第4話・雪と撫子の消失

 翌日の朝。私は、ベッドの中で人生最大の葛藤をした。議題はもちろん、学校に行くべきか、行かないべきか。


 本心を言えば、もう彼女たちに会いたくない。この傷を見た鈴草すずくささんは、何を思い、何をするのだろう。


 やっぱり、嗤われるのだろうか。嫌だ。嫌だ。もう思考を放棄して、今日を消したい。


 こんなにも決定的に”日々”を壊す出来事が起きてしまった。こんな馬鹿げた傷を作った数日前の自分を恨む。私の馬鹿。なんでこんなことをしてしまったの。これじゃあ、私の”日々”を壊したのは、私自身じゃない。ああ、本当に嫌だ。


 私は、ベッドの中でどこまでもどこまでも、思考と後悔の渦に飲まれていった。


 でもその日、結局私は学校に行った。 


 ここで休んでしまえば、今日だけは楽になるだろう。でも、明日の朝もまた同じ葛藤を繰り返さなくてはいけない。


 そうやって毎日毎日葛藤を繰り返す勇気と覚悟は私には無かったし、そうやって日々が過ぎるうちに葛藤を放棄して、いつかは時の止まった日々を過ごすようになってしまうのではないかという恐怖もあった。


 今日学校に行かなければ、多分だけど明日も学校に行けない。明日も行けなければ、明後日はもっと行けない。彼女らに会わない時間が続けば続くほど、次会った時に何が起こるのか、悪い想像ばかりしてしまって、学校に行けなくなる。


 結局私は、私の気持ちよりも、私の”日々”と「役割」を優先したのだ。


 こういうわけで、私は自分でも嫌になるほどに打算的な理由で、学校に行った。自分のことなのに、自分の気持ちよりも事実の損得天秤で行動を決めてしまう自分に、嫌悪を超える他人感を感じながら。


 でも、その日、鈴草すずくささんは学校に来なかった。




**********



  

 逃げ出したい。いや、今、私は逃げている。脳裏にはあの光景が焼き付いてしまって、離れない。


 学校の廊下を、全速力で走り抜ける。いつも使っている昇降口が、どこまでも遠い。息が切れ、先生に見つかったら絶対に怒られるだろうけど、そんなことは関係ない。走る。


 ”そういうこと”を胡茅ごぼうさんがしているという予想はあった。でも、そういった予想と、実際に見たのでは、圧倒的な差がある。それを見て、初めて事実が確定する。してしまう。


 今まで私たちが行ってきたいじめは、決して変わらない”日々”ではなかった。私たちは、たいして何も変わらなかったのかもしれない。でも、胡茅ごぼうさんは違った。私たちのいじめは確実に、着実に胡茅ごぼうさんの心を傷つけていたのだ。


 滑り込むようにして昇降口に到着した私は、靴を乱暴に取り出して床に叩きつけ、上履きを棚に詰め込む。靴をつま先に引っかけたまま、逃げるようにして外に飛び出す。


 天高い太陽が、私を責めるように容赦なく照り付ける。街路樹で求婚に勤しむ蝉の声も非難轟々。分かっている。何もかも、私が悪い。楽な、空虚な”日々”に身をゆだね、無意識に人を傷つけてきた。




 その翌日。私は、学校に行かなかった。行けなかった。私は、卑怯だ。好きなだけいじめておいて、自分がその数千分の、数万分の一でも傷ついたら、現実から逃げる。


 私は、ずるくて、卑しくて、なんとも空虚で、惨めな人間。


 学校に行って、胡茅ごぼうさんに謝りたい。謝って済むものでないことは分かっている。でも、できる限り謝りたい。


 でも、多分私はそれをできない。私は、弱い。こんなことがあっても、私は私の”日々”を変えられない。


 胡茅ごぼうさんに対する申し訳なさ、現実を見た戸惑い、逃げ出した自分への嫌悪、今日学校へ行けなかった自分への怒り。感情が入り混じって、どす黒くなって、私のお腹を蝕んでいく。このまま、このブラックホールに飲まれて消えてしまいたい。


 でも、最後の勇気。それを勇気と呼ぶにはあまりに小さいし、下品だけれど、私が持っていた、最低限の人としての動機。明日は、学校に行こう。明日は夏期講習前期の最終日。学校に行って……”日々”を少しでも変えよう。

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