第3話・雪の諦め

 私は、いつもより小さな歩幅で、1階端のトイレに向かっている。授業の最後に、鈴草すずくささんに呼び出されたからだ。


 いつも自分をいじめている人と、恐らくはふたりきりで会う。得も言えぬ緊張に、無意識的に鞄を持つ手に力が入る。


 緊張は、これから何をされるんだろうという恐怖心から来ているのだと思う。でも、それが全部じゃない。こういった部分は自分で自分が嫌になるのだけれど、一番怖いのは、私がいじめられるこの日々が急変してしまうことだ。


 トイレに鈴草すずくささんだけではなく唐科からしなさんや常盤ときわさんもいて、3人から暴行を受けたって別にいいと思っている。もちろん痛いのは嫌だし、そういった暴力が続けば心は壊れてしまうだろうけど、一番嫌なのはそこじゃない。そうやってエスカレートしたいじめが発覚して、それで大人を交えた面倒な事態に発展することだ。


 私はそんなことを望んでいない。私がいじめられ続けて、けなされ続けて、心が傷付き続けても、それが日常なら、もうそれで良いと思っている。私が孤独を我慢していれば日々が回るなら、それでいい。諦めている。


 諦めないと、心が――、いや、なんでもない。


 トイレの前に着いた私は、嫌が応にも震える手足を動かして扉を開ける。休校期間も相まって、ぜんぜん使われていないのだろう。空間に満ちた、安っぽい芳香剤の匂いが鼻をかすめる。


 なかに入ると、ひんやりした空気が漂っていた。そして、そこには鈴草すずくささんがいた。ひとりでいた。


 思考が止まりそうな私を、背後で閉まったドアの音が叩き起こす。


 お互い、何も言わない。言えない。鈴草すずくささんは、私の目を見ているようで見ていない。私の胸元あたりをじっと見つめている。褒められたことではないが、この半年で、人の視線が向いている先が細かに分かるようになった。今、鈴草すずくささんは、私の目を見ていない。


 沈黙のなかで、緊張が溢れてゆく。


 換気扇の音がうるさい。


 自分の心音が、体中に響くのが聞こえる――




 「長袖なのね」


 沈黙を破ったのは、鈴草すずくささんだった。言ったのはたったその一言だったが、呼ばれた訳を察するには十分だった。


 私は何も言えない。左手をグッと握りしめ、うつむく。


 別に、手首のこの傷を見せるのは良い。でも、それでどうなる?いじめは無くなるのだろうか。そんな平和な道をたどるだろうか。こんな傷、笑われ、嘲られ、馬鹿にされ、貶され、軽蔑され、3人の悪口のネタになるだけなんじゃないか。


 私は現状に絶望して、諦めているけれど、それは事態の悪化の容認を意味していない。良くも悪くも、現状の維持ならそれで良い。でも、これ以上心に蓄積される傷は、増えて欲しくない。


 答えない私に、鈴草すずくささんも口をつぐむ。


 無言のまま、鈴草すずくささんが歩み寄ってくる。退きたいけど、脚がコンクリで固められたように全く動かない。ああ、ダメだ。


 「暑くないの?」


 鈴草すずくささん、その進め方はやめてください。外堀から徐々に、詰めないでください。いつか辿り着く話の核心に耐えられるか分からない私を、いたぶらないで。


 私は、答えない。左手をより強く握りしめ、体にグッと引き寄せる。私の無意識が鈴草すずくささんに伝わったのだろう、彼女の視線が私の左手首に向けられている。


 「それは、”そういうこと”なの?」


 無理。その質問には答えられない。自分の足元を、何も無いのに凝視する。自分の呼吸音がうるさい。


 鈴草すずくささんが、さらに歩み寄ってくる。彼女の呼吸音も聞こえる距離。


 「ねえ。答えて」


 緊張と我慢が、喉をグイグイ押し上げてくる。気持ち悪い。吐きそうだ。頭がグルグル回って、血液が足りないのを感じる。過呼吸になっているのが分かる。手足から血が引いて、頭には酸素が届かず、今にも倒れそう。


 耐えられない。やめて。やめて。やめて……。思考が、無くなっていく。


 次の瞬間、私の左手が、私のものではなくなった。勝手に動いた。


 いや、実際はそうではなかった。でも、そう気が付いたのは手が勝手に動いた後のこと。私の左手は鈴草すずくささんに握られ、今にも袖のボタンが外されそうになっていた。


 逃げなきゃ。その前に手を引かなきゃ。でも、手に、腕に力が入らない。神経がプツリと切れてしまったかのように、全く動かない。


 動かないのは、恐怖によるものなのか、それとも別の要因があるのか、分からない。いじめの続く日々の中で、私の彼女に対する潜在的な反抗心が消し去られてしまったのだろうか。あるいは、心の奥底、私自身も分からないところでは、この傷を誰かに見つけてほしいと願っているのか。


 私は、誰かの腕がそうされているかのように、どこか俯瞰した感覚で自分の左手首を眺めている。鈴草すずくささんが袖のボタンを外し、袖をまくって、手首を顕わにする。


 ああ、この瞬間、何かが決定的に変わってしまったのだろう。そんな運命の流れが変わる瞬間を、聴いた気がした。


 鈴草すずくささんは、私の左手首を凝視したまま、固まっている。正確に言えば、彼女が見ているのは私の左手首の上の、赤黒い軌跡。


 そうして数秒経つと、鈴草すずくささんは私の手を放し、それと同時に駆けてトイレを出て行った。その間、ふたりとも無言。彼女が駆けていって巻いた空気が左手首の軌跡を撫で、ピリリと痺れが走る。


 私は放心したまま袖を直し、ボタンをはめる。そして、ふらふらした足どりで家路に着いた。

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