自分で自分の口を押さえた。余計なことを、と向日葵は思った。
「結婚式、していませんし。皆様にどうご挨拶したものかとずっと考えておりました。それがこのようなことになり、たいへん申し訳ございません」
標準語なのか京都弁なのかよくわからないアクセントのたどたどしい台詞が出てきた。いよいよ不憫になってきたので向日葵は「もういいよ、だいじょうぶだよ」と言った。
「さ、おせち食べて。ずっと栗きんとんの話してたじゃん、食べなよ」
しかし承服してくれない人間もいたようだ。おそらくこの中でたった一人だけ、正樹である。
「まったくだ」
彼は割り箸を置いて不愉快を表明した。
「そんな態度で何が本家の婿か、情けない。本来なら玄関に立ってみんなを迎え入れなければならないところだろう」
亜樹子が「ちょっと正樹」と口を出す。
「あんた何言ってんの?」
すると正樹はこんなことを言い出した。
「桂子ちゃんはそうしてる。本家の嫁である桂子ちゃんがしてきたことを、婿殿がしないわけにはいかないだろう」
母桂子が「私!?」とすっとんきょうな声を出す。
「無意識だった。お客さんが好きだからかな。もしくは秋田の田舎がそういうところだったからかも? 別にわざわざ親戚の皆様がどうとか嫁の立場だからどうとか考えてたわけじゃありません。今日も作り置きのおせちと出前の寿司で何のお手間もせずすみませんって感じだし」
正樹の硬い態度のせいで空気が凍りついている。みんながみんな緊張した目で正樹を見ている。
「何なんだい、君は」
都会暮らしですっかり静岡訛りの抜けた言葉で、彼は言う。
「ある日突然現れて、うちの向日葵と結婚して。しかもろくに働きもせずばあちゃんの店を乗っ取ろうとしているらしいじゃないか。この甘えた態度にへらへらした振る舞い、気に食わない。うちの向日葵を何だと思っているんだ、どんな卑怯な手を使って奪ったんだ、言ってみろ」
唖然としてしまった。まさかこんな大勢の前で晒し者にするかのような形で例の話とやらを始めるとは思っていなかった。今日ほどこの頭が固くて過保護な叔父を嫌いだと思ったことはない。
向日葵は立ち上がった。
椿を守らなければ。
今なのだ。今行動することが守るということなのだ。戦わなければならない。彼の平和な暮らしのために、彼との平和な暮らしのために、今こそ何かをしなければならない。
向日葵が口を開く前に、椿が口を開いた。
「僕はとてもたくさんのものを捨ててきました」
そこにいるのは、かよわくてかわいらしくはかなげな椿ではなかった。意思を持った二十二歳の青年だった。
「向日葵さんと暮らすために。家督、親、財産、高校や大学の卒業証書、本棚、パソコンのデータ、名前まで捨ててきました。これから先もどんなものを失っても向日葵さんと一緒にいられれば生きていけると信じて今ここにいます。そういう覚悟で、今、ここにいます」
しっかりとした、まっすぐな目と姿勢だった。
「教えてください。あと何を捨てて何を得れば認めていただけますか。僕がどうしたらあなたは納得なさるのか、どうぞご教授ください」
そして、深く頭を下げた。
向日葵は湧き上がる衝動のままに怒鳴った。
「わたしと椿くんがどんな思いで暮らしてるかも知らねぇで余計なこと言うな! わたしら三年も前から付き合ってんだよ、なんでわたしが叔父さんにお付き合いしてる人がいることを伝えなかったんかよく考えろ! ばーか!」
正樹が悄然とした顔をした。薄く口を開け、沈黙した。
悔しさのあまり泣き出した向日葵の肩を、また別の従姉が抱いてくれた。味方がいる。ほっとする。
「わたしが椿くんがだいすきなんだよぉ……」
椿の背後で急にふすまが開いた。
我に返ってそちらを見ると、椿の百倍くらいだらしない兄大樹が、よれよれのトレーナーにぼさぼさの頭でそこに立っていた。
「なにこの空気。正月から胸糞悪ィんですけど」
そして椿の隣に腰を下ろす。
「なんかよくわかんねーけど椿に売られた喧嘩なら俺が買うぜ」
正樹はそれ以上何も言わなかった。
一族の長老である祖母花代が「もういいら」と言ってテーブルをとんとんと叩く。
「あんたの負けだよ、正樹」
「母さん……」
「私が認めた婿殿だ。出ていったお前がつべこべ言うんじゃない」
母親にそう言われて、正樹がうなだれた。
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